第12話 ベルリンの壁4
「何で、そのことを知ってるの」
「私のマンションネットワークを舐めないでくれる? で? 相手は誰か聞いたの?」
歩美は、ふんっと鼻を鳴らす。
彩芽の丸々とさせた瞳の黒目がきょろきょろとあちこちへ飛ばしながら、しどろもどろに答えた。
「サッカークラブのマネージャーしてた、女の子……」
たぶんと添える。考えてみたら、後ろ姿だけで、相手の顔は見ていない。でも、確かに長い黒髪であったことは間違いない。サッカークラブに存在していた同世代の女子といえば、マネージャーをしていた女の子一人。その子は、黒髪だった。間違いないと……思う。
「ほらね。やっぱり。聞いてない。お母さんの方が、よっぽど真実を知ってるわ」
この目でみたものは、幻だったとでもいいたいのだろうか。
彩芽は眉間にきゅっと皺を寄せ、もう一度封印した記憶を手繰り寄せてみる。やはりキスをしていたのは間違いなく陽斗。しかも、応援に駆けつけていた観衆に見せつけるように堂々と。私の回りにいた人も「西澤くん、本当にキスしたよ!」と、キャーキャー騒いでいたのも、この耳で聞いている。
それ以外真実なんてあるはずがないと思うのに、歩美は、お話にならない、と首を振ってくる。
「お母さんさぁ、ずっと私に責任あるのかなって、心を痛めてたのよ。その時期、離婚したし。彩芽のこと傷つけたなって、思っていたから。自分に素直になれなくなっちゃったのかなって。人を信じられなくなっちゃったのかもしれないって。でも、そうじゃないってわかって、今ほっとしてる。ただ、見た目だけ大きくなって、中身は全然成長してなかっただけってことね。これも全部、隣同士だってことが、悪かったのかもしれないけどさ」
シャンパンボトルへ手を伸ばそうとしていた手の行き先を変えて、壁をトンと叩いて、撫でた。
「いちいち細かいことを言葉にしなくても、壁を叩けば、飛んできてくれたもんね。それで、何でもわかり合ってるみたいな気になってたのかもしれないけど、それは大間違い。言わなきゃわかんないことって、たくさんあるんだよ。もうこの壁は、なくなった。その意味は、流石にわかるでしょ」
シャンパンを手にして、静かに注いでいく。シュワシュワと、心地いい爽快さが部屋いっぱいに広がっていく。
「昔確かめられなかったこと、聞けなかったこと、ゴロゴロあるんでしょ? 全部包み隠さず、向き合ってきなさいよ」
注がれたシャンパンの気泡が、次々と上へと数えきれないほど、上がって消えていく。その数と同じくらい、細やかな日常が鮮明に蘇ってくる。
思い返してみれば、気になったけれど、うやむやにしてきたしまった出来事は、あのキス事件だけじゃない。高校の大学受験を控えた、塾の帰り道。突然陽斗が駅まで迎えに来るようになったこと。陽斗が怪我をして、入院していたとき。気分転換と思い、少し強引に外へ連れ出してみた。うまくいったと思ったけれど、その後の数日間は、まともに目を合わせてくれなくなったこと。
どれも瞬く間に過ぎていって、理由を聞かずに終わってしまっている。昔、言いたくても言えなかったこと。聞きたくても、聞けなかったことが嫌になるくらい、積みあがっていたことに気づく。
そして、ずっと陽斗のことが好きだったことも。
ふとシャンパンから視線をあげると、歩美と目が合う。久しぶりに、まともに母の顔を見て、凝り固まっていた肩の力が抜けた気がした。
「じゃあ、自覚できたということで。乾杯しましょ」
歩美が、グラスを指さして、柔らかい笑顔をみせてくる。
「あんまり、飲んだら明日に響くから、ちょっとだけね」
「大丈夫、大丈夫。今日は、うちに泊まるの特別許可してあげるから。それに、こういう時は、むしろ飲んだ方がすっきりするって」
実際に、そうやって乗り越えてきている母を見てきている彩芽は、それも、そうかもしれないと思う。
勝手に、婚姻届けを出すような暴挙に出るとんでもない母。あの時は、八つ裂きにしてやりたいとまで思えたけれど、やっぱりなんだかんだ言って母は母なんだなと思う。彩芽の定位置。歩美の正面の椅子に座り、グラスを持つ。
「じゃあ、乾杯」
母の掛け声に合わせて、グラスを合わせて、鳴らした。
カキンと良く響いて、そのまま、口へと運ぶ。舌に伝わってくる爽快感と共に、嵐のように荒れていた波が凪いでいくようだった。
先の見えない深い霧も晴れて、視界が一気に澄み渡っていく。目的地をやっと見つける。
「考えてみたら、なんで今まで、一緒に飲まなかったのかしら」
頭をひねる歩美は、満面の笑顔。それを眺めながら、チーズを頬張れば、やはり昔ながらの定番は、心地よかった。
「あーそうだ。成人式終わったらその日。ワインデビューして一緒に飲もうって約束してたのに、すっぽかされたんだった。あの時、成人式さえも出なかったもんね。ハル君の入院していた病院へ行っちゃってさ。しかも、怒られて帰ってくるし」
あぁ、そんなこともあったなと思う。若気の至りを思い出して、ちょっと恥ずかしくなる。甦ってきた苦い記憶を頭から追い出すために、彩芽はシャンパンを飲み干して、母のすでに空になっていたグラスへシャンパンを注いだ。
「彩芽の優先順位、いつもハル君だもんね。いいワインも、全部ハル君と飲んじゃうし」
「じゃあ……たまには、一緒に飲もうよ」
「お、いいねぇ」
上機嫌にシャンパンをグイっと飲む母につられて、彩芽もつられてシャンパンを口にしようとしたら「じゃあ、その時はロマネコンティ持ってきて」とんでもないことを言い出して、むせ返ってしまう。
「いくらすると思ってんの? そんなの、無理に決まってんでしょ」
「ワイン業者脅して、くすねてくればいいじゃない」
「それ、犯罪だから」
とんでもないことをいい続ける母で、辟易としそうになる。やっぱり、母のお守りは、佐和さんに任せよう。
でも、こよなくワインを愛する母の大切な日は、一緒に飲んであげたい。彩芽は、密かに誓う。
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