第15話 初めての夜
監獄で過ごす初めての夜。夜の点呼を終え消灯時間を過ぎると、不気味なまでの静けさが辺りを包んでいた。その無感情な静寂に、俺の心は不安定に揺らぐ。
このまま眠り、再び目が覚めると、いつもの日常に戻っているのではないだろうか。まだ心のどこかで、これが夢なのではと考えていた。異世界転生なんておとぎ話のようなものだ。いや、ものだったが正解なのかな。
何故だか、急に母のことを強く思い出す。そしてどうしてか……母が、とても遠い存在に感じる。これは、夢などではないのだ。疑いようのない現実。
現実世界と時間の流れがどう違っているのか分からない。だが、きっと現実世界で俺は急に存在を消しているのだろう。
俺が急にいなくなったら、母はどうするかな。俺がいなくなり、肩の荷が軽くなってくれるだろうか。俺はずっと母に迷惑をかけてきた。だから、俺がいなくなって良かったと思う。
(…………母さんは、きっと必死に俺のことを探しているんだろうな)
無意識に──涙が溢れてきた。
この世界に現実味を感じるほどに、後悔が押し寄せてくる。何故あんな無意味な生活を送っていたのか。俺は知っていた、母がどれだけ俺に愛情を注いでくれていたか。俺は……そんな母に親孝行をできないまま、消えてしまったのだ。最後の最後まで、俺はとんでもない親不孝であった。
これから俺は母のために何かできるのか。できることなんて、何もないかもしれない。だから、せめてこの世界では強く生きたい。母が俺を育ててくれたことを、無意味だったと言わせないために。
「母さん……ごめんなさい」
伝わることのない想いが、小さく震え溢れ落ちる。あれほど異世界転生を望んでいたのに、実際に起きてみれば、たったの1日で後悔に苛まれてしまった。
目が覚めた時にいつものベッドの上であってくれ。そう強く願いながら、俺は眠りについた。
──翌朝。
けたたましいサイレンのような音が監獄に響き渡る。パトカーのサイレンを何倍にも大きくしたような、不快感の強い目覚ましだ。眠りの浅かった俺は、その音に驚いて目を開ける。すると、そこは見慣れ始めていた房内であった。
「……やっぱ、都合良く夢オチだったりしないよな」
分かってはいたが、少しだけ元の世界に帰れるかもと期待していた。いとも簡単に期待は裏切られてしまったが、嘆くのは昨日でおしまいだ。今日から、俺の本当の戦いが始まる。その初戦はおぞましい
顔を軽く叩いて気合いを入れると、体を起こして布団を畳む。ヨンヘルとルーリエもしっかりと起きていて、それぞれが身支度を整え始めていた。そしてミルクは……涎を垂らしながらまだ幸せそうに眠っている。
どんな寝相なのか。布団は捲れ、頭は元々の位置から180度反転している。そして、豊満な胸がもう少しで丸見えになるのではというほど、服が淫らにはだけていた。
(だ、ダメだ。鼻血が出そうな光景だが、こんなものを見つめていれば、すぐにルーリエから軽蔑の視線がとんでくるぞ。我慢……我慢するんだ)
精神滅却をするように深呼吸すると、何もなかったように立ち上がる。洗面台を使って良いかヨンヘルとルーリエに確認をとると、顔を洗い、歯磨きをして自分を落ち着かせた。
昨日の夜、母のことを思い出して躍起になっていたばかりなのに、なんと情けないことか。本当に男とは馬鹿な生き物だ。いや……男が馬鹿なのではなく、俺が馬鹿なのか。
自らに呆れながら部屋に戻ろうと扉に手を当てると、取っ手に力をかける前に勢い良く扉が開く。思わずその勢いに引っ張られよろめくと、それを押し退けるようにミルクが慌ててトイレに駆け込んだ。
「ごめんねぇー! ウチ起きたらすぐにトイレ行きたくなるのぉー!!」
ついさっきまで幸せそうに大口開けて寝ていたのに、何とも騒がしいものだ。ヨンヘルもルーリエも特に気にかけていないところを見ると、これがここでの日常なのだろう。
起床して朝の点呼が終わると、まずは全員で部屋の掃除を行う。トイレなどの水回りは交代制。今日はルーリエが担当のようだ。俺は古びた雑巾で床を磨くも、それが想像以上に腰にくる。普段からたいして掃除などしたことがなかったため、こんな簡単な作業ですらまともにこなせなかった。
掃除が終わり、30分ほどが過ぎた時である。監獄に看守の声が響く。
「──今より、朝食の配給を開始する」
夕食同様、机と食器の準備を終えると、入口に並び食事を待つ。昨日の夕食があれだったのだ。当たり前だが、期待などしてはいない。
ミルクやルーリエはパンと紅茶のような飲み物を受け取り、ヨンヘルはヨーグルトと珈琲を受け取っている。そして次は俺の番である。恐る恐る看守の前に立つと、予想を越えた食事を受け取った。
「……は?」
俺が受け取った朝食は、椎茸ほどの大きさの生キノコ1つと、少量の水だけである。覚悟はしていたつもりだが、まさか調理すらしていないキノコ1つとは思いもしていなかった。
しかし、そんな物でも食べなければ生きていけない。今日からは、ヨンヘルの紹介で看守から仕事を貰えることになっていた。給料はその日には払われると聞いている。今日の夕方か、明日の朝からは少しまともな物が食べれるはずだ。
細々とキノコを口に運び、ただひたすらに噛み締める。少しだけだが、噛むほどに旨味成分のようなものが口に漂い、とても小さな幸せを与えてくれる。一瞬で失くなってしまったキノコを前に、俺はどうしようもない呻き声を心の中で嘆いていた。
程なくして、午前の自由時間が始まった。
房内に時計があるわけではないので、正確な時間は分からない。起床は朝の6時、そこから体感的に2時間過ぎたかどうかだ。大体8時くらいだと予測すると、ここから12時の昼食までが午前の自由時間だ。
どれほど自由かというと、なんと房の入口に張られた結界も解放され、住宅施設から外に出歩いても良いのだ。
看守からの刑務作業をこなすのも良し。露店経営をしている囚人は店を開き始めるので、そこで買い物をするも良し。監獄空間内にある、川や山に遊び行くのも許可される。唯一許可されないのは、自分以外の房に入ることだ。ここでは盗みも盛んに起こるため、それを少しでも防ぐための規律のようである。
昼食は刑務作業者以外、房内でしか食べれない。いらないというのであれば、夕方の点呼まで房に戻らなくても良い。ただし、夕方の点呼に間に合わなかった場合は、途轍もない罰則を与えられるらしい。その内容は様々だが、どれもが簡単に命を失うほどの罰則らしく、それだけは絶対に避けるようヨンヘルに念をおされた。
「オルディ、ルーリエ、ミルク。ついてこい」
自由時間が始まってすぐ、俺とルーリエとミルクは看守に呼び出される。俺はヨンヘルの計らいで、ルーリエとミルクが入っている、午前の刑務作業に参加することとなっていた。
刑務作業は大きく午前の部と午後の部に別れていて、その片方だけ働くのも、両方働くのも自由だ。しかし、午前と午後の両方に参加するためには、それ相応の人脈と信頼が必要である。俺はまだ収監されて間もない囚人。本来は刑務作業そのものに参加できないのだが、ヨンヘルの人脈に救われる形となった。
「ヨンヘルは凄いんだな。話を聞くと、刑務作業に参加するには、収監されて最低でも1ヶ月は大人しくしていなければいけないみたいじゃないか。それなのに俺を簡単に参加させてくれた。20年以上、真面目に刑期を過ごしてきたんだろうな」
俺がヨンヘルに感心していると、ミルクとルーリエは少し呆れるように笑ってみせた。
「ヨンヘルが真面目ぇ? それはないない。ヨンヘルは真面目じゃなくてぇ、とってもずる賢いんだよぉ。今だって、自分だけ房に残っていたでしょ? ウチは直接見たことがあるわけじゃないんだけどぉ、独自のルートで色々な物を調達してぇ、看守達と取引してるんだってぇ」
「色々な取引? どうやって物を調達しているのかも不思議だが、看守と取引できるような物ってなると、よっぽどじゃないか?」
俺が疑問に頭を傾げていると、ルーリエは冷たい口調で釘を刺してきた。
「あなたは他の人のことを考えているほど余裕があるの? 周りを気をつけなさいよ。すでに、注目の的になっているわよ」
看守が目の前にいるせいか、何となくまだ守られている気にはなっていた。しかしルーリエに忠告されて寒気が走る。
改めて周囲に気を配ると、数多の視線が俺に集中しているようであったのだ。
「あれが……噂の」
「オルディ=シュナウザー。本物か?」
「……殺す……みんな……殺す」
「死にたい……殺してくれ……」
「ぐぅぅう……がぁあぁぁ」
俺を名指しにする声、殺すや死にたいといった不気味な言葉。さらには獣の呻き声のような叫び。聞こえてくる音の全てが、不安を掻き立てるものであった。
恐怖に生唾を飲み込むと、俺は看守の背中にだけ集中して作業場まで歩みを進めた。
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