第25話 それぞれの答え

 彩芽と関口を含めた洋菓子、ワインバイヤー打ち合わせ会議が終わった直後。関口は、足早にその場を去ろうとする。その背中へ、彩芽は思いきって声をかけた。

 

「関口君。ちょっとだけ、時間ある?」

 呼び止められた関口の肩はビクッと飛び上がりながらも、ゆっくり振り返ってくる。目尻を下げて困ったような笑みを浮かべていた。

「僕も、話したいと思っていたんだ」

 

 休憩室へと向かい、そのまま向かい合って席に着いた。彩芽はふうっと息を調えて、机に額がくっつきそうな程、頭を下げていた。関口は、突然のことで何も言えなかった。

「この前は、傷つけるようなことを言ってしまって、ごめんなさい」

 頭を下げたせいで彩芽の髪は乱れる。それを手で直している彩芽は、伏し目がちでいつものような明るさは消えている。

「私、全然気付かなくて……。色々な人から鈍感だと指摘され、やっとそうなのかもしれないと自覚し始めたとろです……。本当に私は、自分のことしか考えていなかったんだなと、視野が狭かったんだなと、反省しています」

 ごめんなさいと頭を下げ続ける彩芽を前に、関口の胸に鈍い痛みがじわりと襲ってくる。だから、知られたくなかったのだと、関口は思わずにいられなかった。そんな顔にさせたくなかったと心から思う。

 

「自分の中では、心の整理はついていると思っていたんだ。だから、いつも高島さんの話に出てくる相手と進展があっても、冷静に受けとめられると思っていた。だけど、あまりに急に結婚ってきたから、動揺を隠せなかった。僕の方こそ、こんな自分を隠し通せばよかったものを中途半端になってしまって、本当にごめん」

 彩芽は、ゆっくりと顔をあげて、言葉を選んでゆっくり紡いでいく。

「そんなこと……。私が、悪かったんだよ」

 これ以上、何と言えばわからず、彩芽はしゅんと縮こまるように萎んでいく。

 

「僕が勝手に好きになっただけの話だ。高島さんに、何の落ち度もないよ。こういう話って、そういうものだろ?」

 関口の問いかけに彩芽は頷いた。だが、関口にはわかった。そうは言っても、彩芽は自分を責めることをやめようとしないだろうということは。そういうところだと思う。真面目で、不器用なほど真っ直ぐなくせに、他人の気持ちに寄り添ってくれようとするところが、心の一番奥の柔らかいところを刺激してやまない。だから、好きになってしまったんだよと、言いたくなる。

 これじゃあ、自分の気持ちを整理するどころか女々しくなる一方だ。だったら、いっそのこと、と。そう思ったら、塞がれた道の奥に突如として、新たな道が目の前に現れた気がした。

  

「僕は僕の気のすむままにやらせて貰うよ。そしたら、罪悪感なんてなくなるだろ?」

 関口は、憑き物が落ちたような晴れ晴れとした笑顔になっていた。突然の変化に、彩芽に纏わりついていた罪悪感は取り払われて、いつも通りの透き通った丸い瞳を瞬かせ始める。

「どういうこと?」

「それは、聞かない方がいいと思うから、言わないよ。でも、高島さんは、これまで通り、僕を仕事仲間として受け入れてくれると嬉しい。よろしくお願いします」

 これは親愛の証として、握手だよと、吹っ切れたように関口が手を差し出してくる。彩芽は不思議に思いながらも、安堵して、つい笑ってしまった。彩芽が拒否する理由なんて何もない。これまで通りまた一緒に仕事が出きるのだと、喜びさえ覚え、その手をとった。

「こちらこそ、これからもよろしくお願いします」

「言いそびれていたけれど、結婚おめでとう」


 彩芽がゆっくりと目を見開きながら、手を離した。彩芽は、頬を朱に染めて綻んだ。

「ありがとう」

 そういう顔を近くで見られる。だから、僕は十分だ。関口は思う。

 

「それじゃあ、早速。仕事の話をしようか」


 いつも通りに戻った彩芽を前に、関口は自分の胸に思いを秘めた。

 僕は、諦めることを諦めたんだよ。

 それをはっきり伝えてしまえば、彩芽はまた思い悩んでしまうだろう? だから、今度こそ溢れないように密かに胸に秘めておくことにしたんだ。そうやっていたら、いつか本当に諦めがつくかもしれないし、そうならないかもしれない。どっちに転ぶかは、わからないけれど、しばらくはそうさせてもらうよ。

 仕事仲間でも、近くにいられる幸せくらいは、感じさせてもらっても、いいだろう?




 彩芽が残業を終えて、仕事の紙袋を下げて新宿駅へ向かう。時刻は二十二時少し前。

 今日は、店頭で客とアルバイト従業員間で問題が起き、その仲裁に入ってすっかり時間をとられてしまった。相手は、ブラックリスト入りしている客で、松越屋では有名クレーマー。いろいろな店頭を回っては、クレームをつけて、社員を呼べ、責任者を呼べと叫んでくる。クレーム対応には、多少なりとも慣れてはきたものの、やはりストレスには変わりない。ここ最近の忙しさも、冷たい風のせいか身に染みる。

 

 電車へ乗り込み、職場から離れていくほど、忘れていた空腹が舞い戻ってきていた。お腹がグーっと鳴る。この時間だと、陽斗はとっくに夕飯を済ませていることだろう。今から、どこかの店に入る元気もない。自宅駅前のコンビニでお弁当でも買って帰ろうか。考えてみれば、そんな日々の雑雑としたことに追われることがなかったのは、全部母のお陰だったのだと、痛感する。やはり、ずっと実家暮らしというのは、甘えが出てしまってよくないのだなと、今更ながら反省する。

 そうこうしているうちに最寄り駅に到着。そういえば、スマホをチェックしていなかったなと画面を灯すと、陽斗メッセージが入っていた。時間的に、仕事を終えてすぐくらいだろう。それを確認すれば、思い悩んでいた問題はきれいに解消されていた。彩芽は微笑み、家路を急いだ。


 玄関のドアを押すと、ふわっといい香りが漂った。

 ただいまの代わりに「いい匂い」と、溢れてしまう。すると、キッチンに立っていた陽斗の口からも、お帰りではなく「また、仕事持ち帰ってきたのかよ」と、実家にいたときよりも、口煩い挨拶が返ってきていた。

 面倒くさいなと思いながらも、にやついてしまうのは、幸せだと感じている証拠なのだろう。

 

「今回は、この前みたいな試食地獄じゃなくて、一つだけね。昨日お母さんたちに指摘されたことを伝えたら、関口君が、それならこれがいいって教えてくれたの。やっぱり、専門家は凄いね」

「ということは、ぎくしゃくは解消されたのか」

「お蔭様で」

 すっきりした笑顔でそういう彩芽に「それなら、よかった」と、言いながらテキパキ作業をしている陽斗。そこから、とてつもなくいい香りが漂う。吸い寄せられそうになったところで、陽斗は「もう遅いし、早く食べろよ」といいながら、お盆に乗せられたご飯がほわほわと湯気を立てながら、ダイニングテーブルに置かれた。

 サラダ、野菜たっぷりみそ汁、ロールキャベツ、つやつやの白米が乗っている。

 

「うわーおいしそう! 陽斗が、ご飯作れる人だったなんて、本当に意外。ずっと一緒にいたけど、未だに知らないところもあるものなんだね」

「俺は、彩芽のことは全部わかってるけどな」

「じゃあ、私が洗濯物に拘りがあるの知ってる? 洗濯物回すときは、タオルと洋服は別々にするのは、鉄則。干す順番も、もちろん決まってるんだから」

「へぇ。大雑把な彩芽がそんなことをするとは」

 大雑把というのは、余計よと言いながらも、彩芽は上機嫌のまま、ふふんと鼻を鳴らした。

「でしょ? お互いの知ってると思っていても、実は知らなかったこといっぱい、あるかもしれないね」

 彩芽は、そういってニコニコしながら席に座る。陽斗もつられて笑いながら向かいの席に座った。

「では、有り難くいただきます」

 

 ロールキャベツはトマト味になっていて、いい香りを漂わせている。空腹を助長させてくる一番の大物へ、彩芽は一番に口へ運んだ。濃厚な味わいが、口の中に肉汁と一緒にじゅわっと広がって、身体中に幸福感がめぐっていく。「おいしい!」大袈裟ではなく、本当に身体が叫んでいた。そんな彩芽の反応に陽斗は、得意気になる。

「食は日々の血肉になる。バランスよく食べないと、うまく身体は動かなくなる……って、昔教わったサッカーコーチの受け売り。料理は、気分転換にもなるし、嫌いじゃない」

「じゃあ、日々の担当は、陽斗が食事係で、私は洗濯係。これが基本で、あとはお互いの仕事の忙しさに応じて、臨機応変に対応するということで、どう?」

「異議なし」

 彩芽はよしと頷いて、満足そうに、白米へと手を伸ばしていく。

 陽斗は、彩芽の空腹が落ち着いたところを見計らって、実はだいぶ引っかかっているところへ意識を伸ばした。

 

「で? その関口とかいう奴にちゃんと、言うこと言ってきたのか?」

「陽斗に言われた通り、ちゃん話してきたよ」

 彩芽は、咀嚼しながら、関口もすっきりした顔をしていたし、これまで通りになったことをありのままに話して聞かせた。すべて話し終える頃には、お皿に乗っていた食事は、綺麗に空になっていた。

「ご馳走様でした」

 本当においしかったと、笑いながら彩芽が食器を運びに席を立ち、食器と食器がぶつかる音が響く。


 それを聞きながら、陽斗は頬杖をついて「何だよ、そいつ」と不貞腐れていた。

 その発言は、完全に宣戦布告とみて間違いないと思う。こっちの優しさでアドバイスしたのが、裏目に出てしまった。これは、早々に虫除けが必要だ。

 本当なら台場に行った時、渡しそびれたネックレスと一緒に指輪もと一瞬頭を掠めたが、そんなに急ぐことはないかと延期していた。だが、やっぱり渡しておくべきだったのかもしれない。隙だらけの彩芽に、虫除けは必需品だ。

 そんなことを考えていると片付け終えた彩芽が、自分の鞄をごそごそ漁りなら「何、拗ねてるのよ」と、こういうときばかり目敏く変化に気づく彩芽が言ってくる。

 これを説明してしまえば、また彩芽は自意識過剰になって、職場でうまくいかなくなるだろう。本当のことを伝えるのは、控えるしかない。だが、何かムカつく。

「何でもない」

「ふーん。そうは見えないけど」

「やっぱり、彩芽は鈍感だなと再認識してるところ」

「なんですって?」

 彩芽の目が一気に吊り上がらせて、精一杯このもやもやに蓋をしていく。すると、むくれた彩芽はノートパソコンを片手に、再び陽斗の前に座って電源を入れ始めていた。彩芽は先ほどの怒りを溜息に変えているところに、陽斗が水を差した。


「まだ仕事するの?」

「うん、ちょっとだけね」

「もう遅いんだし、ほどほどにしろよ」

 また口煩い姑のようになっていく陽斗から目を逸らして、急に思い出す。窓の奥にある実家のマンションを見つめる。

「それにしても、お母さんたち。また唐突に……どうしたんだろうね。心境の変化とか言ってたけど」


 母たちの宣言を思い出す。

 

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