キャットストリートで待ち合わせ
鹿ノ杜
第1話
「今日は何をつくるの?」
「今日? 今日はね、ニンジンとナスの炒めもの。なんか、味噌で味つけたやつ」
ニンジンの皮をむきながら、ハツカは心なしか機嫌がよさそうな少し弾むような声だった。日当たりが悪く薄暗い台所で、手元を蛍光灯で照らしながら僕の恋人は夕食をつくっている。手際がいい……とは言えないが、と心の中で思っていたら彼女に怒られるだろうか。飲みかけのレモンチューハイが冷蔵庫の上に置いてあって、口をつける。ぬるくて、気が抜けている。たぶん、彼女が昨夜に飲んでそのままになっていたのかもしれない。何も言わず、元の場所に戻す。
台所をうろうろと歩き回り、思い立って、洗面所に行き、戸棚から入浴剤のバラエティボックスを取り出す。ハツカと草津温泉に行ったことを思い出し、「草津」の筆文字と湯もみをする女性たちのイラストが描かれた黄緑色の個包装を選び取る。僕たちが大学を卒業した翌年か、あるいはその次の年だったか、二、三年も経っていないはずだったが、はっきりとは思い出せず、聞いてみようと台所に戻る。するとハツカが気のないように話しかけてきた。
「ねえ、私たちってお互いに甘えちゃってるよね。で、たぶん一生、結婚しないよね。だから、一回、別れようかなって」
ハツカは左右の肩をそわそわと前後させながらガスコンロに向き合ったまま、料理を続けていた。フライパンの中で油がはねて、絶え間なく、ちりちりと鳴っている。彼女の顔をのぞき込むと、彼女は困ったように口をゆがませて、笑い、頬をなでるようにかく。
「わかってた?」
僕が何も答えないでいると、ハツカはその後も言葉を続けた。彼女の言葉を聞きながら、台所を見回した。ガスコンロの周りに並べられた調味料のフタが開いている。油のはねた壁と電気のスイッチは黄ばみ、汚れていて、すぐそばにある玄関の扉も同じ色をしている。
大学時代から付き合っていて、都内の大学を卒業したから、そのまま都内に就職して、だからたまたま別れないでいただけの関係だったのだと、そういうことを言われたときに妙にしっくりきて、彼女が並べ続ける他のどんな理由よりも納得してしまった。
料理ができたのか、ハツカはガスの火を止めた、と同時にお風呂のお湯が溜まったことを知らせる電子音が響き、「先に入っちゃおっか」といつものように服を脱ぎ始める。ティーシャツを脱ぐのと同時に下着ごとズボンをずり下げるという器用なやり方であっという間に裸になる。僕の手から入浴剤を奪い取って、パッケージを破る。僕も服を脱ぎ、後を追う。
いつもは向かい合わせて座る浴槽の中、彼女は僕に背を向けて、入浴剤をお湯に振り入れる。お湯がはねる。話は終わってしまったのか、もう何も言わなかった。
ハツカの後頭部が目の前にある。昨日までは、染めていた髪が伸びて根元だけが黒髪になっていたはずだったが、染め直したのか、マットカラーのブラウンに、とても自然に染まっていた。彼女のつむじを見つめながら、僕より背の高い彼女のつむじをこれまで何度、見たことがあっただろうと思い至る。考えているうちに彼女は勢いをつけて湯船から上がり、シャンプーを手に取った。
夕食を終えて、
「明日から、荷物、まとめ始めるね」
と、彼女が言うから、ああ、さっき台所で起きた話し合いは本当にあったできごとだったのだと気づく。話し合いというほど、何かが熱心に話し合われたわけでもなかったが。
眠るときには同じベッドで眠る。ベッドが一つしかないから。
ハツカは、また、背を向けていて、
「もう、寝た?」
と、彼女の背中が言った。
僕の肩はかすかに彼女に触れていた。しばらくして、彼女が震えているのがわかった。泣いているようだった。慰めるのは、なんか違うな、と僕にだってわかっていた。
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