第7話 リヴァプールの発条足男


 時は一九〇四年――新世紀を迎えた当時の大英帝国は、実質的に世界の覇権国として君臨していた。

 産業革命は軌道に乗り、其の勢いは留まる事を知らず――世界経済の中心として、雅に『黄金時代』と呼ぶに相応しい発展を成し遂げており、栄華の頂点を極めんとしていた時代だった。


 此のリヴァプールの街も首都ロンドンに引けを取らない大都市として認知されており、全ての物が揃うと云われた世界有数の港湾都市としても其の名を馳せていたわ。

 嘗ては貴族や一部の特権階級にだけ廻っていた御金も市井の民にも廻り始め、多くの人々が其の繁栄の恩恵を享受しており、此の国に生まれたからには揺籠から棺桶迄、面倒を見て貰えると謳われていた――そんな時代に私は生まれたのよ。

 勿論、恩恵には授かれず、御金とは無縁の貧困層の人々も大勢居たけれどね。

 私の生家も労働者階級だけれど――でも贅沢は出来ないけれど、飢える事も無いといった家庭環境だったわね。

 今にして思うと、あの時代は――之は私の私見だけれど――豊かな様で貧しくて、煌びやかな様でみすぼらしい……虚飾と虚栄が充満する歪な虚構の世界だった様な気がするわ。そんな御時世だったから、発条足ジャックや切り裂きジャックなんていう狂人の出現が後を絶たなかったのかしらね……。

 

 始まりは一九〇四年、九月の終わる頃――当時、私は未だ七歳の幼子だった時分ね。

 御庭に植えた南瓜が大分、大きくなった頃――リヴァプールの街に大変な噂が流れたの。何とあの、『発条足ジャック』が現れたというのよ! 

 最初の事件は或る日の夜、三人の酔っぱらいの前に突然、二階の屋根から飛び降りて来た怪しげな風体の男――其の姿は雅に話に聴く発条足ジャック其の物だったそうよ。銀色の服に黒いマントを羽織った其の怪人物は、赤い目をピカピカと光らせながらイキナリ口から火を吹いたそうで、酔っぱらい達は大慌てで逃げ出したとの事。

 其の三日後の夕刻には二人の若奥さんが後ろから現れた発条足ジャックに胸を揉みしだかれたそうよ。若奥さん達は恐怖の余り、気を失ったというわ。もう、学校でも家の近所でも其の話題で持ちきりの大騒ぎだったわね。

 御役人や警察は躍起になって、行方を追っていたけれど一向に捕まる気配は無く、民間でも彼方此方で自警団を組織したりしていたわ。


 発条足ジャックが一番最初に現れたのは前の世紀――一八三〇年頃。ロンドン中を十年近くも引っ掻き回した挙句に、忽然と姿を消しちゃったんですって。其れから三十年近くも経った後、人々の記憶からも忘れ去られ様としていた時に――再びロンドンの街に現れたそうよ。再現後はロンドン以外の場所でも暴れ回っていたそうだけど、調子に乗って軍隊に迄、ちょっかいを出したのがいけなかったようね。今回はロンドン警視庁スコットランドヤードだけではなく、大英帝国全体を敵に回してしまい流石に不味いと思った様で再度、姿を消したのよ。

 其れから又、約三十年近く経った一九〇四年に再々度、発条足ジャックは現れた。しかも今回は首都ロンドンでは無く、此処リヴァプールの街にね……。

 突如、降ってわいた此の『発条足ジャック』騒動で、之から冬を迎える支度で忙しい人々は口々に文句を其処彼処で云い合っていたわ。

 

「発条足ジャックってのは、三十年周期で現れる物の怪なのか?」

「馬鹿云え、最初の奴以外は模倣犯って奴だよ」

「何にしても、何でロンドンじゃ無くて、此処リヴァプールに出るんだよ!」


 でも、大人達は戦々恐々としている雰囲気では無かったわ――だからと云って楽しんでいる訳でも無いけれど――何故なら発条足ジャックは切り裂きジャックと違い、人殺しでは無かったから、其処の部分では何処か安心していた様だわね。

 発条足ジャックが何件かの殺人事件を起こしたという公式記録は有るけれど――街談巷説によれば、あれ等は全て発条足ジャックの仕業に見せかけた別の人物が起こした殺しであり、市井の人々の間では専ら冤罪だとの認識なのよ。発条足ジャックがのは人を驚かすか痴漢行為の何方かなので、気を付けるのは主に女性達なんだと云ってたわ。でも時折に暴力事件も起こす様だけど――あれは刃向かう相手にだけとの事だから、発条足ジャックに遭遇しても決して立ち向かう事はしない様にとも云ってたわね、喧嘩が強いそうだから。


 発条足ジャックが出現してから最初の内は連日の様に、新聞記事を賑わせていたけど大抵は皆が云う通りの悪戯犯罪でばかりでね――ひと月程経った時の統計によると、驚かされた拍子に転んで、尻餅を付いてギックリ腰なった者が二人――胸を揉まれた者が五人――尻を撫でられた者が六人と、そんな調子だったから、何だか次第に人々の恐怖も薄れ始めていたわね。

 でも油断は禁物、何せ彼に面白半分で立ち向かって、怪我をした者も何人か居たのも事実だから――下手に遭遇して扱いを間違えれば、取り返しのつかない事態に為り兼ねない可能性は充分に考えられる事だからねぇ……親や教師達は子供は絶対に夜道を歩いてはいけないと、キツく云われていたわ。

 

 或る日の日曜日――家の手伝いを終えた後、庭の木の下で何時もの様に姉のエミリーに本を読んで貰っていたの。姉は五つ年上で近所でも評判の美人だったわ――頭も良くて優しくて、自慢の姉だったのよ。此の頃の姉の御気に入りは『不思議の国のアリス』だったわね。

 何度も繰り返し読み聞かせて貰った話だけど飽きる事は無かったわ。姉の朗読はとても上手で面白かったから――此の日は第七章『おかしな御茶会』だったわね、姉は帽子屋と三月兎と山鼠の会話を器用に演じ分けて、面白可笑しく聞かせてくれたわ。

 散々笑わせて貰った後、アリスが綺麗な御庭に辿り着いた処で話は終わり――何だか私まで安心して眠たくなってね、姉の膝枕でウトウトしてしまったの。季節は十月の始めだけど、此の日は特別に良い陽気でねぇ……余計に眠気が増していったわ。


「私の可愛い、御寝惚けエリス! 御姉ちゃんのキスで起きなさい!」


 姉は激しい接吻キス抱擁ハグで、微睡む私を無理矢理起こしたわ。


「うわ~ん! 止めてよぅ、おねいちゃ~ん‼」

「幾ら陽気が良くても、御庭で寝たら風邪をひいちゃうわ。御家に戻りましょう」

「うん!」


 何時もと同じ穏やかな日常――何時もと変わらぬ昼下がりの午後――そう、何も違わぬ筈だった。あの奇妙な音にさえ気付かなければ……ピヨォーン、ピヨォーンという、あの可笑しな音に私が興味を示さなければ……。

 災いというのは決して他人事では無い――何時自分の身に降りかかるか解らないものだという事を、あの時嫌という程味わったわ。


「おねいちゃん、あの音は何?」

「え? 何か聞こえるの」


 私達は耳を欹てて、音のする方向を探ってみた。

 ピョン、ピョン、ピョンと何かが飛び跳ねている様な規則的な物音……何処だ、何処からだと意識を集中する……そして遂に音の聞こえた方角を特定して其処を指差し、「あっちからだよ!」と云った途端――向かいの家の外壁の中から――「」と、間抜けな声が聞こえた。そして次の瞬間、ピヨォ~ンと勢い良く奇妙なモノが飛び出して来た!

 大きな着地音が響き、私達の眼の前に現れたのは――銀色に輝く鎧の様な物を着込み、赤く光る眼鏡が付いた大きな兜を被り、黒いマントを羽織って、靴底には菱形の大きな板発条が付いていた――何処から如何見ても怪しげな変質者…………。



 選りにも選って我が家の庭先に――発条足ジャックが現れちゃったのよ‼

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