第二十九話 契約、十字路にて

古今東西、悪魔と契約した者は碌な最期を迎えない。


いつだって悪魔は契約の裏をかき、契約を交わした人間を貶める。契約の果てに何かを得た者は必ず、それ以上の何かを失うことになるのだから。


それでも、その事実を知っていても。自分が今対面しているのが悪魔以上の何かで、悪魔よりも酷い何かで、そして悪魔なんて目じゃない程に苛烈な取り立て人である事を知っていたとしても、私は悪魔に縋らざるを得なかった。


お父さん。私が────羽曳春音が、この国を敵に回す理由。


母を早くに亡くした私を男手一つで育て上げてくれたお父さんはこの国では珍しい一級国民だった。なんらかの功績、国家に特に貢献した人達だけに与えられるその市民権は勲章のようなもので、その父のおかげで私は何不自由する事なくこの歳まで生きて来れた。


この世界の不平等も、自分が世界だと思っていたものが閉ざされた鳥籠だった事も、何もかも知る事なく生きて来れた。それが幸運な事だったのか、それとも私が盲目だったのかは知らないけれど、その事に対しての感謝を忘れた日は一度だってない。


お父さんは雨の降る夜、寝ていた私を慌ただしく起こした後に何処かへと出かけていったのを最後に消息を絶った。消息を絶った、と言うよりもこの世界から綺麗さっぱり蒸発してしまったように存在を消してしまった。


翌日の夜になっても帰らないお父さんを心配して向かった警察署の無愛想な職員が私に『そのような名前の国民は記録にない』と告げた時の困惑と、何かがひっくり返ってしまった予感は今も覚えている。


市民権も、口座も、行動記録も、その全てが消えていた。


私が自宅から調べられるものは悉く、国民用嗜好品の購入履歴すらも拭い去られたかのように綺麗さっぱり消えていて、当たり前のように後見人の消失により私が通っていた一級国民の子息専用の学校の在籍資格も剥奪されていた。


意味がわからなかった。何か、何か致命的なことが起こっている気がして……そしてお父さんの職場に連絡しようとした時になって私はお父さんの職場すら知らないことに気づいたのだった。


お父さんとの最後の会話。それはあの夜にベッドの中で微睡んでいた私の頭を撫でながら告げた『もし、目覚めたならチェス盤をひっくり返しなさい』というものだけ。そんな意味のわからない、支離滅裂とも取れる言葉を残して消えてしまったお父さんを探して私はここまで来た────来てしまった。


お父さんの遺したもので唯一形を残していた指輪を握りしめて、彷徨って。突然警察に追われるようになって、香織ちゃんに助けてもらって。この鳥籠の外を、私の知らなかったこの国の残酷なまでの不平等を知って。


この国に飲み込まれてしまったように消えてしまったお父さんを追いかけて、そして。その手がかりに今、ようやく辿り着いた。




私の眼前で佇み、何をするわけでもなく沈黙を保ち続ける少年とも青年とも言い難い存在。

鉄をそのまま貼り付けたような無表情に、こちらを射抜く死を煮詰めたような暗い瞳。黒だけで体を構成したようなその姿は自称魔神らしいエリザちゃんよりも、時折怖すぎる気配を放つ中禅寺さんよりも、誰よりも悪魔らしかった。


私以外で唯一お父さんの事を知り、記憶している存在。全ての国民の動向を記録した政府の中央人口管理データベースにも、レジスタンスが介入可能なあらゆる資料からも喪失していたお父さんを探す、今の時点で唯一の手掛かり。


私は……この悪魔と契約を結んでしまった。この男が投げかけてきた”取引”の交換材料として提示されたその情報に、お父さんの居場所について知っていると言うこの男の誘惑に抗えなかった。この男が、朱羽亜門という名を持つクローン兵が私の友人の恩師を殺した事を知っていて尚、その取引に応じざるを得なかった。


何をこちらに求めているのかは分からないけれど、きっと碌でもないことに決まっている。それでも私は……きっと、その要求を飲むのだろう。


「………。」


だが、場には沈黙が満たされたままだった。何を要求することもなく、彼は無言のままで私の前に立ち尽くしている。視線を逸らすことなく此方へと向け、ピクリとも表情を動かすことなく続く沈黙に私は耐えかねて地面に蹲った状態で力無く呟く。


「………まだ、なにかあるの。」


その言葉が空間にこだまし、反響として消えていく。耳を刺すほどの耐え難い沈黙のまま、変わらず彼は私の目をじっと見つめ続けていた。何かを観察しているような、何かを求めているような───


ヴン、という微かな音が彼の足から響く。それは何らかの致命的な兵器の作動の前触れか、それとも私との交渉を打ち切ってどこかへと歩み去ろうとする合図か。

その時、私はようやく気づいたのだ。彼は私に交渉を持ちかけた。だが、この交渉の決定権は私にはない。なぜなら、彼はどちらでもいいのだから。


私と香織の二人がかりで倒せなかった朱羽亜門という存在。あらゆる基礎スペックで上回っているはずなのに、倒すどころか傷一つ付けられなかった私にとっての初めての恐怖。

そんな存在が、私と協力したくて話を持ちかけた?何のために?この空間が地獄の釜の底だったとしてもこの男は顔色一つ変えずにここから離脱するだろう。


悪魔との契約はいつだってそうだ。此方に決定権があるように振る舞っていて、実際は断れないのが此方であることを悪魔は知っている。


私が何を引き換えにしてもお父さんについて知りたがっている事を、こいつは知っている。私とお父さんしか知らないはずのあの言葉を、全てつぶさに知っている。だからきっと、これから私が行うことも知っているのだろう。


力の入らない両手を震わせながら地面につき、額を地面に擦り付けながら低頭する。屈辱と、恐怖と、そして諦観を感じながら私は視界全てを埋め尽くす地面を目からこぼれ落ちた水滴で濡らす。友達を、自分を信じてくれてた人を裏切っておいて被害者面をする自分が情けない。それでも、私は契約しなくてはならない。この男に、朱羽亜門に、この神の宿る駅で出会ってしまった悪魔に。


「お願い、します。何でもします。だからお父さんのことを教えてください。」


手のひらを地に付け、額が地に付くまで伏せ、しばらくその姿勢を保つ。つまりは土下座。抵抗の意思を示さず、抗弁の意思を示さず、全てを受け入れる姿勢。もう私はこの時、明らかに投げやりになっていたのだと思う。私が何かしようとするたびにそれを知っているかのように誰も知らないはずの情報で殴りつけてくるこの男に、朱羽亜門という悪魔を前に全てを投げ出してしまったのだろう。


頭を地面に擦り付け、恥も外聞もなく震えた声で乞い願う。私の荒い息遣いと、地面を通じて伝わる何かが震えるようなヴゥンという音だけが私の中に満ちていて、そして永遠とも思える刹那が経過した。


「────やめろ、そんなことをさせる為にお前にこの話をしたつもりはない。」


ガシャ、という無数の機構が駆動する音に顔を上げれば、片膝を地面について此方を見下ろす彼の姿があった。


「そう簡単に頭を下げるな。そういう事はここぞという時にとっておけ。」


私にとっては今がここぞという時だったのだが、彼はそれを知ってか知らずか微かに困惑したような雰囲気すら漂わせながらも硬い機械の手のひらで私の背へと手を添えた。

冷たくて、金属質なはずのその手はまるで肌の温もりのように温かかった。


「立て、羽曳春音。お前は立ち上がって、立ち向かうのが役回りだろう。」


何が言いたいのか分からない、きっと励ましている……多分、おそらく励ましているのであろうその言葉と共に彼は立ち上がる。そして鋼鉄と黒の悪魔は此方へと手を伸ばし、その無表情のままに私に契約完了を示す言葉を告げた。


「ここを出るぞ。お前の父親の話は生きてここを出られたら聞かせてやる。」








「と、いうわけで。これより円卓会議を開始する!」


豪奢な作りの会議室に明朗快活な声が響き渡った。

壁に掛けられた巨大な絵画には雄大な自然の中で手を取り合う人々が描かれ、部屋を彩る調度品はどれも逸品ばかり。


人間の筋肉の躍動を余すことなく伝える彫刻もあれば、美しい色彩が施された食器に絶え間なくその色を変え続けるクリスタルなど、この世の芸術と美を網羅したようなその部屋に深々としたため息が一つ響き渡った。


「議長……もしかして丸い机を用意しろと仰られたのはそれがやりたかったからなのですか?」

「そうだが。かっこいいじゃないか、円卓の騎士。」


磨き上げられたマホガニー製の円卓を挟むように白髪の混じり始めた茶髪の男、そしてライオンの鬣の様な印象を抱かせる金髪の女は老いと若さの体現者のようにその場に座っていた。


男が呆れたような顔をしながら、机の上に置かれた書類を指の先でトントンと叩く。


「あのですね議長。私の記憶が確かであれば、この議会は先週まで賢人会という名前でしたし、賢人会には髭の生えた老人が付き物だとか言って弁務官地区の代表から髭の生えた奴を適当に選んで此処に呼んでましたよね?」

「うん……そんな事もあったような、なかったような……。」


軍服でその身を包んだ彼女は腕を組み、白々しい表情で明後日の方向へと視線をずらす。ともすればこの場に存在するあらゆる美術品よりも麗しい美貌を持つ彼女だが、今の彼女は親の追求を誤魔化す子供のようにしか見えなかった。


「彼等が帰還したなどという話は聞きませんでしたので、まだ飽きていないのかと思っていたのですが。彼等は何処へ?」

「ああ、何やら勘違いしていたのでな。どうもこの議会に呼ばれたのが自分たちの弁務官地区が投票権を得たと思っていたらしい。あーだこーだと五月蠅かったので“徴収”した。」

「はぁ……彼等の弁務官地区はどうしますか?」

「放っておけ。何か言うようなら国ごと消しても構わん。これは円卓会議としての決定だ。」


頭の後ろで手を組みながらさらりと国の存亡を決定させた彼女は何でもないことのように椅子を揺らす。


「円卓会議ですか。まさかとは思いますが、あと11人どっかから騎士を引っ張ってくるとか言いませんよね?」

「面倒くさい事になるのは学んだ。それに円卓はアーサー王とマーリンの2人で十分だろう。」


サラサラと手元の書類に何かを書き留めていた男が顔を上げ、呆れ果てた表情を浮かべた。


「……マーリンは円卓の騎士じゃありませんよ。」

「そうなのか?じゃあ私が今、騎士爵をくれてやる。これで万事解決だな。」

「お忘れかもしれませんが、円卓の騎士の故郷は大戦中に我々が海の底に沈めていますからね。もしマーリンがまだ生きて幽閉されていたとしても議長の事は大嫌いだと思いますよ。」


相手にするのも馬鹿らしいとばかりに首を振りながら男は書類作業に戻り、それを眺めながら女はそう言えば、と指を立てる。


「ああ、日本との会談の件はどうなった?」


ピタリとペン先が紙に触れる音が止まり、男が口を開く。


「山縣総理から了承の旨を伝えられました。そして全権大使として天威喪音特任理事を派遣するそうです。」

「場所について何か言っていたか?」

「いえ、スイスで構わないと。」


女が椅子から立ち上がる。その手にはいつの間にやらこの場に似つかわしくない無機質で無骨な機械の剣が握られており、その握り心地を確かめるように女は柄頭を指で撫でる。


「重畳、ならば話は早い。」


黄金の髪をなびかせながら、女は歩み出す。壁に描かれた巨大な地図───ヨーロッパ全土を赤く塗りつぶしたその地図を背に、女は絨毯を貫き床へと刃の鋒を突き立てた。


「この耐え難い静寂も、見るに耐えない汚濁もあともう少しの辛抱だと思うと心が躍る!」


ヨーロッパを支配する巨大な複合国家。先の大戦の勝者の一人であり、積極的な異界の植民地化を推し進める超巨大軍事国家たる神聖ライヒ=ユーロ同盟の盟主、ルシウス・フォン・レターは高らかに笑う。


「さぁ、精々レジスタンスと遊んでいるが良い。我々はお行儀良くゲームの席に座る気はないぞ。正々堂々とプレイヤーにダイレクトアタックでその首を貰う─────!」




「議長、床が傷つくのでやめてください。」

「む、すまん。」



*後書き

手が温かいのは暖房のせいです。

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