8
白夜が姉をかばう直前のこと。
神里の家の前で家主が倒れていた。多くの村人に囲まれて。
一部の女たちが自分の寝間着の裾を破って止血するのに使っているが、もう手遅れだった。
皆、口々に彼女に呼びかけている。中には彼女の本当の名前である”若紫”を口にする者もいた。
「神里様!」
白夜が子どもの手を引いたまま名前を呼んだ。
察した村人が少年を預かってくれ、彼は駆け寄った。村人たちは隙間を作って彼のことを輪に入れる。
師は血だまりを作り、腹部を押さえていた。そばでは小さな少女が泣きじゃくっている。
聞けば、母親を失ったこの子が果敢にも獣に噛みついたらしい。それに怒った獣に刃を向けられ、神里がかばった。
子どもを持たない彼女が身を挺した姿は、母親のように勇ましかっただろう。
白夜が少女の肩に手を置くと、彼女は顔を上げた。目は真っ赤で涙にまみれている。
「わたっ……わたしのせいで……っ!」
「お前は悪くない……悪いわけがないよ……」
神里は弱々しい声で手を上げた。子どもの頭をなでると、白夜に力なく笑ってみせた。
「後はまかせたぞ、白夜……。朱里と二人で皆のことを……。ここではないどこかでもいい……生きろ」
いつもよりか細い声だが言葉に重みがある。白夜は一言も聞き逃すまいと、顔を近づけた。
紫水晶のように美しい瞳から、光が少しずつ失われていく。
血で汚れるのも構わず、白夜はその手を握った。大粒の涙が雨のように地面に落ちた。
弟子入りしてから数年。神里と朱里に遊ばれることも多かったが、笑っていることの方が多かった。
母を覚えていない白夜にとって、神里は様々なことを教えてくれる母だった。
鼻をすすると神里は目を細めた。震える手で白夜の手を握り返す。
「お前たちと過ごせて楽しかったなぁ……」
考えていたことは一緒だったらしい。彼女は遠くを見つめるような目になった。
白夜は何度もうなずき、”僕もです”と返した。
命のあたたかさが空へ消えていく。
生涯神に仕えることを誓い、恋に見向きしなかった彼女。
真面目な彼女は、どんな病も治したいと薬草の研究に熱心だった。
「お疲れ様でした。若紫様……」
名前のような美しさの瞳がとざされ、手の力が徐々に無くなっていく。
白夜は手を額に押し付けると顔をくしゃっとさせた。歯の隙間から嗚咽にも似た息がもれた。
森で身を潜めていた千郷と青一郎。
火の手やら叫び声やら、村の異変に気づいて聖域へ戻ってきた。煤が風に乗って飛んでくる。
村の中心地にある聖域に来るまで、凄惨な状況を目の当たりにした。
親を目の前で殺された子ども、妻をかばって倒れた夫、女きょうだいを身を挺して守ろうとする少年。
物陰に身を隠しながら移動してきた二人が彼らを手助けすることはできず。涙を呑んで目を背けてきた。
もしかしたら家族は。千郷は幼い姿の女の童たちが無事でいるのかが心配だった。
特に青玉。彼女は一回寝るとなかなか起きないし、寝起きはぼんやりしていて本当に起きているのか怪しくなる。
あの透き通った瞳を見ることができないかもしれない、と思うと胸が苦しくなった。
「私が行けば……」
「ダメだ!」
もう見ていられない。自分のせいで村人たちが犠牲になっている。
ご神体の後ろに身を潜めていたが、青一郎は飛び出そうとした千郷のことを抱きしめた。
連中が狙っているのは千郷だ。彼女が見つかるまで暴れ回るつもりだろう。
「好きな女を行かせられるわけないだろう……まるで生贄じゃないか……」
「でもこのままでは村の人たちが!」
青一郎が千郷に体重をかけた。何が何でも行かせないつもりなのだろうか。
千郷は、皆が救われるならこの身を捧げるつもりだ。
青一郎にもそれを分かってほしい。たとえこれが、彼の想いを裏切ることになっても。彼の夢を叶えてあげられなくなっても。
彼を押し返そうとするが、筋肉質で重たい男の体には勝てない。
まるで自分の体重を支える力がなくなったような。
「兄様……?」
呼びかけると、青一郎が地面にずり落ちた。
その背中には一本の矢。
「兄様!」
矢羽根の色は赤と黒。いつしか襲われた時にも見たものだ。
青一郎は千郷の呼びかけに答えることはなく、腕を投げ出して転がった。
「やっと見つけた」
「誰!?」
ご神体の向こう側に年若い男が現れた。
黒髪に黄金色の瞳。黒い着物姿の彼は手に弓、腰に刀を提げている。
この村の者ではない。敵だ。
千郷は青一郎とご神体を背に腕を広げた。
紫の瞳を細めると、凛とした声を放った。
「あなた、隣村の?」
「そう。君は聖なる血を持つ娘だね?」
押し黙る千郷に、若い男は舌なめずりをした。歳は千郷と同じくらいだろう。瞳はらんらんと光り、獲物に早く飛びつきたいのをこらえているように見えた。
「……だとしたらどうするの」
「その聖なる血を頂くよ。やっと手に入れた姿だ……。保つにはまだ足りない」
まるで、すでに他の者の血を飲んだような口ぶりに悪寒が走った。
幼い頃に神里に、吸血して生き永らえる魔物の伝承を聞かされた。もしや目の前にいる男はそれなのか。
千郷は身震いし、呼吸が浅くなるのを感じた。
男は猫のような瞳を細めて薄く笑うと、片手を上げた。
「……君はその二つを失うのが嫌なんだね。絶望を味わった血の方がうまいから……その岩も壊そう」
男の背後に現れたのは、様々な武器を手にした獣たち。いつの間に集結していたのだろう。彼らは闇にまぎれてひざまづいている。
「……やれ」
男の合図で甲高い音が響いた。頭の奥に突き刺さるような音に、思わず耳をふさいだ。
「ご神体がっ……!」
音の正体は、金槌で岩を打ち付けた音だった。ご神体の上に獣たちがよじ登り、各々の武器を手にしている。岩を砕く気らしい。
「やめて! 時の女神様のご神体になんてことを……!」
千郷の悲鳴はご神体を打ち砕こうとする音でたちまちかき消されてしまった。
「なんでこんなひどいことを……」
ここで毎朝、祈りを捧げていたことを思い出す。青一郎に供え物の野菜をつまみ食いされたことも、想いを伝えられたことも、想いをさらけだしたことも。
ここにいると、時の女神が優しく見守ってくれているように思えて心が安らぐ。
千郷にとって、他の村人にとっても大切な場所でこの村の象徴だ。
「ひどいこと?」
千郷がうなだれていると、男が冷ややかな声になった。
「この村の槍を持った大男や、刀で暴れまわってる女も大概じゃないのか?」
「玄吾さんと白里さん……?」
男の話で出てきた二人で当てはまるのは、あの鍛錬組しかいない。
「襲撃に加わっていない者たちを殺してるよ、わざわざ隣村へ行って。少年みたいな女が」
「そっ、それはあなたたちが襲ってきたからでしょう!?」
尚も言い返そうとすると、袖を引かれた。
「千郷……」
「にいさまっ……」
青一郎が青白い顔でささやいた。
千郷は子どものような泣き声で彼にすがる。
村はめちゃくちゃ、想い人の命は遠い空へ飛び立とうとしている。
自分がいつまでもいたい場所、共に生きたい人はなくなってしまう。
それならもう、ここにいる理由はない。
彼が腰に提げている小刀を手にすると、彼に奪われた。どこに残っていたのか、と聞きたくなる力強さで。
「ダメ、だ……お前はまだ死ぬんじゃねぇ……」
「いやっ!! あなたのいない世界なんて!」
「酷でも……これが、お前の
頭を打ち付けられたような、心臓を鷲掴みにされたような。
痛みと苦しみに顔が歪んだ。
「いやだ……」
子どもみたいな舌足らずな声で首を振ったが、彼は優しくほほえむだけだった。今までで一番苦しい痛みで早く意識を失いたいだろうに。
(私のせいだ……)
夢が現実になったのだ。今頃になって思い出した。自分が想いを告げてしまったから彼は。
多くの人を巻き込んで自身も不幸になる。なんてはた迷惑な力なのだろう。
千郷は悲しみと絶望で歪んだ顔で、震える手を見つめた。
青一郎は荒い息を吐きながら小刀を放ると顔をしかめた。痛みのせいなのか、最後に千郷を叱るためなのか。
彼は千郷の長い髪を手に取り、毛先を指で梳いた。
「今、あちらの世界に一緒に向かうことになっても……俺はお前のことを振り返らない。絶対許さないからな……」
「でもっ……」
「来世で、一緒になろう……」
あいしてる。
千郷の髪にふれていた手は地面に落ちた。木の幹から枝が切り落とされたように。
顔は穏やかで、いつもの微笑みを浮かべていた。血さえ流していなければ寝ているようにしか見えないだろう。
「うぅっ……うっ……! やだぁ……っ」
千郷は青一郎に覆いかぶさると、ひどく嗚咽をもらした。
この村で何度も人を見送った。もちろん、誰であろうと悲しかった。だが、捨てられた千郷を我が子同然で育ててくれた女たちが死んだ時も、こんなに泣くことはなかった。
もっと早くに結ばれていたら。二人の間に子どもがいたら。
想い合っていたのだから、それらを叶えられた未来もあったのかもしれない。ただただ静かに彼を想っていただけの時間が惜しくて仕方ない。
(青一郎さんっ……!)
あなたに好きと言われた瞬間に心臓が破裂したらよかった。
あなたに好きと言った瞬間に喉が切り裂かれたらよかった。
────あなたが先に死ぬなんて嫌だ。
「……いやあぁっ!!」
娘は気づいていないが、岩に大きな亀裂が走った。
男は口の端を上げる。
この岩を、この村の住人がなぜこんなにも崇めているのか謎だった。伝説の女神のご神体らしいが。彼にしてみればこんな岩、大きな川にいくらでも転がっている。
すると、男たちが声を上げた。どうやら岩に走った亀裂が深くなったらしい。
「君も見てみなよ、岩がついに────ん?」
死んだ青年にすがりついている娘は、岩には目もくれない。
それもそうだろう。崇め奉っているとはいえ、その岩が何かしてくれるわけではない。好きな男を優先したいだろう。
すると、その娘に異変が起き始めた。
青年にすがりついている彼女の体が黄金色に輝き始めたのだ。
衣が光でとけると肌が露わになり、見たことのない衣服が彼女を包んだ。真っ白な布を円筒状にし、二本の紐で肩で吊ったような。腰から下を覆う布はひらひらと舞っている。
まっすぐな黒い髪は波打ち、光り輝く金色へと変わった。
こんな人間、見たことがない。
「うぐわぁああああああ」
「たすけっ……」
「あっ……さまぁ! あつい!」
男たちの声に顔を上げると、岩を砕いていた男たちが黄金の光によって焼かれていた。岩から下りていたものも例外なく。地面でのたうちまわっている。岩の上で動かない人影は、逃げることも叫ぶこともできずに黒焦げになっているのだろう。
「あーあ……」
助けるでもなく同情するでもなく。男はため息をもらして眺めていた。
「ご神体が……!!」
「水だ! 井戸から水を汲み上げろ!」
騒ぎに気がついた住人が駆けてきたようだ。汗だくで煤だらけの男たちは傷を負っている。
彼らは男に気がつくと、早くこちらに来なさいと叫んだ。
どうやらこの村の住人だと勘違いされたらしい。
「……君の血だけは頂いていこうか」
男は娘に近づいたが、彼女がまとう光に焼かれたように手が熱くなった。指先は赤くなって煙を上げていた。
娘は顔を上げ、青年のことを見下ろしていた。
彼女は黄金の光と共に浮かび上がり、男の方へ振り返る。黄金色の髪と真っ白な服が美しく翻った。
振り返った彼女の瞳は水色に変わっていた。流した涙が水晶玉となって彼女の目にはめられたように。
やはり人間ではない。同じ存在にやっと会えたのかもしれない……。男は娘の生き血を呑むことも忘れ、彼女に笑いかけた。
「僕は
問いかけると、仏頂面になった。青年に泣いてすがっていた、無垢な娘と同じとは思えない。変わったのは姿だけではないようだ。ますます興味が湧く。
すると、彼女は声を発する代わりに悪鬼の腰元を指さした。冷たい目で見下ろす様子は、孤高の氷の女神のようだ。
「刀……? が、どうしたの?」
鞘ごと外して彼女に向けると、水色の瞳がキッと吊り上がった。
悪鬼に飛びつくと刀を勢いよく抜き、彼の胸を貫いた。
見事な速さだ。
胸の痛みは感じなかった。彼女がまとう光の熱さの方が痛かった。
「……あっ…………!」
かすかな叫びを上げることしかできず、地面に膝をつく。その拍子に胸に突き刺さった刀が重さを増し、胸から下が真っ二つにでもなったような痛みが全身を走った。
彼が最期に見たのは娘の顔だった。冷ややかで無表情なのに、その瞳から一筋の涙がこぼれた。
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