【短編】For No One

お茶の間ぽんこ

At dinner

 目の前には僕の同僚、A子が座っている。時間をかけて丁寧に手入れされているであろう長い黒髪は照明に当てられ、より可憐さを際立たせていた。髪をかけた左耳から伸びる紐状のピアスはとても魅力的だ。美麗な彼女の瞳から映る僕の姿は、相対的に不釣り合いだと感じさせられた。


「予約してくれたのに遅れちゃってごめんね。仕事が長引いちゃってさ」


「いいよ。むしろ遅くまでご苦労様」


 僕はウェイターに声をかけて、料理を運んでくるように促す。


「今月に入ってまだ二週間しかたってないのに、もう五十時間も超えてるのよね。ほんと、私がいなくなったら一体どうやって仕事を回すのかしら」


「人が少ないってのもあるけど、A子は仕事ができるから、どうしても他の人より仕事が増えちゃうんだろうね」


「トオルと同じ案件だったら良かったのにな」


 A子はウェイターに出されたワインに口をつけた。僕も何も言わずに口をつける。


「はあ、もう明日も休日出勤だし、本当に嫌になっちゃう。クソ上司はのうのうとゴルフにでも行ってると思ったら腹が立つわ」


 清楚な容姿に似合わない愚痴を漏らす。僕はいつものことだと静かに頷いた。


「でも会社で愚痴るわけにもいかないし、私は優しくて忠実な女社員のように振舞わなきゃいけない。いっそ体裁なんて気にしないで思いの丈をぶちまけたいわ」


「もうそうしちゃいなよ」僕はボソッと言った。


 すると彼女は溜息をついた。


「そんなことできないからここで愚痴ってるの。会社での私のブランドが傷つくじゃない。女ってそういうのを気にするものなのよ」


 そう言って「まあ、男には分からないだろうけどね」と添えてワインを飲んだ。


 つまらない女だ。A子は自分の価値にしか目がいかないような人種なのだろう。


「分かってあげられなくてごめんね」


「いいのよ。トオルは私の話を否定しないでちゃんと聞いてくれる。寄り添ってくれるのはあなたしかいないんだから」


 A子はワインで紅潮した頬をみせる。疲れも相まって酔っているのだろう。


 僕たちの間で沈黙が走る。おしゃべりな彼女も珍しく無口のまま、半分ほど飲み干したグラスに目を向けた。そして、右手首についた小さなほくろを軽く搔いた。


 僕はほくろを触るA子が好きだ。白い肌に薄っすら見える脈の隣に添えられたそのほくろは、彼女にとっては消し去りたい汚点なのだろうが、僕はそれがチャームポイントだと思っている。


「ちょっと、恥ずかしい」


 A子が言った。凝視していた僕は我に返り、「ごめん」と謝った。





 目の前には僕の彼女、サトミが座っている。時間をかけて丁寧に手入れされているであろう長い黒髪は照明に当てられ、より可憐さを際立たせていた。髪をかけた左耳から伸びる紐状のピアスはとても魅力的だ。美麗な彼女の瞳から映る僕の姿は、相対的に不釣り合いだと感じさせられた。


「ごめん、遅くなっちゃった」


「いいよ。おつかれさま」


 僕はウェイターに声をかけて、料理を運んでくるように促す。


「この店、とてもリッチだね。私には合ってない気がする」


「そんなこと言ったら僕なんてもっと似合わないよ」僕は苦笑した。


 サトミはウェイターに出されたワインに口をつける。


「前の用事はなんだったの?」僕は訊いた。


「大学で新入生の歓迎会があってさ。疲れちゃった」


「気疲れってやつ?」


「ほら、私って皆の前だったら今と雰囲気全然違うじゃない? 皆が考えるような女子大学生を演じるのも大変だよ」


「今のままでも全然浮かないと思うけどな」僕はそう言った。


 すると彼女は溜息をついた。


「駄目だよ。『郷に入っては郷に従え』って言うじゃない」


「郷に入っては郷に従え」僕は繰り返した。


「組織に溶け込むためにはその組織での常識に合わせて、自分が求められている役を演じなきゃいけないってこと。あなたの前で見せる私はどこの組織にも不適合だから、猫を被らなきゃ」


「サトミっていつも自分を過小評価するよね」


 僕は思っていることを口にした。


 サトミはワインを少し口に含む。


「私って他人には全く興味がないのに、ちゃんと人と繋がりを持ちたいのよね。ギブアンドテイクが成り立ってないくせに一丁前にそう思っちゃってる自分に嫌悪。だから人としての最低限のマナーを守りながら生きてるって感じ」


「僕だけとの繋がりじゃ駄目なの?」


 僕は酔った勢いで訊いた。


 彼女はワンテンポ置いて「うん、ダメ」と冗談っぽく言った。


 僕たちの間で沈黙が走る。無言のまま彼女は半分ほど飲み干したグラスに目を向けた。そして、右手首についた小さなほくろを軽く搔いた。それが彼女の癖なのだ。


「またいじってる」僕は口にした。


「ふふっ。私のチャームポイント」


 サトミは無邪気に微笑んだ。

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