第78話 人体模型

 床と足がぶつかる音と、衣擦れの音が暗闇の中で響き渡る。夜の学校への恐怖はどこへやら、俺の意識のほとんどは隣にいる少女と、自分の左手へと向けられていた。


 ひんやりとした、それでいて温もりを感じる青葉の手。触れるようなものではなく、隙間を埋めるようにしっかりと手を繋がれているため、意識しないように努めてはいるもののどうしても引っ張られてしまう。


「「………」」


 手を握ったことで今までは曖昧だった青葉との距離が明確なものになってしまう。彼女も少し恥ずかしさがあるのか、先ほどまでは自然に行われていた会話もピタリと止まってしまう。


 非常に居た堪れない……今すぐにでも逃げ出したい……。


 ざわざわ、ぞわぞわとする胸のざわめきに俺は下唇を噛む。体はゆっくりとした動きをしているのに、心臓だけが全力で足踏みをしているみたいだ。


「えと……その、怖くないか?」


 心臓から全身に伝わるくすぐったさから何とか抜け出そうとするべく、俺は適当な話題を青葉へと振る。これで少しでもこの居た堪れなさが改善すればよいのだが……。


「ええ、今は大丈夫。晴翔君のおかげで、ね」


「……それはよかったです」


 悪戯に微笑む青葉を見て俺はそっと視線を逸らす。居た堪れない気持ちを改善するために話題を振ったというのにどうしてより居心地が悪くなっているんですかねぇ。


「着いたな……失礼しまーす」


 ガラリと理科室の扉を開けて中へと入る。


「……大分出そうだな」


「私も思ったけど……あんまりそういう事口に出さないで」


「すまん、ついな」


 今日回ったところで一番肝が試されるなと思うほど、理科室の空気が冷たく感じられた。ホラーが大丈夫な部類の俺でも、背筋がぞくりとするくらいには。


「……剥製もかなり不気味だな」


「え、えぇ……そうね」


 青葉は今まで以上に俺との距離を詰め、手を握る力を強める。このことについて言及しようか迷ったが、言っても離れる未来が見えなかったため口を紡ぐことにする。


「さっさと人体模型見て帰るか」


「そ、そうしましょう……」


 内臓をむき出しにしながら無機質な顔のまま突っ立っている人体模型。確かにこれはかなり怖い、茜先輩が見たら泣き出しかねないほどだ。


「いやこれは怖いわぁ……」


「は、早く戻りましょう晴翔君」


「そうだな」


 もう既に距離という概念をお忘れになっている青葉さんからの提案に俺は首を縦に振る。これでやっと解放される……鈴乃になんて言い訳するか考えとかないとなぁ……ああ、頭が痛い。


 ……カタカタ……カタカタ……


 理科室を後にしようと人体模型から背を向けた次の瞬間、聞こえるはずのない音が背後から鳴る。まるで何かが動いているような、そんな乾いた音が静かな理科室にこだまする。


 まさかと思った俺は恐る恐る振り返る。


「ひっ……きゃー!!!」


 なんという事でしょう、人体模型がカタカタカタカタと震えていたのだ。非現実的な現象に青葉は悲鳴を上げ、俺の腕にしがみつく。顔は見えないがおそらく彼女の表情は恐怖の色に染め上がっていることだろう。


 もしかしたら俺も恐怖で変な声を上げていたかもしれない。ただ俺の心は人体模型が突如動き出したことへの恐怖が入る隙間が無いほどに、あることへの驚きで埋め尽くされていた。


 人体模型の後ろに何かがいる。そしてその何かが人体模型を揺らしているのだ。


 しばらくカタカタと揺れ動いていた人体模型は、何事も無かったかのようにピタリと停止する。


「いやぁ……久しぶりのお客さんだったから気合入れすぎちゃったかな~」


 つかの間の命を手に入れ、そして失った人体模型の体をすり抜け、一人の少女が現れる。悪戯が成功し、悪い笑みを浮かべている彼女はセーラー服、おさげと水平に切りそろえられた前髪等、一昔前の学生のような姿をしている。


「ふっふ~ん、どれどれ……お姉さんに怖がっている顔を見せておく……れ……?」


 そんな彼女とバッチリ目が合う。彼女は数回瞬きをした後、何かを考える素振りをする。そして俺の周りをくるくる回ったり、俺の目の前で手を振ってみたりしてから元の位置に戻る。そして──────


「きゃあああああああああ!?!?何で私の事見えてるのおおおおお!?!?」


 いや、なんで幽霊の方が叫んでんだよ。

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