第115話 天使と悪魔

 まずい……まずいまずいまずい!!


 普段は出ないような汗が身体からジワリと滲み出る。腕に力を入れている感覚はないのにまるで出来の悪い人形かの如く思うように動いてくれない。


 スマホの画面を見つめたままピクリとも動かない鈴乃を見て、数分前まで深かった呼吸は徐々に徐々に浅くなっていく。


 ど、どうする……!?あの画面を見られた時点で良い訳くそもない状況なんですけど!!もう手も足も出ないどころの話ではないんですけど!!


 決定的な証拠を押さえられてしまった以上、今までのような誤魔化し方や言い訳は通用しない。少し前に鈴乃から「文化祭は女の子が寄って来るかもだから気を付けてね」と言われたばかりなのにこうして女の子と一緒に文化祭を回る約束をしているというのは非常によろしくない。

 

 なんか自分がくず男になった気がして仕方がないんだけど……き、気のせいだよね?頼むから気のせいであってほしい。


「ひゅっ……」


 鈴乃から放たれる異様な圧が雪の坂道をコロコロと転がっていく雪玉のように大きくなっていく。それはもう接触したら大怪我では済まないほどの大きさに。


 錯覚なのは分かるけどゴゴゴゴゴっていう擬音語が見えてきたんですけど……。これはハラキリしないと許されない奴ですか?


「っ!」


 鈴乃が息を吸ったところで俺はびくりと体を揺らす。彼女を包むオーラのせいかただ息を吸っただけでも冷や汗が止まらない。鈴乃がこっちに歩いてきたら私……どうなっちゃうの!?



「はい、お兄ちゃん」


「へ……?あ、ああ。ありがとう鈴」


 先ほどまで鈴乃が纏っていた空気は一瞬で霧散し、いつも通りといった感じでスマホを俺に渡してくれた。


 い、一体これはどういうことなんだ……?


 自分の中で想像していた未来とは大きくかけ離れた出来事に俺の頭はパニックを起こす。


「あ、お兄ちゃん。明日お兄ちゃんのシフトが終わった後って空いてる?」


「ああ、空いてるよ」


「じゃあ一緒に回ろう?」


「もちろんでございます。喜んでお受けいたします」


「ふふ、なんで急に敬語になったの?」


 ついつい敬語で話してしまったことに対して鈴乃が不思議そうに笑顔を溢す。お、俺がおかしいのか!?俺がおかしいのか!?!?


「い、いやなんでもないよ。ほら、今日最後の仕上げとして接客の練習してたからそれが移ったんだよ多分」


「そっか、じゃあ私部屋に戻るから。明日楽しみにしてるからね」


「お、おう……」


 ぱたりと扉が閉められる。自分は夢でも見ていたのかと閉められた扉を見ながら目をぱちぱちとさせる。


「……とりあえず寝た方がいいかもしれないわ。うん、寝て起きて謝ろう」


 俺は茜先輩への返事を手早く済ませ、ベッドに横になる。晴翔は考えるのを辞めたのであった。







 かちゃりと自室の扉を閉め、私は水泳選手の様にベッドへと華麗に飛び込む。


「すぅ……お兄ちゃんのばかああ↑あああ↓あああ↑!!」


 足をジタバタとさせながら枕を口へと押し当て、お兄ちゃんに聞こえない範囲の声で叫び、ストレスを発散する。まだ制服のままだがしわが出来ることなどお構いなしにゴロゴロとベッドの上をのたうち回る。


 お兄ちゃんのスマホを拾ったとき画面に映っていた会話の内容と相手。ええ、それはもうバッチリと確認しましたよこの目で。ちゃ~んとこの脳が会話の一言一句を記憶してますとも……スゥ


「んんーんんんんんんー!!(お兄ちゃんのばかー!!)」


 私はこれでもかと枕に顔をうずめ、そして布団をばさっと自分に被せて出来るだけ大きい声を出す。……息しづらいからやめよう……それに急に動いたせいか体暑くなってきたし。


 布団をどかし、ぼーっと天井を眺める。お兄ちゃんのスマホを見た時、私の心と頭はどうしようもないくらいに熱を帯び、黒色に染め上げられていた。


 茜先輩と文化祭回る約束してる。しかもこれ絶対に二人っきりでだよね?絶対にお兄ちゃんを狙ってる。やだ、やだやだやだ。どうしてお兄ちゃんは断ってくれなかったの?私女の子には注意してって言ったはずなのに……もしかしてお兄ちゃんは茜先輩のことが好きなのかな?ダメ、そんなの絶対にダメ。


 お兄ちゃんにどういう事か問い詰めたかった。茜先輩のことが好きなのか聞きたかった。女の子と二人っきりでいないでって言いたかった。でも私は昂る感情をぐっとこらえた。止まることを知らないお兄ちゃんへの愛に一時的に蓋をした。

 

 夏休みの一件以来、私のお兄ちゃんを思う気持ちが時にはお兄ちゃんを困らせるのだと学習したのだ。せっかくの文化祭なのに私が感情の赴くままに愛を嘆いたらお兄ちゃんを困らせてしまう。


 茜先輩とお兄ちゃんの仲が良いのは知っている。だから二人で文化祭を回る事にも納得はいく。分かってる、分かってはいるのだ。でも──────


 そんなの許せるはずがないでしょ!?!?


 私は再びベッドの上を右へ左へどんぶらこどんぶらこと暴れまわる。


 私がした選択は間違ってはいないと思うし、よく感情を抑えたと自分の頭をよしよしと撫でてあげたいとも思う。かと言ってお兄ちゃんが茜先輩や他の女の子と仲良くしているところを想像しただけで私の心は暗雲が立ち込めるどころか暗闇が光を全て飲み込んでしまう。


 やっぱりあの時怒らないにしても何かしら質問はした方が良かったと今更後悔の念が込み上げてくる。せめて……せめて茜先輩とどういう関係かなのかとか他の子と行くのかとか、好きな人が出来たのかとかなんで私に相談もせずに決めちゃったのかとか、私に隠すってことはやましい気持ちを持ってるんだとか聞いておけば良かったよ……。


 はぁと大きなため息を吐き私は廃人のように全身から力を抜き虚空をぼんやりと眺める。

 

「だから言ってるのよあの時にちゃんとお兄ちゃんとオハナシをするべきだったって」


 その声は……悪魔の私!?


 脳内で黒い服に身を包んだ私が肩にそっと手を置き私に話しかけてくる。


「ふん!そんなにうじうじ悩むくらいならお兄ちゃんが動けないように跨って視線が離れないように手で顔を固定して吐息がぶつかるくらいの距離でじっくり話をすればよかったの!それなのにこの私は……!」


 きっと悪魔の私が睨む方向には白い服に身を包み、悪魔の私を呆れたように眺める天使の私がいた。


「さっきも話したでしょ悪魔の私。以前それでお兄ちゃんに迷惑をかけてとても寂しい気持ちになったの忘れたとは言わせないよ。それに明日は楽しい文化祭、私のせいでせっかくの文化祭をつまらないものにはしたくないでしょ?」


「だからってあの女とお兄ちゃんを一緒にしても良いわけ!?あの女絶対にお兄ちゃんに気があるんだよ!?」


「それは……確かにすごく気になるけどこれもお兄ちゃんのためを思えば仕方ない事なの!」


「ほら天使の私も揺らいでるじゃん!」


「ぐぬぬ……そりゃ私だってお兄ちゃんが他の女の子と一緒に居るなんて嫌だもん!」


「だからあの時私に任せてって言ったんじゃん!」


「でももしあの時私に任せてたらお兄ちゃんに迷惑掛かってたかもしれないじゃん!」


「でも結局後悔してるじゃん!」


「しょうがないことなの!さっきからうるさいよ私!」


「さっきからうるさいのはそっちでしょ!」


 がやがやと言い争いを続ける天使と悪魔の声に鬱陶しさを感じた私は両耳を手のひらでしっかりと塞ぐ。がしかし、その二人の声は外的なものではなくあくまで自分の脳内で繰り広げられているため耳を塞いでもそのうるささが消えることは無く、先ほどよりもだんだん幼稚的な言い争いへと発展していく。


「二人ともうるさい!静かにして!!」


「「ご、ごめんなさい……」」


 私は心の中で大声を出し二人のやり取りを静止させる。なんか急に疲労感が……。


 文化祭準備のせいかあるいは、原因はよく分からないが今まで感じていなかった疲労感が身体を襲う。私は大きくため息を吐き、ゆっくりと瞼を閉じる。少しだけ寝よう……何か考えるのは起きてからでいいや……。


 眠りに着こうとした鈴乃であったが、しばらくして再び天使と悪魔の喧嘩もといどっちがお兄ちゃんのことを好きかという論争が始まり、それに頭を悩まされることになるのであった。

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