伯爵令嬢エルの不思議な10日間〜もう一つの世界でどれだけ愛されても、やっぱり貴方に会いたい〜
椎名さえら
第1話 「幼馴染との婚約 ①」
「エル、お前に“ちょうどいい”婚約の話がある」
父であるグレンフェル伯爵があっさりした口調で、エルフリーデの婚約話を切り出したのは、うららかな春の朝食の折であった。
(私に……ちょうどいい、婚約の話……?)
それまでただ黙って朝食を口に運んでいたエルフリーデは、ゆっくりとカトラリーを皿に置く。
(婚約、婚約ってどうして、急に……それも……相手はどなたかしら)
今まで父が婚約を匂わせてきたことは一度もなく、見当もつかない。動揺のあまり、ちょっとだけ食器の音を立ててしまった。
「えぇー、お姉様に“ちょうどいい”婚約の話ぃ? 興味あるわ、お父様」
エルフリーデの隣に座っているマリスがふふっと笑う。
(嬉しそうね、マリス――厄介払いできるし、私の相手なんて、たいしたことないって思っているんでしょうね)
義妹の考えは、手に取るようにわかる。
なぜなら、マリスはずっとこうだったから。
金髪碧眼の持ち主であるマリスに比べ、くすんだ茶色の髪と、紺色の瞳の持ち主であるエルフリーデは、どうしても地味な印象を与える。顔貌はまるで似ていない――それは当然だ、なぜならエルフリーデとマリスは血が繋がっていないからである。
エルフリーデの母ジョセフィーヌはとても優しい人であったが、体が弱く、エルフリーデが八歳のときに病没した。大好きだった母が亡くなり、エルフリーデは塞ぎがちになった。
母を愛していた父もがっくりと落ち込み、周囲にすすめられるがまま、ジョセフィーヌの遠縁であり、かつ不運にも馬車の事故で夫を亡くした義母と再婚したのである。その義母の連れ子がマリスで、たった二歳しか違わない妹が突然できたのであった。
エルフリーデがマリスに初めて会ったのは、すでに結婚の約束が取り決めされた後だった。整った容姿の持ち主のマリスはまるでお人形のようで、エルフリーデはなんて可愛いと素直に胸の中で思ったものだ。
マリスもエルフリーデに親しく振る舞ってきて、ああ、義妹とうまくやっていけるかな、ほっと胸を撫で下ろした。
『お姉様、って呼んでいい?』
けれど、父と義母の前ではそう殊勝に振る舞っていたマリスが本性をあらわすのはすぐだった。子どもたちだけになると、それまでの親しみやすい笑顔はマリスから一瞬で消え失せる。若干七歳だったマリスのあまりの豹変ぶりに、エルフリーデは唖然とするのみだ。
『仕方ないから、みんなの前ではお姉様って呼んであげる』
『……!』
マリスはエルフリーデを頭から爪の先まで眺めて、完全に馬鹿にしたような表情を浮かべる。
『だっさい』
『”ださい”……?』
今まで面と向かってそんなことを言われたことがないエルフリーデは唖然とするしかない。
『返しもださいのね。ほんっと、だっさい髪色に、つまんない目の色。お母様だったら、“へいぼん”って言うわね。ま、お母様があんたなんか可愛がるわけないけど。私が一番だから』
マリスはそう言って胸を張った。
エルフリーデの今後の生活を予見したような、そんなやり取りだった。
義母はさすがにマリスのように感情をむき出しにすることはなかったが、血の繋がらない継子であるエルフリーデに冷淡に接した。父が同席していればまだよかったが、そうではないとあからさまにマリスを優遇する。
それも――貴族的なやり方で。
『エルフリーデ』
義母がエルフリーデの名前を呼ぶと、じっとりと手に汗をかく。
『はい、お義母さま』
『またお皿にパンくずが残っているわ』
父は知り合いの貴族の家に出かけていない昼食時。
エルフリーデはうつむき、自分の皿に視線を落とした。供されたクロワッサンの、ほんのわずかなパンくずが皿に残っている。
気をつけたつもりだったのに、見落としてしまっていたようだ。
『貴女、何歳?』
義母がためいきをつく。
すると、エルフリーデの身体は条件反射のように強張ってしまう。
『マリスを御覧なさい。貴女より二つも年下なのにちゃんと綺麗に食べているわ』
得意満面なマリスが、ほらみたことか、と言わんばかりにお上品にナプキンで口元をぬぐっている。
(お母様だったら……、綺麗に食べるより、楽しく食べようって言ってくださるのに……!)
エルフリーデの母であるジョセフィーヌは、おおらかな人だった。
礼儀作法がどうでもいいと思っていたわけではないが、それでもエルフリーデが美味しく、楽しく食べられる方を優先していた。
(“年頃になるまでにゆっくり覚えていきましょうね”“社交界に出る前にはきちんとしましょう”って……言ってくださって……)
にっこり微笑んでくれた母は、エルフリーデによく似た面影の持ち主で。
エルフリーデは母に向かって、はい! と、元気よく頷き、母のためなら頑張れる、と思ったものだ。そんな母娘を父が愛しげに眺めていたのは――今でも鮮明に覚えているのに。
すべて失われてしまった。
残ったのは、冷たい眼差しの義母と、してやったりした顔をしてこちらを眺めているマリスだけ。
父がいればまだいいけれど、父は社交や所用で忙しく、ほとんど家にいない。
『ジョセフィーヌったら、まともに礼儀を教えてこなかったのね』
ため息まじりの言葉に、エルフリーデは母がひどく言われてしまう、と背筋を伸ばした。だが焦れば焦るほど、彼女の挙措は優雅さからはほど遠くなってしまう。
かちゃん、とカトラリーが皿に触れて音を立てると、義母は冷たくいい添える。
『聞き苦しいわ』
『あっ……、ご、ごめんなさい……!』
ふう、と義母がため息をつく。
『ジョセフィーヌもジョセフィーヌよ。いくら旦那様の寵愛を頂いていたからって、娘の教育はちゃんとしなくては……』
再びため息。
エルフリーデの心臓が嫌な音を立てる。
『ごめんなさい、お義母さま……』
義母の冷たい視線に、ひゅっと喉から声が出そうになるが、なんとか耐える。
『黙って。夕食からはお行儀よく食べるのよ』
『はい、かしこまり、ました……』
そうしてエルフリーデが意に染まぬ行動をしたとき、義母はため息をつく。いつしか義母がため息をつくだけで、エルフリーデの身体は強張るようになった。
――今ではエルフリーデは、自分の感情をすべて隠すように、存在を悟られないように、ただただそれだけを願って生きるようになっている。
その頃のエルにとっては、幼馴染の一人の少年だけが、心の支えだった。
『エル、このお花を君に――』
『ありがとう、ギイ』
だがそのささやかな彼との時間も、義母によって取り上げられてしまうのだが――。
「エルフリーデ、聞いているか?」
(いけない、私ったら……!)
物思いにふけっていたエルフリーデははっと我に返る。
「はい、聞いております」
「ならばいいが――それで、お前の婚約相手はギイ=クレモンヌを考えている」
続けられた父の言葉に、エルフリーデは目を見張った。
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