真っ白な青春 〜大きなプリンの下で始まり終わる物語〜

折田すや

プロローグ

第1話 大きなプリンの下で交わした約束

《2023/8/21 「出発」


 ああ、あの頃に戻れたらなぁ。なんて思う。ときどき。あの頃は本気で、何者にでもなれる気がしていた。いや正確には、「何者か」になれると信じていた。


 日々が刺激的で、妙な緊張感に溢れていて。思考も愚痴も感想も理想的な未来図まで共有して、コイツとなら、コイツとだったら、自分を誇れる何者か、(幼稚な表現だけど)最強になれると思っていた。


 対して今は平凡、普通、凡庸。穏やかでゆっくりと時間が流れている。何にも追われていない、何にも駆られていない。焦燥、ましてや緊張などありもしない。荒波に打たれ続けた身には余りにも優しい、ゆったりとした小川の流れとせせらぎ。


 だけど、ときどきふと感じる。先の見えない夜道で、ライトを照らしていない後ろを振り返ったような恐怖や不安。急な虚無感。不意の孤独感。


 だから帰りたくなる。あの頃に。考えているフリだけをして、根拠のない自信を持ち、互いに何も分かりあっていない相方と、人生を歩もうとしていたあの日々に。あの「青春」に。


 あれから約1年が経った。僕は今日新たな人生の先を開くために試験を受ける。1年越しの大学院試験だ。この2、3ヶ月研究室の仲間と勉強してきた成果を出せたなら、合格できるはず。


 そしてこの人生の先の視界が開けたなら、アイツを思い出すことも少なくなるだろう。》

―――――――『蓮田稜の日記より抜粋』


× × ×


 院試前でナーバスになっていたらしい。僕はこんなことを日記に書いていた。そんな大層なことではないのに……というのは今の僕の強がりかもしれない。

 ほんの1年前まではこんな人生になっているとは思わなかったから。今頃はアイツと2人で東京に行き、漫画家になる夢を懸命に追っているはずだった。


 この「アイツ」というのが僕、蓮田稜(はすだ りょう)の元相方で親友だった男、亜翠明彦(あすい あけひこ)である。


 僕と亜翠は中学の同級生。中学1年生で出会い、中学3年生から大学4年生まで2人で漫画を描いていた。あの大人気少年ジャンプ漫画みたく、僕が原作を、彼が絵を描く。でもただの漫画描きの相方ではない。友達から始まり、一緒に過ごす時間が増えるごとに正真正銘「親友」と呼べる間柄になっていた。


× × ×


 大学2年生の秋頃のある日、僕は亜翠に相談した。近頃よく2人で作業に使っていたタリーズコーヒー。国道176号線沿いのそのカフェは流れる音楽を口ずさめるほどに通い詰めていた。

 そこで僕は初めて、真面目にぶっちゃけて将来について話をした。


「中3のときから6年今まで漫画家になろうって 描いてきたけどさ、将来どうするかってのをやっぱ考えるんよ。言い方悪いけど正直、僕は漫画家以外にも最強のカードがあると思ってる」


「うん。阪大やもんな、それは俺もそう思う」


 将来への保険、親に与える安心感。そのために稜は、実家から通える大学で一番の国立大学に通っていた。この学歴があれば、就職に苦労することはない。むしろ、条件のいい職場も選びやすい。将来設計としてはかなり見通しがいい。しかもその道は明るい。だが、それは保険なのだ。本心は違う。


「阪大の学歴使って就職する。普通に考えたら大アリの選択やん。でも就職しながら目指せるほど漫画家って簡単になれるもんちゃうやんか」


「俺もちょうど最近将来とか考えたで。でも思うんやけど、漫画家目指せんのって今だけかなって。だから俺は漫画家になろうと思う。やし、俺は稜と漫画家になりたいと思ってる」


「僕も漫画家になるなら亜翠としか考えてへん。けどそもそも僕はそういう先の見えないとこに飛び込めるような人間じゃないから、迷うんよ」


 亜翠と漫画家になりたい。だけどそんなあやふやな未来に自分を全ベットできる勇気がなかった。そんな僕のとても利己的な不安や迷いを伝え、その日は解散した。



 その夜、突然亜翠からLINEのメッセージが来た。

『ちょっと家の外出てきてくれへん?今直接伝えたいことがあって』


 何事かとびっくりしたが僕は家を飛び出した。マンションのエレベータを待つ時間がじれったくて螺旋階段を走り降りた。亜翠はいつも乗っている電動自転車を僕が住むマンション下まで急いで走らせてきてくれたようで、息を切らしていた。


「ちょっと歩こう」


 僕の住むマンションのすぐ上にある高校、その前のバスロータリーを横切り、橋を渡るとそこには芝生の絨毯が広がっている。


 冬を前にした季節の夜は少し肌寒いが、近くの公園まで歩く頃にはちょうどいい気温になっていた。公園には阪神淡路大震災の被災者に対する祈祷のモニュメントもあるが、もっとも目立つのがプリン型のオブジェ。僕と亜翠はその下の階段に腰をかけた。石造りの階段はズボンの布越しにじんわりと冷気をよこしてくる。


「それでどうしたん?」


 僕はいきなり本題を振った。回りくどくしてもしょうがない。伝えることがあるらしいから。


「今日話したやんか。将来のこと。迷うって言ってて俺もその気持ちは分かる。勇気のいることやもんな」


「うん」


「でもこれだけは言わせてくれ。俺は稜と漫画家になりたい。稜となら漫画家になれるとマジで思ってる」


 まっすぐなその目で告げた亜翠のその言葉はなんの躊躇いも曇りもないように感じた。亜翠は続ける。


「俺は1人でこれまで漫画描いてた時期もあった。2人で書くようになっても色々あったけど、稜の描くストーリーで俺がそれに絵をつけて。俺たち2人でなら絶対に漫画家になれる。2人で漫画家になろう!!」


 嬉しかった。僕も本当は2人で漫画家になりたいと高らかに宣言したかったから。だけど勇気がなかった。

 亜翠はそんな僕の腕を引っ張ってくれた。何よりそれを直接言いにきてくれたこと。それだけ亜翠が本気であることが胸に響いた。

 亜翠のその本気の言葉を聞いて、気づいたときには僕は亜翠の手を握っていた。強く握手した。これまでになく、強く。


「分かった。やろう」


× × ×


 大きなプリンの下で交わした約束。2人で抱いた大きな野望。覚悟の決まった僕たちは漫画家になるためのロードマップを見事クリアして大人気漫画家街道を進む……そんな未来が開けた瞬間。

 

 いつかインタビューで聞かれたならばドヤ顔で答えるつもりだった。横にいる相方を指差し、「コイツの一言で始まり、コイツの一言で僕の覚悟も決まったんです。本当に頼もしい相方ですよ」と。


 その2年後にその相方の一言で全てが終わるとは夢にも思わなかった。皮肉にもまた同じ大きなプリンの下で。

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