十字路の女

水野 七緒

第1話 紗夜

 ──また、こっちを見ている。


 いつもの十字路で幼なじみを待ちながら、紗夜さよは鞄の持ち手を強く握りしめた。


 その女は、いつも電信柱の陰にたたずんでいる。

 年齢は紗夜よりずっと上、間違いなくハタチを超えている。

 たるんだ身体を薄紫色のワンピースで包みこみ、ボサボサに伸びた髪の隙間から、ただじっと紗夜を見ているのだ。

 そのどうしようもない陰気さを、なんと言い表せばいいだろう。

 けれど、もっととタチが悪いのは──


「悪い、紗夜! 遅くなって!」


 幼なじみのこうが、ようやくやってきた。


「……うん? なんかお前、顔色悪くね?」

「あそこ……」

「あそこ?」


 紗夜が指差したのは、例の女性がいる電信柱。

 なのに、宏太は不思議そうに首を傾げた。


「なに? あそこになんかあるの?」


 ああ、やっぱり宏太には見えていない。

 いや、そもそも紗夜にしか見えていないのか──あの女は。


「うわ、やっべ! 遅刻しそうじゃん!」


 急ぐぞ、と早足で歩き出した宏太を、紗夜も慌てて追いかける。

 それでも背中に刺さる不快さは、なかなか拭うことができなかった。




 途中だいぶ走ったおかげで、学校には予鈴前に到着することができた。


「あっぶねぇ……今日は……マジで……ダメかと……思った……」

「ほんとだよ……もっと……早く来てよ……」

「悪ぃ……つい寝る前……麻里奈まりなと長電話して……」

「宏太くん、遅ーい」


 フローラル系の香りが、ふたりの間に無遠慮に割り込んでくる。

 細い肘が紗夜の二の腕に当たり、痛みが鈍く広がった。


「なんだよ、麻里奈。お前も今来たとこ?」

「違いますぅ。私はちゃんと早く来てましたぁ」


 ほら行こう、と麻里奈は、宏太の腕に手を絡めて歩きだす。


「ねえ、今度家まで起こしにいってあげよっか?」

「いいって。お前んち遠いじゃん」

「えーでもおはようのキスとかしてみたーい」


 すれ違った一年生がギョッとしたように振り返る。けれども、同じ二年生は誰もこれといった反応を示さない。麻里奈のこうした言動は、今に始まったことではないからだ。

 ひとり取り残された紗夜の肩を、誰かがポンと叩いた。


「あいかわらず目の敵にされてんねー」

なお……」

「あいつ、自信ないんだよ。紗夜よりブスだし性格悪いから」

「そんなことないよ。かわいいよ、笹原ささはらさん」


 紗夜につっかかってくるのは、いろいろ誤解しているだけなのだろう。

 本当に、自分たちはただの幼なじみに過ぎないのに。


「……ねぇ、それほんと?」

「え?」

「ほんとにあんたと金倉かねくらってただの幼なじみなの?」

「そうだよ。それ以外に何があるの」

「なにがって、そりゃ……」

「そんなことより早く行こう。本鈴鳴っちゃうよ」


 強引に話を打ちきると、紗夜は先に歩き出した。


(これでいい)


 本当の想いは、誰にも知られてはいけない。宏太に交際相手がいる以上、決して表に出してはいけないものだ。

 それに「幼なじみ」としてなら紗夜も大事にされている自負がある。


(それだけで十分)


 なにより「好きな人の幸せ」は「自分の幸せ」だ。

 宏太が幸せならそれでいい。不満なんて、あるはずがない。



 ところが、その翌朝のこと。


(あれ、宏太、今日早いな)


 待ち合わせの十字路に、すでに見知った背中がある。

 きっと昨日の寝坊を反省してくれただろう。口元を緩めながら、紗夜は歩く速度をあげようとした。


「えーあの子のこと、まだ待つの?」


(……え?)


「待つも何も、まだ約束の時間前だろ」

「でも、私たちが来てからもう5分経ったよ? さっさと行こうよ、ね?」


 ポケットのなかで溶けた飴玉のような、ねっとりとした声。とっさに物陰に隠れたのは、それだけで声の主がわかってしまったからだ。


(どうして、笹原さんがここに?)


「ほらー、時間だよ。きっと寝坊だよ。さっさと行こうよ」

「待てって。いちおう連絡してみるから」

「えーいいじゃん、放っておきなよ」

「そうはいかねーって。いつも一緒に行ってんだから」


 宏太がスマホを取りだしたので、紗夜は慌ててメッセージアプリをタップした。


「あ、電話きた──なにやってんだよ、紗夜。まさか寝坊か?」


 第一声が、受話口からと数メートル先のリアルな声とで混じりあう。


「うん……まぁ、そんなところ」

『マジかよ。めずらしいな、お前が寝坊するなんて』


 軽やかな笑い声をあげる彼に、麻里奈がいきなり抱きついた。


『うわっ』

「……どうしたの?」

『いや、ちょっと……なんていうか……』


 あいまいに言葉を濁しつつも、宏太の目は麻里奈へと向けられる。

 絡みあうふたつの視線。これまでとは違うその濃密さに、紗夜はなぜふたりが今朝一緒にいるのか察してしまった。


(泊まったんだ……宏太の家に)


 それはつまり──そういうことなのだろう。力なく塀に寄りかかる紗夜とは対照的に、宏太の声はどこか弾んでいる。


『なあ、今日は先に行ってもいい?』

「え……」

『いや、だって……お前、寝坊したってことは遅れるんだろ? だったら先に行こうかなって』

「……そうだね」


 私は、宏太が寝坊しても待っているのに。


「ええと……ごめんね、寝坊して」

『いや、いいって。じゃあ、遅刻するなよ』


 通話が切れるなり、ふたりの距離がさらに縮まった。まるでそうなることを望んでいたかのように。


(すごい……みじめ……)


 心のなかでこぼれた本音。

 けれど、それを認識してすぐに、紗夜は激しく頭を振った。


(──ううん、違う)


 ここは「よかったね」と喜ぶべきところだ。

 幸せそうでよかったね。

 ますます仲良くなってよかったね。

 お互い、好き同士でよかったね。

 たくさん愛しあえて、よかった──


「消シテアゲヨウカ?」


 耳元に、生臭い息がかかった。

 そのあまりにもの不快さに、紗夜は短く悲鳴をあげた。

 いつのまにか、すぐ真後ろに例の女が立っている。

 太った、醜い、ボサボサ頭の「十字路の女」。今までは電信柱の陰からジッと紗夜を見ているだけだったのに。


「なんですか、いきなり」


 女は答えない。ただ、前髪の隙間から覗く目が、意味ありげに笑っている。


「あの、私の声、聞こえてますか?」

「……」

「あなたはどなたですか?」

「……」

「消すって何を……」

「アノ子」


 またもや、生臭いにおいが鼻をついた。


「イイヨ、消シテアゲル」

「えっ……」


 待って、と呼び止めるより先に、女はすうっと消えてしまった。

 現れたときと同様、まるで煙かなにかのように。


「なに、今の」


 やはり彼女は幽霊なのか。だが、幽霊が話しかけてくるなんて初耳だ。


(それに「消す」って……笹原麻里奈を?)


 嘘だ。そんなこと、できるはずがない──



笹原麻里奈が失踪したのは、それから3日後のことだった。

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