ぐるり。

渡貫とゐち

ぐるり。


「ちょっと、可哀そうだよ……」


「いいや、全然可哀そうじゃないね。俺は酷く傷ついた……だからどれだけこいつが泣き喚こうが、暴れようが、前言を撤回する気はない――結果的に冤罪だったわけだ……ごめんなさいで済ませるには、俺はダメージを負い過ぎてる。これは補償をしてもらわないと納得できないね!」


 痴漢冤罪である。

 当然、痴漢はしていないので、事情を話せば無実であると分かってもらえたが……しかし、「この人、痴漢です!」と腕を取られた時、言われた男はこの時点で『社会的に死んで』いるようなものだった……(死んでいなくとも骨折程度はしているだろう……、膝を擦り剥いただけ、ではない――決して)これは信用の話である。


 容疑を一度でもかけられてしまえば、その人は『そういう人 (痴漢をしそう)』であると誤解を受けたまま……、そのイメージはなかなか払拭されない。


 痴漢をした(していないのに……)、とイメージがついてしまう。これは明らかな損だ。

 だから補填を求めている……、なにかしらで得をしなければ、このまま帰ることはできない。


「ほら、この子もこうして何度も謝っているんだから……そう怒らないで。この子が、あなたが提示した大金を払えるわけがないでしょう?」


「払えないからお咎めなしか? わざとではないらしいが……、表向きはな。彼女が嘘をついている、とは言わないが……。だが、やはりリスクは負うべきだよ。

 犯人を決め付け、間違っていてもなんのペナルティもないとすれば、『間違っているかもしれないけど、とりあえず言ってみよう』が成立してしまう。あっちこっちで冤罪が起き、社会的に死亡した多くの大人を生み出すわけにはいかないんだ――これは必要なことなんだよ」


「うぅ……ひっく」


 リスクを負え、と言われた女性は、払えない大金に心がパンクしてしまったようだ。男性に責め立てられ、周りから注目を浴び、感情が高ぶってしまったらしい。

 両目から、大粒の涙を流していた……。さっきからずっと、屈んで泣いている。そんな女性を囲む、彼女を擁護する人々……「この人でなし!」と言ったような目を向けてくる。被害者は冤罪をかけられた男の方なのだけど……、泣いた側が守られるのは、いつの時代も同じなのか。


「悪いが、どれだけ反対意見が出ようが、俺は正式な手続きをするぞ……それで受理されなければ諦めるが……この女から、きちんと取れるものは取る。

 泣いている暇があるなら払えない金額をどう工面するのか考えた方がいいぞ」


「……この、金の亡者が……っ!」


 周囲にいた高齢の女性が、はっきりと口にした。これもこれで、名誉棄損として訴えてもいいが、そこまですると面倒だ……なので男は流すことにする。

 見逃した。

 今回だけは。


「ちなみにだが、今回、俺が受け取る金額は全て、被災地に送るつもりだが……――この子が払わないとなると、被災地の状況は今と変わらないことになるな――」



「払いなさい」

「君も、泣いていないで、払えないなら工面する手段を探しなさい――大人だろう?」

「その場で犯人を決め付けるのはいいけど、間違った時のことも考えないとね……良い勉強になったんじゃない?」


 と、周囲の大人たちが、見事な手のひら返しだった。

 多額のお金が個人に振り込まれることは嫌悪するものの、それが『困っている人たちに渡る』となれば、善人から搾り取るならまだ抵抗はあるものの、罪とはいかないまでも『失敗』をした若者から正式に請求するのは良しとするらしい。


 彼女へ向けられていた同情が、一斉に消えた。


 今は、補償金を払うべきだと、背中を押している――足蹴にしているとも言えた。


「え……あのっ、なんで……っっ!?」


「……国民への一律支給に使いますと宣言したら、無茶苦茶な理由を付けてあんたから搾取しそうな野次馬ギャラリーだな……、良かったな、被災地止まりで」


 一気に仲間を失い、涙が引っ込んだ女性である。


 ……それとも、元々涙は出ていなかった?



「まあ、確たる証拠もなく犯人を決め付けるべきではない――

 確かに、金額に釣り合った、良い勉強になったんじゃないか?」




 ……了

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