第6話 呼び慣れない名前
(緊張するなぁ……)
彼の指定した待ち合わせ場所はお昼休みに使った空き教室だった。扉に手を掛ける寸前で、これから話す内容のことを考えてしまう。
罰ゲームだと思っていたとはいえ、一度わたしは受け入れたのだ。それなのに自分勝手な気持ちで一方的に彼を傷付けるわたしは罵られても仕方ない。
(どうやって話そう?)
昼休みが終わった後、ずっと考えていたというのにまだ話が纏まっていない。だからこそ余計に気が重くなる。
そもそもわたし如きが葉山くんを振ってしまっていいのだろうかという疑問まで湧き出てくる始末だ。だけど、こうやってなぁなぁにしようとしたせいで、後手後手の対応になっているのだ。だからこそ、ここで自分の意思をしっかり伝えなければならない。
――女は度胸なんだから!
ヨシッ、と息巻いたところで突然目の前の扉が開いた。
「うわっ!」
咄嗟のこととはいえ、なんでここで女の子らしく『きゃぁ』と言えないのだろう。自分が嫌になってしまう。扉を開けた葉山くんはキョトンとした顔でこちらを見た。
「教室の前でずっと立っている影が見えたから開けちゃったんだけどビックリさせたね」
「ううん。こっちこそ、大げさに叫んじゃってごめんね。恥ずかしいな」
「いや、大丈夫だよ。それよりどうして入ってこなかったの?」
彼に促されるまま教室に入ると昼休み同様、部屋の鍵を掛けていた。これでこの空間はわたし達、二人きりなのだと思うと無意識のうちにゴクリと唾を飲み込む。
「なんだか変に緊張しちゃって。葉山くんは部活の時間は大丈夫?」
「…………一花。昼休みに名前で呼んで欲しい、って言わなかった?」
ああ、しまった。別れ話のことで頭がいっぱいになっていたせいで、ついつい彼の希望に沿えなかった。
心の中でならいつも通りで構わないだろうという慢心が口からポロリと出てしまった。
「まだ呼び慣れてなくて……」
「それなら慣れるといいよ。ほら、呼んでみて」
ずいっと顔を近付けられるとあまりの距離感のなさにたじろいで一歩下がるが――今度は腰を引き寄せてきたのだ。そのままコツンとおでこをくっつけられれば、ぶわりと頰に熱が集中する。
「は、はっ、はやっ、ま、くんっ! ちかっ、近いっ!」
「だから『蓮』だよ。ふふ。近いからかな。一花の心臓の音が聞こえてくるよ。ドクドクってすごく早いね」
心臓の音まで聞かれる距離なのか!
無理。無理。無理。羞恥でどうにかなってしまう。
お願いだから離れてほしいと必死に両手で彼の胸を押しているのにビクともしない。こんなことなら日頃鍛えていればよかったと心の底から後悔した。
「あとで、よぶから、いったん……はなれてっ!」
「だーめ。それにこんなことで顔を真っ赤にしてたらこの先もたないよ? ほら、たった一言で良いんだ。良い子の一花なら呼べるでしょ」
混乱したまま彼の言う通り名前を呼ぼうとした。その途端、かぷりと耳を軽く噛まれた。小さく洩れた悲鳴は自分でも信じられない程、甘いものだった。
「み、み……」
「一花が中々呼んでくれないからだよ」
嘘つき。呼ぼうとしたことくらい分かったはずだ。それなのにこんなことするなんてひどい。情けなくもじわりと涙が溢れそうになる。
「……意地悪しないで」
ぽつりと力なく呟く。その途端、頭上から溜息を吐かれ、わたしの肩にぽすんと顔を埋めた。
「煽っているの?」
そんなわけない。この状況で誰が煽れるというのか。ぶんぶんと勢いよく首を横に振って否定する。
「ちがっ」
「ねぇ、一花。男ってキミが思うより馬鹿だから絶対に俺以外の前でそんなこと言わないでね」
「……蓮くんだけだよ」
こんなこと仕出かす相手は彼しかいない。そう告げれば彼は思い切り抱きしめてきた。先程とは違う衝動に任せた行為についていくことが出来ない。
「あーあ。俺の彼女が可愛い」
――そうだ。別れ話をしにきたんだ。『彼女』という言葉に、はっとする。
慌てて離れようとするのにもうちょっとだけ、と腕の拘束を緩める気配はない。まるで堅牢な檻に閉じ込められた気分だ。
(はや……じゃなかった。蓮くんも心臓の音が早い)
普段運動しているからか彼の体躯は見た目よりもガッシリとしなやかな筋肉がついている。厚みのある逞しい鍛えられた身体に密着していれば石鹸とシトラスの匂いが鼻に届く。
サラサラの柔らかい髪は首筋を擽り、彼の息遣いも聞こえる。普段こんなに近くで人と接することはない。それどころかクラスメイトと満足に話すこともないわたしには刺激が強すぎる。なんとか早く離れてほしくてもう一度名前を呼べば、彼は満足そうに笑った気配がした。
「もっと呼んで。一花に名前で呼ばれるとすごく嬉しい」
「あ、あのっ、呼ぶから、とりあえず離して?」
「だーめ。せっかく触れられたんだもん。もっと一花のこと堪能したい」
その言葉通りグリグリと肩に顔を押しつけられた。
(顔、見られなくて良かった)
きっと今情けない顔になっている。これだからファンクラブもある程のモテ男は。そうやって女の子達を誑かしているのか。
わたしには無理。圧倒的に経験値が足りなさ過ぎる。こんなのヒノキの棒で魔王に立ち向かうようなものだ。
「れんくん、お願い」
「ねぇ、俺が一花のお願いに弱いの分かっててやってる?」
「……知らない」
知らない。本当にそんなの知らない。
わたし程度のレベルでそんな上級な呪文知ってたところで使えるわけないじゃないか。
「まぁ、いいか」
ゆっくりと名残惜しそうに離れてくれたことに安堵する――そうして油断したところで彼は平然と今日一番の爆弾を落とすのだ。
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