第18話 魔神の一手
魔神はサイコロを振らないが、イカサマは割とやる。
落ちていく。胸部に走る激痛。重力に従って力無く落下する華奢な肉体の残像はむせかえる程の鉄の匂いを纏っていた。傷口から鮮血が溢れ出し、口から血塊をゴボリと吐き出しながら死の冷たい指が自分の肩へと添えられるのをどこか他人事の様に感じながら、喉に迫り上がる血塊を口の端から垂れ流す。
臓腑がその落下に付いて行けていない様な独特な感覚が腹の内を駆け巡り、脳内で垂れ流されるアドレナリンが意識を引き伸ばす。失血と疲労で霞んだ視界に映るのは遥か上空で、不可視の風によって構築されていた瓦礫の防壁が密閉効果を失った事で溢れ出す白い霧。
そして──俺を後追いする様に落下する目に鮮やかな水色の着物の人影。
勝ったのか。
その事実を何処か他人事の様に俺は感じながら、未だ闘争に備え荒れ狂う脳内を久方ぶりに休められるという甘露の如き安堵に身を埋没させる。長時間繰り返した死に戻りの後は、つまりは死が日常の数ヶ月は酷く自意識が曖昧だ。戦闘の為に最適化された機械的な思考の海を痛みが駆け巡り、この常人の精神が狂いそうになる度にリセットされる脳味噌が予想と整理を繰り返す。
次はどうする。この瓦礫を避けたその次は。指をどう動かせば良い。どうやって彼処の瓦礫に己の血を飛ばす。筋肉の一つ一つに思いを馳せ、辿り着くべき微かな光明へと無数の死を積み上げる無限に思える……そして恐らくはその光明を手に収めなければ無限に繰り返されるであろう血生臭い回廊を走り抜け、がむしゃらに脳裏に描いた妄想じみた結果に辿り着く為だけに持ちうる全てを出し切った。
嗚呼……だがどうやら、死の回廊の出口に見えた光はまやかしであったかもしれない。この世界に生を受けてから何度もお世話になっており、最早幼馴染と言っても過言では無い死神が笑顔で俺が地面に叩きつけられ、真紅の徒花を咲かせるのを待ち受けているのを感じる。もしも死神が本当に居たとするならば──魔神が居るんだからあながち妄想という訳でもないだろうが──俺一人で死神としての生涯ノルマを果たしているに違いない。幼馴染だからって調子に乗るなよ。金取るぞ。
幼馴染というワードに反応した疲労の極みにある脳が、セーラー服を纏った全身骨格を連想しつつある事に我ながらげんなりしつつ、数瞬の後に来たる死へと諦観と共にその身を委ねようとしたその時。閉じられんとした瞳が目の端に紅蓮の閃光を捉える。太陽かと見紛ったそれはその大きさを瞬く間に──実際には瞬きよりも速く──その温かな光で視界を満たす程に増し、此方へと勢い良く飛び込んできたかと思えば、何か柔らかい感触が俺を包み込む。
疲労のあまり目に滲む涙に歪んだその光から伸びる腕。鼻を擽るは鉄錆の中に混じる少女が纏った微かな花の香り。
凛とした顔に焦りと安堵を浮かべたその可憐な顔は瞬時に展開された炎の両翼の極光にかき消され、その残像が光と共に俺の網膜へと焼き付けられる。
重力の軛に囚われるままに落下し、臓物と鮮血の芸術へと成り果てる筈だった身体に仄かな温かさを持つ手が触れるのをぼんやりと感じ、少女の背より伸びる両翼が生じさせた浮力が同時に浮遊感を臓腑へと奇妙な感覚と共に与える。落下死の憂き目を逃れた事実に対し、今やほぼ麻痺している死への忌避感と其れを免れた事によるほんの少しの安堵が温かさとなって心へと沁みていく。なんと、まだこんな感覚が残っていたかと驚きつつも重い瞼を無理矢理に開けば、鮮明な視界に広がる泣き顔が其処にはあった。
「ごめん……私が付いてたのに……!あんたが助けを呼んでくれたのに……!」
暴風と業火によって蹂躙された結果、今や鉄筋の欠片すら残っていない廃ビルの跡地へと俺の身体をゆっくりと労わる様に横たえた少女の焼け焦げた制服から露出した背中から伸びる炎の両翼が彼女の心中を表す様にゆらゆらと儚く揺れる。
何時もは勝ち気な表情を浮かべたその顔は悔しさとやるせ無さが入り混じった表情に彩られ、紅の瞳には涙すら浮かばせる真面目すぎる少女に思わず笑みを浮かべようとするが、上手く表情筋が動かない。こういう時は永久休職してしまった表情筋が恨めしい。そして無論、己の直属の上司であり名を分けた存在である彼女──即ち、
異能行使者という人の身でありながら超常を行使するその特異な存在にも、無論異能の強弱という物がある。自らの身体の一部を時間制限下で動物由来の物に変化させたり、ほんの少し指先に炎を纏ったりする様なこの世界においては取るに足らぬ異能から、単身で大都市を壊滅せしめる異能までその幅はピンからキリまでだ。
その中でも最上位。戦略級と呼ばれる単身で戦争の行く末を左右する事が可能な異能行使者は核に等しい扱いを受け、存在するだけで抑止力となる事を期待されるトップクラスの異能を彼女はその小さな身体に宿している。
その戦略級の異能の中でも特に異質。再生、飛行、そして金属を融解せしめる炎を広範囲へと展開する複数の能力が複合された彼女の異能『不死鳥』はその強大な力故に、その能力を振るう上で最も懸念すべき事は敵を如何程に殲滅できるか、では無く味方への被害をどれだけ減らせるのかであると称される程。
故にこそ彼女は人類二大生存圏たる日本の首都では、たとえこの打ち捨てられた区画であったとしてもその全力を発揮する事が出来ない。彼女の本来の舞台は大規模な異能犯罪の『土地ごとの滅却』などの最終的な解決が求められる任務。同じ戦略級の異能行使者であり、その戦闘経験は大戦途中から連綿と実戦下で積み上げられ続けている中禅寺丹羽に対し、よくもまぁ中学生程の年齢でありながらも荒れ狂う不死鳥の炎を抑制し、あそこ迄張り合ったものだと逆に感心するほどだ。
それにこの目の前の少女が己の得手不得手を理解していない筈が無い。
俺の意図しない形で発せられた名前を口に出した事による救援要請に対して、他の人員を向かわせる事が出来たにも関わらず、課長は危機に瀕しているであろう俺の下へと一刻も早く向かう為に自身の異能が十全に振るえない状態であることを察しながらも此処に赴いたのだろう。
腹黒魔神の次くらいに俺に激務を押し付けてくる彼女だが、苛烈な上司であると同時に俺の事を名前を分けた『弟』として混じり気のない思いを向けてくれる『姉』でもある。まぁ俺は中学生ぐらいの年齢の(見た目も残念ながら年相応の)彼女を姉として見た事は無いが、この全くもって救えない世界において信用している数少ない人物の一人だ。そんな彼女を俺がどう責められようか。
いやでも、俺を助けに来たのに割と死因になってたのは擁護し難いかもしれない。上空で怪獣大決戦している間に下で必死こいて上空の戦闘の余波から逃げていた俺の死因としては、はんなり姉御による鎌鼬での三枚おろしよりも課長の攻撃の余波の方が多い。
何故かって?課長が羽ばたく度に灼熱の羽毛が舞い散るし、肉体が傷付けば燃える血の滴が俺の頭上に垂れてくるんだよ!滞空してるだけで俺に弾幕ゲーを無意識に仕掛けてくるから途中からどっちが味方か分からなくなってきたくらいだった。
──ああ、でも。それでも。この世界で俺の為に泣いてくれる彼女は間違いなくかけがえの無い存在なのだろう。
そのルビー色の瞳から雫が溢れ、その小さな水滴にすら込められた微かな不死性が俺の傷を僅かに癒すのを感じながらぼんやりと思う。
思わず彼女の頬を伝う涙を拭おうと手を伸ばそうとするが、限界を超える挙動を繰り返した腕は痛みを訴えるばかりで動こうとはしない。恐らくは千切れてはいけない筋やら神経やらがダース単位で破損しているのだろう。それを見た彼女の顔が再び痛ましげな表情に染まる中、冷ややかな失血死の予感が足から頭へとゆっくりと浸すように迫っていく。
『通信が回復。全回線がオールグリーン。現在、法務省異能調整局より第二課隷下部隊、及び第三課が現場に急行中。現在をもって朱羽亜門調整官の任務は終了となります。当該任務において異能調整局の資産の損耗、無し。おつかれ様でした。義体からの魂魄転送シークエンスを準備中……』
レジスタンスによる通信封鎖により長らく沈黙していたJDACSが俺の脳内へと無機質な声で告げる。そう、俺は資産だ。人材では無く、資産。コンピュータで計算される数字の一つであり、最終的に生きていれば俺という『資産』の損耗は無かったこととなる。失った部位は義体化すりゃ良いし、何なら強化に繋がるからな。全く、福利厚生が過ぎて涙が出るね。
「……私は貴方に何もしてあげられない。」
ぽつり、と彼女の口から零れ落ちたのはらしくもない泣き言だった。最強とすら目される異能行使者、法務省きっての武闘派としての顔では無く、年相応の少女の顔で彼女は呟いた。
「分かってるわ。どんなに私が異能を磨いても、貴方の強さの段階には手を掛けられないのだもの。ねぇ、亜門。貴方は……この仕事が好きかしら。まだ7歳の貴方にこんな事を聞くのも何だけどね。」
俺は別に強くないけどね。いやほんとに。
異能調整局の第一課でこれまでやってきたのも膨大な回数のやり直しのお陰なのだし。ぶっちゃけそこら辺歩いてる一般人を捕まえてこの力を与えたとしても、同じくらいの実績を残せるだろう。繰り返せば大抵の事は何とかなるものだ。ソースは累計ループ数が億を誇る俺。
そして──ふむ。この仕事が好きか、と。成る程。よく死ぬ、仕事を押し付けられる、休み無しのこの仕事が、好きかと。
うん。好きな奴居るの?もし居るんだったら多分そいつは洗脳されてるか元々頭おかしい奴だろう。
ブラックを通り越して引力すら伴いつつあるダーク企業……いや、ダーク国家。アットホーム(住む場所が此処という意味で)な職場です。こんな仕事好きになれる筈がない。
精一杯の抗議と最大の拒絶の意味を込めて全力で首を横に振りたいところだが、今の身体では首すら動かす事が叶わない。
表情筋が完全に死んでいるので、表情で伝えることも出来ない。仕方なく目をカッ!と見開き、彼女の眼を見つめ念じる。
転職させろと。生誕して7歳の子供をこき使っている認識があるなら改めてくれと。さもなくば労働基準砲(レメゲドン)の使用も辞さないと。全力で目を開き、真摯に未だ涙の跡が残る眼を見つめ続ける。届け、届いてくれこの思い!超絶過酷上司としてではなく、一人の少女として居る今の彼女になら通じるかもしれない!
俺の必死極まる無言の訴えを眼で受け止めた彼女は、大きなため息を吐く。ゆっくりと俺の眼を手で覆いながら、少しだけ悲しそうに彼女は呟いた。
「……そうよね。馬鹿なことを聞いたわ。貴方から戦場を奪うつもりはないからそんなに睨まないで。戦場で生まれて、戦場に生きてきた貴方は……『これ』以外を知らないものね。」
そう、俺一刻も早い退職と引っ越しを……なんて?
「私の可愛い弟、戦場の揺籠で育てられた貴方……傷つく事を厭わない理想のエージェント、だもの。忘れてちょうだいな。」
違う。何故そうなる。なんか俺が戦場の悲劇の化け物みたいになってるのだが。まぁ悲劇の中心にいる事は全力で同意するが。
いや待て。余りにも正反対の解釈に戦慄する俺の脳に、前世の記憶の欠片が過ぎる。そう、そうだった。
目の前の少女──赫羽焔はチョロインであった。思い込みが激しい故の攻略のしやすさ。故に中盤の彼女のレジスタンス加入イベントからすぐに好感度を上げやすく、スキルを解放しやすいメインアタッカーとして中盤のプレイヤーに重宝されて居たのが彼女だった。
更に自分の今までの行動を思い出す。粛清と廃棄が怖すぎて必死に働き続けた数年。少しでも美味い物を食うべく金を求め、任務のない日でも出動を繰り返してきた調整官としての毎日。下手に正体が魔神と知っているが故に逆らう事なぞ出来ず、只管にあの金髪
嗚呼、なんてこった。過去が俺を追い詰めていく。だが今更どうしようもない。この国での俺の──異能調整官、朱羽亜門の価値は文字通り犬の様に駆け巡りながら仕事をこなす社畜さにあるのだから。手を抜き始めた時点で役に立たぬとばかりに切り捨てられるのがオチだろう。この国に使えぬ犬を飼っておくだけの甲斐性も慈悲も有りはしないのだ。
そんな俺の狼狽を他所に、一枚の宗教画の様に彼女の顔へと辺りを覆う粉塵から一筋の光が注がれる。少しの憂いを含んだ笑顔と、頬に微かに垂れる涙が一筋の光に照らされ、風に靡くツインテールが燃え盛る炎の様に美しい。なんかシリアス告白イベントみたいになってるよ……。
「任務ご苦労様、調整官。……私は貴方が部下で本当に誇りに思うわ。」
『魂魄転送準備完了。シークエンスを実行します。』
その言葉と共に獄炎の両翼により焼き切られた制服の背部から覗く色白の背中を此方へと向け、先程までの雰囲気が嘘であるかの様に鋼鉄と言うに相応しい法務省異能調整局第一課課長としての言葉を此方へと投げかける。それと同時に、俺の脳内へとこれよりこの肉体に別れを告げる旨の言葉が告げられた。
もうどうとでもなってくれ。今更なんと思われようが、原作に突入した以上は俺の逃避行までの期限もそう長くはないだろう。絶対に逃げてやる。待ってろ異界。待ってろ南国ビーチ。俺は必ずこのブラック国家から逃げ出してやるからな……!
『そんなに上手くいくと思ってるの?』と脳内で囁くセーラー服の全身骨格を俺は意図的に無視し、魂魄の転送により呆気なく意識を手放すのだった。
◆
異能調整局の指揮室は蜂の巣を突いたが如き喧騒に包まれていた。
「第二課の即応部隊をとっとと輸送しろ!周辺空域は全て法務省管轄に置け!『官邸』にも連絡!」
「はい、こちら法務省……。ええ、レジスタンス勢力の戦略級異能行使者を第一課の職員が捕縛しました。既に第一課より赫羽調整官が現場に到着済みですが、念のため公安からも手が欲しい。」
「電脳系の異能行使者からのドローンネットワーク、及び監視衛星への介入の痕跡あり。JDACSによる攻性防御プログラムを展開中。バックドアの有無の確認が取れるまでの間、アリアドネ・プログラムにより全政府ネットワークを───」
画一的な制服に身を包んだ男女が手元の端末へと怒鳴る声、異なる部署への要請の声が入り混じり、混沌とした様相を呈す部屋の中心に立体映像で映し出された幾つもの光点が描かれた東京の地図が淡い青い光を放つ。
端的に言って、大事件であった。
行政、居住区画から離れていたとはいえこの国の中心地で行われた大規模なテロ。敵対勢力──情報統制こそ敷かれているが、こんな事をするのは神聖ライヒ=ユーロ同盟くらいのものだ──に送り込まれた不法入国者が空間跳躍により廃棄区画に侵入、それを捕縛すべく予め運び屋との密約により情報を得ていた外務省のエージェント及び異能調整官が展開するも、レジスタンス所属の戦略級異能行使者が襲来。
そして何より、それをこの超監視社会たる日本が誇る凡ゆるシステムがその状態を捉えていなかった事が問題であった。一瞬にして周辺のドローン、及び該当地区を監視していた衛星がレジスタンス側によって掌握。欺瞞情報を法務省及び関連省庁に送り続けていたのだ。
無数の防壁と暗号化により防護されていた筈の政府のシステムにいとも簡単に侵入されたという事。この事実は法務省だけではなく全ての政府機関の職員を震撼させた。無論、それはレジスタンス側に未だ見ぬ伏せ札があるという事実に対してでもある。だが、もっと切実な問題があったのだ。
間違い無く、多くの首が飛ぶことになるだろう。この国に無能は要らないのだ。逆賊に裏をかかれる様な無能は須く職を辞し、身の丈にあった職務に移るべし。そのような集団粛清を招きかねない『裏をかかれる事』はなんとしても避けなければいけなかった。だが、起きてしまったのだ。
しかし幸いな事に完全な失態とはならなかったのが救いであった。日本における異能犯罪を取り締まり、同時に異能による諜報活動を担う異能調整局の中でも異彩を放つ部署、第一課。未だ全容の明らかにならぬその部門のエージェントにより戦略級異能行使者は捕縛、無力化されていた。この事実が無ければ、異能調整局のみならず多くの省庁のスタッフは翌日より自らが唾棄する3等市民へとその身を堕とすところであった。
名も知らぬそのエージェントへ首の皮一枚つながったスタッフ達の感謝と称賛が混沌の坩堝で沸き立つその最中、騒然とする法務省の廊下を闊歩する少女が一人。
雪の妖精に喩えられる可憐なその風貌を鉄の様な無表情で覆い、廊下の照明を美しく反射する銀髪をキッチリとポニーテールに結い上げた少女は左手の端末に映し出された時刻へと目をやる。彼女が突如として上司である異能調整局局長、天威喪音より局長室へと呼び出されたのが20分前であった。
天威喪音。可憐な童女の見た目をしておきながら、その実態は日本における異能黎明期より法務省に在籍する妖怪。容姿を一切変じさせる事なくこの国の異能を司る立場に座し続ける彼女には黒い噂も多く、それと同じくらいの謎があった。
だが、そんな事は彼女──
氷峰家は大戦において功績を多く残した家系でありながら、終戦間近に身内より大逆人を出した咎で取りつぶしの憂き目に遭いかけた。その沙汰に異論を唱える者は居らず、処分の決定もそこそこに氷峰家の利権を誰が握るかで揉める始末。彼女もまた良からぬ目に遭うところであった。
その沙汰を一声で覆し天威喪音は前当主の離反により当主となっていた彼女の身柄を引き取り、自らの新設した異能調整局へと席を用意した恩人であり、そして何より敬愛すべき上司であった。そんな彼女が上司であり恩人の呼び出しに歓喜しないわけがなかったのだ。
課長を通さぬ直接の呼び出し。これが意味するところは彼女への直接指令。喜び勇む彼女が予定より幾分か早い時刻にその豪奢な扉の前に到着してしまったのは責められることでは無いだろう。嬉々として襟を正し、彼女がノックしようとしたその時、押し殺した悦楽の念を孕む声が室内より響く。
『フ、フフフ……!まさかそんな勝ち方を……』
ふむ、と彼女は怪訝な表情を浮かべる。己の上司はこの様に感情を全面に出して喜ぶ様な人間であっただろうか?
何かを喜ぶときは静かにほくそ笑む様な人間であったと記憶しているが、何やら聞いてはいけない事を聞いてしまったかの様な気まずさがある。咳払いを一つ、一拍置いて重厚な扉を3回叩けば、誰かがまるで椅子から転げ落ちる様な音と共にドタバタと何かを急いで仕舞う様な音が室内から響き渡った。
「……入り給え。鍵は掛かっていないよ。」
数秒後、扉の向こうより放たれる落ち着いた声。ゆっくりと扉を開き、一礼しながら顔を上げれば、執務室に腰掛ける金髪の少女が其処に居た。口の端に浮かべるのは冷酷な笑み。ワインレッドの瞳は嗜虐的な光と共に深い叡智の光が灯り、彼女の体格に合わせて設られた制服の襟には局長である事を示す白い天秤のバッジが輝いていた。
「ず、随分と早い到着だね。」
「はい! 先程の事態は私も聞いております! この様な状況での局長からのお呼び出しでありましたので、緊急の用件であるかと思いまして……。」
先程の音は聞き間違いであったかと心の中で首を傾げながらも、教本に乗せられる様な姿勢で凛と告げる彼女。それを見る局長の頬が仄かに引き攣っている様に見えるのは錯覚だろうか。
「職務に熱心な様で結構だ。さて──」
局長が手を振れば、執務室に備え付けられた投影機より伸びる光。それは空間にホログラムを映し出し、局長の指の一振りと共に彼女の前へとそのホログラムに映し出された写真を移動させた。隠し撮りだろうか?妙な角度で撮影されたその写真に写されていたのは一人の少女であった。
紫の髪を背中まで伸ばし、中世ヨーロッパを思わせるドレスに身を包んだ少女。何処かのサロンに居てもおかしくは無いその少女だが、その写真の背景がどうにも奇妙であった。路地裏の一角。ゴミ箱や用途の知れぬガラクタの転がるその場所で撮られた写真に写った少女は手にした流麗な曲線を描く弓を画面の外にいる何者かに向けている様だった。
「彼女は……?」
「それは知る必要は無い。一つ言えるのは、彼女はこの国の異能安全保障において重要な人物になりうるという事だよ。」
局長は何処か愉快げに人差し指を天井へと伸ばし、笑いながら言った。
「命令だ、氷峰調整官。もうすぐ帰還する朱羽調整官と共に彼女の身柄を抑え給え。」
魔神のチェスの盤面が、動く。
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