第2話 憐憫

あなたは太古の地中海にいる。

貿易船の船長だ。

イベリア半島からはるばるシチリア島まで、何日もかけて、オールを漕ぐ奴隷を怒鳴りつけ、反乱を警戒しながら、粗末なガレー船で航海してきた。積荷はオリーブが50箱だ。

50箱の小麦と交換の約束だ。

シチリア島につくと、小麦は30箱しか用意されていなかった。自分達も奴隷も食糧を必要とする。航海中に自分が病や反乱で死ぬ可能性もあった。故郷は50箱の小麦をあてにして生活している。


小麦を50箱持って帰れないのは困るのだ。


あなたは仕方ありませんねと、馬鹿正直にオリーブ30箱と小麦30箱を交換して帰るだろうか。

不足の20箱に釣り合う新しい奴隷を連れて、オリーブも50箱持って帰る方が賢くないだろうか。

そのうち、代金を最初から相手の生命にするのが最も「得をする」ということにあなたは気づく。


こうして、あなたは原初の海賊となった。


海賊は最初から盗人というわけではなく、こういったトラブルなどで不正な解を得て、誰にでも備わってる所有権と信用の概念を自己破壊し、反社会的行為を自己正当化していく過程がある。


暴力や欺瞞はストレスの連続で、刹那的な快楽に見合う見返りはトータルで見れば大赤字だ。社会的な承認欲求も満たせず、惨めに孤独に不潔な場所で死んでいく。


こんな糞みたいな人生は真っ平だ。

そう思ったものが思いのほか多かった。


だから人形病禍の終末において、犯罪者も、そうではないものも、ほとんどの人間が人形になり、大部分の生き残りも人形になることを選んだ。


生老病死の四苦を捨てるお手軽な手段がそこかしこに溢れている。飢えも渇きも、暑さ寒さも感じない強靭な肉体。死ぬこともなく楽しい思い出に浸って生きられる。


そんな時代において、なおも暴力を振るい、わずかに残った生存者へ略奪を試みようとした海賊とはなんなのか。


それは、私達と同じだ。明確な目的があるわけではない。自分ではない何かになるのが怖くて、すぐそこに死よりも魅力的な救済があると知っていても、人間であることを惰性と恐怖で手放すことができなかった。そして私たちのように漁業や農耕などの生産手段を再獲得する機会や知性に恵まれず、略奪するしかなくなった。それだけのことだ。


そんな彼らの船が人形達に襲われるのは当然だった。暴力という病に囚われ未来の無い人々は治療されなければ「可哀想」なのだから。


本質的には海賊と私たちにそう大きな違いがないことはこうして確認できた。


では私たちが人形の治療対象にならないという保証はあるのだろうか。暴力的でなかったら大丈夫か。私たちは、病んでいる、可哀想な人間達に見えないのか。


世界が崩壊していく時に、「誰か助けてくれ」と一度も願わなかったのか。


考えたくもない。

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