第26話 大きな溝

「カイちゃんはここに残ってもいいんだよ?」

「村を危機を放ってはおけないよ。僕だからこそ出来ることもあるかもしれないしね」


 深雪と魁人は、椿の簪と絵巻物を風呂敷に来るんで、冬芽神社の蔵を出た。村の危機を救いたいという思いは深雪も同じだが、懸念はむしろ仲間であるはずの村民たちだった。深雪は自我を保ち続けている魁人のことを氷鬼ではなく、伊予札魁人個人として捉えているが、他の人達もそう捉えてくれるとは限らない。特に五十年前に実際に氷鬼と戦った世代は覚悟が決まっていて迷いがない。例え意思の疎通が図れようとも、問答無用で魁人を攻撃する可能性がある。氷鬼となってしまった時点で明るい未来はないのかもしれない。それでも自我を持ったまま、見知った人々に怪物と扱われる結末はあまりにも悲しすぎる。


「心配してくれてありがとう。深雪ちゃん」


 その言葉は優しくも力強い。そうなる可能性を感じながらも、魁人はすでに覚悟を決めているようだった。まだ十六歳の少年に、何て残酷な運命を強いるのか。父親である純道を喪い、魁人まで喪った時、自分は絶えられるだろうか。深雪は凍てつくような寒さに身震いした。


「止まって深雪ちゃん」

「誰かいるの?」


 先を行く魁人が境内で足を止める。深雪が目を凝らすと、暗い鳥居の向こう側に薄らと人影が見えたが、個人を特定することは出来なかった。


「あれは閑林さん。いや、閑林さんの姿をした氷鬼だ」


 魁人は、暗がりの中でもその正体を見抜いていた。手持ちのライトで照らした先に立っていたのは、閑林氷鬼だった。その姿を見た瞬間、深雪の呼吸が乱れる。閑林氷鬼は夕方にも冬芽神社を襲撃し、父の純道を殺害した仇だ。亡くなった父親の姿が脳裏を過る。


「落ち着いて、深雪ちゃん」


 深雪の目を真っ直ぐ見据えて魁人は静かに頬に触れた。冷たい魁人の手が図らずも、興奮気味の深雪を冷静にさせる。


「あの氷鬼は僕がどうにかする。深雪ちゃんのことは僕が守るから」

「カイちゃん」

「巻き込まれないように下がっていて」


 魁人は持っていた懐中電灯を深雪に渡した。氷鬼としての能力なのだろう。己がそうであると自覚してから夜目が利くようになり、暗がりの中でも明確に閑林氷鬼の姿を捉えることが出来ていた。今の魁人に明かりはいらない。自分の身を守るために懐中電灯は深雪が持っているべきだ。


 深雪を下がらせ、自身もゆっくり前へ出ることで、深雪が巻き込まれないように気を配る。閑林氷鬼も魁人が氷鬼であることを把握し、警戒しているのだろう。相手が二人だからと安易に仕掛けてはこず、その場で冷静に様子を伺っている。


「コッチガワニコイ」


 閑林氷鬼が音を発する。閑林氷鬼に自我が存在するのではなく、寒凍霊のメッセージを機械的に代読しているだけだ。


「なるほど。だから僕の前に現れたのか」


 一度目の襲撃で、暖火の儀の中心人物である冬芽宮司は殺害されている。今更どうして閑林氷鬼が冬芽神社を訪れたのか。重要な意味を持つであろう椿の簪が目当てかとも思ったが、口振りから察するに目的は氷鬼化した魁人の勧誘だったようだ。


「答えはノーだ」


 即答だった。例えこの体が氷で出来ていようとも、心まで凍り付いてはいない。大好きな深雪や、肉親である父親を救うことが出来るなら、戦う覚悟は出来ている。氷鬼からの勧誘。ましてや深雪の父親の命を奪った氷鬼からの勧誘など受け入れるはずがない。


「ナラバチンモクシテイロ」

「それは、聞いてないな……」


 仲間にならないのなら、氷鬼である魁人は厄介な敵に他ならない。閑林氷鬼は即座に戦闘態勢に入り、右手に突然金属製の長いショベルが出現。尖端の金属部が瞬く間に凍り付き、両刃の氷の斧を形成した。森尾氷鬼の軽自動車、根来氷鬼の路線バス、鍋島氷鬼のスキー装備一式のように、氷鬼は亡くなる直前の装備を伴い武器とする傾向がある。屋根からの雪下ろし中の事故で亡くなった閑林氷鬼にとってのそれは、雪下ろしに使っていた丈夫なショベルだ。冷気には耐性があるが、氷の斧で頭をかち割れたら流石にどうなってしまうか分からない。深雪を守るためにも一歩も退くことは出来ないが、元が一般的な高校生に過ぎず、氷鬼としての能力の使い方もまだ理解出来ていない魁人にとっては、あまりに分の悪い勝負だった。


「……これは、首ごと持っていかれるな」


 雪面を滑るようにして急接近してきた閑林氷鬼が、魁人目掛けて氷の斧で薙いだ。魁人は咄嗟にバックステップを踏みそれを回避。眼前を氷の刃が通過していった。風切り音には重厚感があり、直撃していれば無事では済まなかっただろう。生前の老体を感じさせない圧倒的な怪力だ。外見は老齢の男性でも、氷の体はもたらすフィジカルは決して外見年齢にとらわれない。だが、斧を大振りした隙は大きい。


「そこだ!」


 回避の直後、魁人は咄嗟に右足で強烈に閑林氷鬼を足払いした。損傷こそ与えられなかったが、斧を振り抜いた直後だったこともあり、バランスを崩すには十分だった。右側に転倒しかけた閑林氷鬼は咄嗟に氷の斧を地面に刺して体を安定させようとしたが、その瞬間を狙って魁人が全体重を乗せた体当たりでぶつかる。ただでさえバランスを崩しかけていた閑林氷鬼は今度こそ完全に転倒した。


 魁人は戦いの中で成長している。氷鬼特有の氷や冷気を操る能力は扱えないが、氷鬼となったことで向上した身体能力の使い方には体が徐々に慣れてきている。斧の一撃の回避は人間時代なら間に合わってなかった可能性が高いし、痛みを感じない氷の体であると理解し始めたことで、生身なら自壊を恐れて無意識にセーブしていたであろう勢いでも躊躇なく、足払いや体当たりを仕掛けることが出来た。


「これで終わりだ。閑林さん」


 今が好機だ。魁人は転倒した閑林氷鬼に馬乗りになり、拳を振り上げた。氷で出来た拳は、そのまま振り下ろすだけでも鈍器足り得る。決着とまではいかなくとも、かなりのダメージを与えられるはずだ。


 ――やれるのか? 本当に僕にやれるのか。


 振り上げた拳は延々と視界の端を漂っている。相手が氷鬼であることは頭では理解出来る。純道宮司の命を奪った仇で、自身も攻撃を仕掛けられた。容赦出来るような相手ではない。しかし、見下ろした先にいるのは、小柄な老人である閑林道夫以外の何物でもない。その顔に向けて即座に拳を振り下ろせるのか? 魁人の中に葛藤が生じる。これまでの行動は攻撃を受けた直後の反撃。咄嗟に体が動いた正当防衛的な側面が強い。


 覚悟は決めたはずだった。それなのに攻撃に転じて拳を振り上げた瞬間、肉体に迷いが生じた。心優しい性格は、氷鬼になったからといって即座に環境に適応できるものではない。


「しまった……」

「カイちゃん!」


 戦闘においては一瞬の隙が命取りになった。突然閑林氷鬼の腹部から太い氷柱が生えて、麟太郎の腹部を直撃。閑林氷鬼は体制を立て直し、浮き上がった魁人の体を即座に殴り飛ばした。転倒した魁人の体は雪面を転がる。


 閑林氷鬼は氷の斧を再び手に取り、地面に伏した魁人を見下ろす。立ち位置が完全に逆転した。感情を持たない氷の人形である閑林氷鬼と、暴力に躊躇いを持った魁人の間には、クレバスよりも深い溝が存在していた。


「コレデオワリダ」


 閑林氷鬼が氷の斧を振り上げた。痛みは無くとも恐怖は感じる。即座に回避行動を取れず、魁人は思わず目を瞑ってしまう。人間らしく、それだけに致命的な隙だった。

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