第19話 野生の摂理

世界は狭くなったという言葉がある。


凡ゆる情報がインターネットに溢れ、地球の反対で起きた事すら己のことの様に見、聞き、知る事が可能となり、発達した移動手段が距離を障害としなくなった事によって世界の事柄が身近に感じられる様になった事を指す言葉だ。


だがしかし。この世界──即ち、第三次世界大戦を経たこの世界は広がるばかりである。


”自然発生”した異界への門を世界を二分する超大国が解析し終わった後、この地球は二度目の大航海時代を迎える事となった。主要な石油産出国が文字通り地図から土地ごと消え去り、新たなるエネルギー革命を迎える事を余儀なくされた人類にとって新たなるフロンティアは正に垂涎の品であった。


日本国は人為的に異界への門を開く事に成功した事を公表した瞬間、日本の衛星国の持つ兵力を根こそぎ引っこ抜き、国防軍を中心とした|アジア平和友好条約機構軍《Asian Peace and Friendship Treaty Organization Army》を編成した後に『アジアの盟主としての資源開拓』を名目に異界への大規模侵攻を開始。


国内の経済を圧迫する大規模出兵だったが、独裁国家たる日本にとって民意なぞ如何様にでも調整できるパラメーターでしかない。具体的な事は何一つ言わずに『更なる発展の為の開拓!』をプロパガンダとして打ち、一旦熱狂させておけばその内出兵の事すら日々垂れ流される無数のプロパガンダに流され民衆は忘れ去る。


何か凄い事を国が行っており、それが成功すれば資源が沢山手に入る。この程度の認識だけを国民の中に漠然と残し、戦勝国たる日本に住まう国民は今日も労働に勤しむのだ。

天を舞う無数のドローン。数値化される国民協力度。テレビではアニメですら国家礼賛に従事し、人々は漫然とした『生きている』事への幸福感を胸に生きていく。


そんな世界は、彼女にとってはやはり窮屈に過ぎたのだった。


彼女が目覚めた時に彼女はその肉体と服、そして武器以外は何も持っていなかった。名前さえも。とりあえずは自分の髪の色に肖って彼女の保護者が似ている、と言っていた紫陽花あじさいをそのまま読んだ紫陽花むらさきひばなを名乗っていたが、無論偽名であるどころか自然発生的にこの世界に発生した彼女はこの国家に国民として認識されていない。


だが、彼女が生まれ落ちた闇市場の近辺。数多ある廃棄区画の中でも随一の無法さを誇る『新宿駅区画』に住まう番外市民達にとってそんな事は関係が無かった。新宿駅区画、其処はこの世界に出現したもう一つの異界。常に変化する内部構造に、異なる法則が支配する駅構内。数多の敵対的な存在が彷徨く魔境であり、日本政府が正式に宣言した『人類生存非適地帯』。


過去を知る手段の少ないこの国において、何故そんなものが首都のど真ん中にあるのかを窺い知るのは難しい。だが確かなのは一つ。この地に手を出して碌な事はない。故にこそこの地に法は無く、摂理は無く、政府も干渉を最小限に留めるのみ。


そして其処は魔境であるのと同時に、爪弾き者達の楽園であった。

政府に追われる者、市民権を剥奪された者、その他数多の事情を掲げた厄介者達。無論、この地において生存は保証されるものでは無く自身で勝ち取る物だ。


彼女は疲弊していた。プロパガンダを描くホログラムは生まれたての彼女に眩しく、国の発表を叫ぶドローンは騒音だった。更に彼女は与り知らぬ事ではあるが、不審人物を通報した事による報奨金目当てに出会う凡ゆる人間が己を捕らえようとする。国から配布される配給コードが無ければ飯すら買えぬ。そして……なにより、都市の中心に聳える巨大なビルから感じる嫌な気配。それが一番耐え難かったのだ。


故に彼女が弱肉強食の場である新宿駅を本能的に選んだのは当然と言えるのかもしれない。

面倒な規則、無し。監視、無し。あの眩しいのも煩いのも無し!そして何より、この駅の住人はどれもこれも国を受け入れられず、さりとて立ち向かえもせぬ故に逃げ出した弱き者達。故に、新宿駅に足を踏み入れた新人には優しくしたがる。


それは群れなければ生きていけぬ弱者の知恵であり、同時に弱きを互いに補おうとする持たぬ者故の慈しみであった。彼等は快く彷徨う彼女を見つけ、少ない資源から貧しくも温かい食事を振る舞った。それは生まれ落ちてから名も持たず、食事も出来ず、簡単に無力化できるとは言え追われ続けた彼女にとって初めて感じる『快』であったのだ。


そして、彼女が新宿駅入りを果たして数ヶ月。彼女は───


「なんか飯っぽいのが走ってます!ぶっ殺しますわね!」

「「「うおおおお!行くぞお前らぁぁぁッ!」」」


立派な蛮族バーバリアンの長へと成長を遂げたのであった。


緩やかな駅の住人達の繋がりで構築されたコミュニティ。これまでそのトップと呼べる人間はおらず、集団として動くことなど無いあくまで相互互助の組織であった。

当然である。彼等の中にも異能を持つものや多少は腕に覚えのある者も居たが、彼等とて生きるのに精一杯。そして元より、この新宿駅で人類のリーダーとなりうる力がある者は国家機関に吸収されるか、レジスタンスとして活動していた。この状態ではとても協力して集団で何かを為すような余裕など無かった。そう、彼女がこの新宿駅に来るまでは。


綺羅星の如く現れた彼女は間違いなく新宿駅の生態系の頂点に立つ存在であった。

生来の頑強さ、細腕から繰り出されるとは思えぬ程の凄まじい膂力。そして撃ち抜いた物を銀へと変質させる必殺の異能。彼女を中心に安寧を求めた人々が少しずつ群れていくのは必然であった。


そしてその傾向は彼女が『エキ・イン』と呼ばれる駅を隔てる幾つかの門を守護する人型の生命体を撃破した時から最早誰にも止められぬうねりとなって新宿駅中の人間達を巻き込んでいった。

それは何故か。新宿駅においての探索圏の拡張。それはまさしく偉業であり、それをかつて夢見た者たちがエキ・インに挑み無惨に死に果てた事により作られた禁忌を打ち破る爽快な出来事であった。その行為は彼女が思う以上にこの駅の人間を心酔させたのだ。


不可能を可能にする少女。綺羅星の如く現れたアメジスト。彼女を中心とした強固な人類による生存の為の組織が作られるのは必然であったと言えよう。彼女は賢くは無かったが、この共同体において自身に要求されている事は理解していた。群れの長として、弱きを守る。力持つ者の責務。


それは野生の摂理。外界の発展し過ぎた文明より逃れた彼女が行き着く最適解。

それ即ち───


強い奴が勝つ《力こそパワー》


彼女は新宿駅における人類の守護者として、今日も全力を尽くす。それが彼女が己に定めた法であり、己を温かく迎えてくれた人々への恩返し。高さは数十メートルもあろうかという円柱が立ち並び、両端を巨大な溝で挟まれた回廊──我々の知る駅のホームを数十倍に拡大したような光景である──の磨き上げられたタイルを彼女の脚力が粉砕し、猛然と自身より逃げる獲物へと走り出す。


彼女が追う獲物。それは金属で構成された奇妙な生命体であった。直方体の側面から2本ずつ伸びる獣めいた脚。背中に当たる部分は人工的に光るいくつものボタンが一直線に何段も設置されており、その間からは飲料水の容器のような物が整然と並ぶ様が透けて見えていた。


もし此処に朱羽亜門が居たのならば『屈強な4本の足が生えたデカい自動販売機』と形容したであろうそれは、下手な乗用車よりも速いスピードで迫る捕食者──即ち紫陽花むらさきひばなに恐れを成したかのようにその4本の足を必死に動かし、逃亡を試みていた。


だが其れは彼女にとって余りにも遅すぎる。いわんや、彼女の放つ矢にとっては止まっているも同然であった。彼女は猛然と走りながらもその上半身の軸をずらさず、紫の残像となって手にした流麗な弓へと矢をつがえる。鏃の鋒が胴体部分へと向けられ、矢筈を挟む指が僅かに緩む。目が細められ、シイッという息の吐く音と共に必殺の矢が放たれんとしたその瞬間、彼女の後方より何者かが覇気に満ちた声で叫んだ。


「お嬢!殺すな!そいつは家畜にできる!」


その言葉が彼女の耳朶を揺らした瞬間、機械仕掛けのような精密さで矢の狙いが一瞬にして胴体より外れる。そして風切り音と共に放たれた白銀の閃光はその奇怪な動物を走らせていた4本のうち2本の足を同時に打ち抜いた。正に神業、あり得ざる技巧。

どうっ、と己の足を銀へと変化させた四足歩行自動販売機が音を立てて倒れると同時、彼女の神速の疾走により遥か後方に置いて行かれた男達による歓声が轟き渡る。


「凄えぇぇ!」

「走りながらも当てたぞ!」


その歓声に笑顔で手を振りながら、どっこいしょという気の抜けた声と共に自らの数倍はあるその巨体を持ち上げ、再び彼等の元へと戻る少女を男達の群れの中より先程叫んだ一人の老人が出迎えた。


「ほー、よく殺さずに仕留めたの。正直ダメ元で言ったんじゃが。」

「この程度楽勝でしてよ。それでシン爺、こいつ何です?」


孫と祖父のように気軽に会話を交わす彼等だが、あながちその評価も間違っていない。この老人は彼女の名付け親であり、未だ彼女が此処に迷い込んだばかりの時に後見人を務めた人物でもある。

新宿駅が出現してからずっとこの駅に住んでいると噂される長老、シン爺と呼ばれるその老人は伸びた髭を扱きながら恐れる様子もなく、ツンツンと杖で地面で未だ蠢くその生命体を突く。


「うむ。ジドー・ハーバイキとか何やら呼ばれとった奴でな。ほれ、こうすると……」


背面に並ぶボタンの一つを杖の先で押せば、何やら中で駆動する音が響き渡る。ガチャガチャと言う音と共にそのジドー・ハーバイキと呼ばれた生き物が揺れたのも束の間、ガチャン!と言う音と共に何かが下部より吐き出された。それは、ペットボトルに満ちた透明の液体であった。


「飲みもんが出るんじゃ。これを持って帰れれば蛇口のある場所にタンク持って遠征する頻度が少なくなるやもしらん。」


その言葉を聞いた瞬間、彼女がそれを仕留めた時を凌駕する歓声が響き渡った。飲料水の確保は彼等にとって長らく問題視されていた事だった。人は生きる以上、水を必要とする。新宿駅に住まう彼等は様々な箇所の壁から生えている蛇口から流れ出る水をタンクに溜めて持ち帰る事で得ていたが、それは安全とは言い難かった。


駅の構内に数多潜む敵対的な生物達。彼等はコミュニティを養う量の水を入れたタンクをえっちらおっちらと運ぶ人間を見逃す程温厚では無かったし、彼等を逃す程無能では無かった。故に、水の不足は常に人間達を悩ませてきていたのだが、其れが解決される。

その喜びは凄まじかった。


男達は涙すら伴いながら抱き合い、事を為した少女も小さくガッツポーズを決め歓喜に浸っていた彼等を遠くよりじっと見つめる二組の目があった事など、知る由もなかったのだった。


「対象の人物を発見……!あの様な巨躯の敵対的生命体を一撃で無力化とは。やはり一筋縄では行かなさそうですね。……朱羽調整官?どうかしましたか?」

「いえ……何でもありません。」


光学迷彩のスーツを身に纏う二人。長い銀髪を小さく纏め、涼やかな瞳で彼方を真剣な表情で見つめる少女と、死んだ目をした一人の男。どちらも抜き身の刀の様な威圧感を無意識に垂れ流すその様は、暗部に生きる政府機関の人間である事を如実に示していた。


そして見ているつもりであった彼等もまた、第三者より見つめられていた。気配を完璧に遮断し、光学的にも認知不可能な状態で線路の先の暗がりから全てを見ている集団がまた一つ。


「無能無敗……?!」

「……これはチャンスだよ。リーダーの妹を此方に引き込めるかもしれない。」

「という事は、あの隣の銀髪の子が……?」


驚愕に目を見張る桃色の髪の少女に、緊張、はたまた恐怖からか身をこわばらせる青い髪の少女。彼女等もまた、魔神の思惑を帯びてこの地に至っていた。


図らずともこの地は、人類の生存が保証されぬ魔境。新宿駅は──魔神達のゲームボードへと変貌していくのであった。

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