終末の船泥棒

中埜長治

第1話 弔辞

「母、塩井オルガは樺太のユジノサハリンスクという町で生まれました。

生前、樺太での思い出をほとんど語ってくれませんでした。彼女の母親の名前も、私は知りません。それは、私に語りたくないのではなく、村の発展に貢献し、女手一つで私を育てるために、思い出に浸っている暇は許されないという自戒からくるものでした。

母さん。私は、あなたのことをもっと知りたかった。あなたの思い出を聴きたかった。

私には父が2人います。1人は愛すべき父、塩井優。1人は名も知らない、知りたくもない海賊。どちらも今はあの世にいます。私を見るたびに、母は海賊が自らにした仕打ちを思い出したことでしょう。しかし彼女は私を疎むことなく、塩井の長男として、正面から育ててくれました。

まるで孝行できなかったことが悔やんでも悔やみきれません。せめてもの恩に報いるために、本日、私は彼女をあの世へ送り出します。どうか皆さま、お力添えをよろしくお願いします」


急がないとオルガはあの世の入り口で土に帰ることになる。だが弔辞は重要だ。


土に返さずに旅立たせるならば、亡骸が墓に眠ることがない以上、それは文字通り今生の別れだ。


ユーリが弔辞を終わらせたくないことは皆もわかっている。みんなオルガの世話になったんだ。しかし命がそうであるように何事もいつかは終わる。終わらせないといけない。


弔辞が終わり、灰色の男衆でオルガの亡骸をソリに乗せる。

境界守の中谷を先頭に、雪の上を男衆に引かれ、檻の林にできた細い道を行く。

あの世とこの世の最も薄い場所だ。

境界はたった1個の檻。

外では、灰色の死者が3人ほどこちらを見て佇んでいる。

檻の幅はソリがギリギリ通れるくらいだ。

男衆でソリを押し、檻の中から亡骸を外に出す。

死者は亡骸を眺めているが、特別興味を持っている風ではない。

「トマト泥棒は檻から出た。マサナリは外に出た。デイスイして、帰る気がない。このままでは風邪を引く。連れて帰ってくれ」

中谷はさも迷惑そうなジェスチャーのあとに亡骸を指差し、死者に呼びかける。

葬儀には何度も出てるが、どういう単語選びなのかいまだによくわからない。

マサナリとはは誰か。デイスイとは何か。

死者たちはオルガの亡骸の周りに立ち、その亡骸にベッタリと触り揺する。よく見ると死者の手とオルガの身体は癒着して境界がなくなっている。

「風邪を引くよ」

「身体に悪い」

「こんなに飲んじゃって」

口々にオルガに呼びかけて手を離すと、亡骸が痙攣する。痙攣がやむと顔を自分の手で擦り、痒そうに首筋をかきながら死者たちに語りかける。

「ドブレウトロ。ヤベドゥブポーデン」

そんな風に聞こえた。ロシア語だろう。

オルガは立ち上がり、こちらを一瞥することもなく死者たちと外へ行ってしまった。


ユーリは母親と最期の言葉を交わせる淡い期待があったのだろうが、起きた時にはきっとロシア語しか喋れないだろうことも承知していた。ユーリは名前と見た目だけでロシア語は喋れない。


生前、オルガが息子に故郷の事を語らなかったのは忙しいからだけではない。楽しかったことを思い出すと潰れてしまうからだ。私のように過去の世界を知るものはみんな同じだ。まして樺太は国家の終末と人類の終末が重なったのだ。死者になって思い出すのは樺太が平和だった大昔だろう。


彼女はその死によって自由になり、これから思い出の世界を歩いていく。過去より今が優れていることがあるとしたら、たった一つ、死後の救済が物理的に保証されていることぐらいだろう。


ユーリのような終末後に生まれた世代が死に、どんな死者になるのかを想像すると気の毒で仕方ない。彼らに死後歩くに足る幸福な時間を与えてやれた気はまるでしていない。


終末時に子供だったオルガや私だけが、かろうじて過去の平和と豊かさをわずかに知るばかりだ。


ユーリはオルガが見えなくなるまで佇んでいた。

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