虹が架かる日【短編小説】

Unknown

虹が架かる日

 何度も何度も声がする。

 俺の耳元で男が「お前はもう駄目だ」だの「お前はもう死ね」とゆっくり言ってくる。

 俺はこの声が幻聴だと知っているが、それでも不快である事に変わりない。たしか精神科の主治医が言っていた。「幻聴は、自分が心の底で自分に対して思ってる事が聞こえるんです」と。つまり俺を批判してくる声が聞こえてくるのは、俺自身が俺を常に批判しているからなんだ。


『お前は、もう死ね』


 中年くらいの、ねっとりした男の声が耳元で聞こえる。


「うるせー。テメェが死ねカス」


 精神科の閉鎖病棟の中で、俺は虚空に向かって静かにキレた。

 閉鎖病棟に入ってから1週間が過ぎた。

 この部屋は看護師によって常に施錠されている。部屋にある物は布団と水のボトルとトイレとデジタル時計だけ。

 風呂やOT(作業療法)の時間や昼食や面会の時は、部屋の外に出られるが、部屋に戻ってきた時は必ず看護師にボディーチェックされる。そしてまた鍵をかけられる。閉鎖病棟は扉が二重になっている。

 俺は鬱陶しい幻聴を聞きながら、布団の上であぐらをかいて時計の数字が変わっていくのをぼーっと眺めていた。部屋の中の小さな窓は全く開かない仕組みである上に、曇りガラスだから外の様子も伺えない。

 俺がここに入院した理由は、自宅アパートで自殺未遂したからだ。俺が風呂場で練炭自殺をして気を失ってる最中、たまたまアパートに訪れた妹の通報によって、俺は救急搬送され、一命を取り留めた。運ばれた病院でしばらく治療を受けた後、そのまま県内でも大きい精神科病院に転院する運びとなった。そうして今に至る。

 さらに市販薬のODやアルコール依存も入院の理由だった。

 先生によれば、俺の入院は3ヶ月が目処らしい。俺の状態によっては前後することもあるとか。

 せめて小説くらい読む自由が許されたら良いのに、本当にこの部屋ではやる事が無い。まるで悟りを開くための修行でもさせられてる気分だ。

 やがて俺は白い布団に横になり、目を閉じて、自分の人生について振り返ろうとした。だが、もう自分の人生なんてどうでもよかった。過去も未来も。


「タバコ吸いたい……」


 俺が入院してしまった事で、職場にも多大な迷惑をかけてしまった。もう仕事も辞めさせられてしまうかもしれない。これからどうしよう。


 ◆


 閉鎖病棟に入って2週間が経過した頃、俺は閉鎖病棟から“開放病棟”への移動が決まった。開放病棟に移れば、24時間自由に部屋の出入りができる上に、売店での買い物も可能になる。更に病院に色んなものを持ち込む事ができて、自由度が格段に広がる。音楽プレーヤーや小説やスマホも持ち込む事ができるようになった。正直めちゃくちゃ快適だ。

 俺が先生に案内されたのは個室だった。部屋にはベッドとトイレとテレビと椅子と窓がある。窓は5センチくらいしか開かないように黒いストッパーが掛かっている。患者の脱走を防ぐためだろう。


 ◆


 説明していなかったが、俺のいる病棟は1階である。たしか7階まである大きな病院なのだが、俺はたまたま1階に入院した。

 1階にだけは、中庭が存在する。

 テレビや丸テーブルや椅子があって患者たちがOTや食事を行う“ホール”と呼ばれている場所から、大きな掃き出し窓を開けて中庭に出る事ができる。

 もちろん中庭は患者の脱走を防ぐために、四方を高い壁に囲まれている。

 それでもここは外の新鮮な空気が吸えるし、晴れてる日は太陽の光に当たる事もできる。

 俺は中庭の椅子に座って、日向ぼっこをしながら1人でイヤホンをして好きな音楽を聴いて小説を読んでいる事が多かった。

 中庭の中央には1本の青々とした大きな木が屹立していて、その周りを囲うように色とりどりの花が咲いている。綺麗だ。

 そして中庭には2つの白いプラスチック製の椅子が並んでいる。


「……」


 俺が音楽を聴きながら、「中島らも」の著作をパラパラと読んでいると、いつの間にか、俺の真横の椅子に誰かが突然座った。

 イヤホンをしていたから、全く気付かなかった。

 俺は少しびっくりして、視線を本からその人に移す。

 そこには、ぶかぶかの黒いスウェットの上下を着ている女性がいた。髪は黒くてとても長い。そしてとても痩せていて、顔色も良くなくて、こう言ったら悪いが“幸薄そう”というか不健康に見える。目は大きいが光が無かった。唇は薄い。年齢は10代にも20代にも見える。

 俺が両耳のイヤホンを外すと、その女性は笑って、目を細めた。

 そして俺にこう訊ねてきたのである。


「──何歳ですか?」


 なんか突然声をかけられて、俺は緊張しかけたが、なんとなくこの人は優しそうだというのがオーラや声で分かったから、俺はすぐ警戒心を解いた。


「23歳です。えっと、あなたは?」

「私は26歳です」


 会話はそこで止まった。どうしようと思っていると、女性が笑顔でこう言った。


「大野さんですよね?」

「あ、はい」

「私の名前、わかります?」


 ホールで患者全員で食事を摂る際、看護師が患者を1人1人苗字で呼んで、食べ物の乗ったおぼんを手渡す。あと、患者の部屋にもネームプレートが付けられている。

 俺はこの人を見たことがある。多分、名前を知っている気がする。

 ここは勘で行くしかない。


「……佐藤さんでしたっけ?」

「そうです! 佐藤伊織っていいます」


 よかった。合ってた。

 直後、佐藤さんは笑顔のまま、


「大野さんっていつもイヤホンしてるけど、なに聴いてるんですか?」

「あ、今は“THE NOVEMBERS”っていうバンドを聴いてました」

「ザ・ノーベンバーズ。海外のバンド?」

「いや、日本のバンドです」

「なんていう名前の曲を聴いてたんですか?」

「理解者っていう曲です」

「へぇ〜、私も聴いてみようかな」

「もしよかったら聴いてみてください。ユーチューブにもあるので」

「うん、聴いてみます。理解者」


 それから俺と佐藤さんは、少しずつ互いの身の上話を始めた。


「大野さんって何ヶ月くらいで退院できるんですか?」

「先生には、3ヶ月前後って言われてます。佐藤さんは?」

「私は、具体的な期間はまだ何も言われてないんです」

「そうなんですか」


 佐藤さんの病状は俺より重いのだろう。かなり痩せているように見えるから、摂食障害なのかもしれないと思ったが、何も聞かなかった。佐藤さんも俺がなんで入院しているのか聞いてこなかった。

 そのあとは、どこに住んでるのかとか、趣味の話とか、色々した。

 佐藤さんは羊毛フェルトと花と絵と読書が好きらしい。入院する直前に志賀直哉の全集を衝動的に買ったのだとか。

 俺はあまり本は読まないが、志賀直哉という名前だけは知っていた。


「俺も読んでみようかな。志賀直哉だと、何がおすすめですか?」


 俺は無表情で訊ねた。


 ◆


 売店に行ける曜日は決まっている。

 たしか月・水・金が女性患者で、火・木・土が男性患者だ。日曜は売店は休み。

 今日は木曜日だから、男が売店に行ける日だ。

 午後の3時にナースステーション(スタッフステーション)の前に集まっていると、看護師が2人体制で患者たちを売店に連れて行ってくれる。

 俺は、おやつを求めて売店に行く事にした。

 売店に行く為には、施錠された大きな扉を看護師が開ける必要がある。そこから病棟の外に出て渡り廊下を歩くと、小さなコンビニみたいな建物がある。

 施錠された大きな扉の先は一般患者のいる1階で待合室や受付のあるフロア。脱走しようと思えば、簡単に脱走できる。でも脱走したところで入院期間が伸びるだけだろう。逃げ出す人はもちろんいない。

 ちなみに売店での買い物に使うお金は「おこづかい」という名目で患者の家族が事前に病院側に預けているものだ。

 渡り廊下を歩いて、売店に到着した。

 俺の他に5人くらいの患者さんがいる。10代に見える子から、50代くらいの人まで、バラバラだ。

 病院のご飯は普通にうまいんだが、たまにお菓子やジュースが恋しくなる。

 ──当たり前だが、売店にタバコや酒類は置かれていない……。残念だ。


「……」


 俺は無言で店内を歩いて、棚に陳列された商品を見ていく。


(なに買おうかなぁ)


 とりあえず俺の中ではポテトチップスはマストだ。オーソドックスなうすしお味もいいんだが、俺がよく買うのはピザポテトだ。それか、固あげポテトのブラックペッパー味。

 あとはプリンも欲しいな。この前は焼きプリンを買ったから、今日は生クリームがめっちゃ乗ってるやつにしよう。

 ついでに抹茶オレも欲しい。

 俺は売店で色々買った。

 そういえば俺の姉も以前この病院に入院していたが「病院のご飯がまずい!」と言って、食事を残しまくって毎日売店のお菓子ばかり食っていたらしい。姉は好き嫌いが多くて野菜が食べられない。

 個人的には、病院のご飯は普通に美味しいし、いつも全部食べている。

 でも病院のご飯は緻密にカロリー管理がされてるし、栄養バランスもいい。だから太ることは無かった。

 むしろ入院してから健康的な生活習慣になって痩せた。あれだけ飲みまくってた酒も全く飲まなくなったし。

 ある日、面会に来た母と妹には驚かれた。

 妹曰く、


「お兄ちゃんめっちゃ痩せててウケる。ちょっとイケメンになったね」


 俺が入院していても家族が普段と同じように接してくれるのはありがたい。


 ◆


 俺は基本的に、めんどくさいからOTには全く参加しない方針を貫いている。だが、あまりにも参加しなかったから、こないだ気の強そうな茶髪の女性看護師に怒られた。それ以来、たまには参加するようにしている。

 この病棟のOTは、漫画や雑誌を読んだり談笑するだけの時間や、簡単な体操をする時間や、小さい体育館みたいな場所での軽スポーツや、カラオケや、なんかよくわからん造花を組み合わせるような時間など、色々あった。

 俺は漫画を読むOTだけに参加するようにした。“ブラックジャックによろしく”っていう医療漫画が面白くて全巻読んでしまった。

 あとは1度だけカラオケのOTに参加した事がある。俺はカラオケが好きだから普通に楽しかった。


 ◆


 売店から帰ってきた俺は自分の部屋でテレビの野球中継を見ながら、スマホをいじって、むしゃむしゃポテトチップスを食って、抹茶オレを飲んでいた。うまい。

 窓の外には木や花が生えていて、時々、道路を車が通過する。

 俺が外界に出られるのはいつだろう。

 入院当初は少し気が狂っていたが、今となっては俺の精神状態は普通だし、あまり希死念慮も無い。

 野球中継を見ていると、久し振りに野球がやりたくなってきた。俺は高校まで野球部だった。


 ◆


 夜の食事を終えて歯を磨いた俺は、ホールの椅子に座り、イヤホンをつけて音楽を聴きながら1人で本を読んでいた。俺は一匹狼なのさ。自分から患者さんに話しかけた事はない。

 他の患者さんは複数人で集まってトランプやウノをやったり、暗い中庭で談笑したり、テレビでバラエティー番組を見たりしている。

 俺は常にイヤホンをしているから、他人を寄せ付けないような雰囲気を醸し出しているのかもしれない。

 本を読んでいると、なんとなく視線を感じた。

 その気配のする方角を一瞥すると、遠くの椅子で1人で佐藤さんが座って、俺の方をジッと見ていた。

 そのまましばらく佐藤さんと目が合う。

 すると佐藤さんの方から目を逸らした。

 俺は再び読書を開始するが、しばらくすると佐藤さんが気になったから、見た。そしたらまた目が合った。

 それから、何度も目が合った。

 そういえば佐藤さんもいつも1人でいる事が多い。


 ◆


 時刻は20時45分。消灯の時間が近づいてきたから、俺はスマホと音楽プレーヤーをナースステーションに返却した。

 そして寝る前の薬を看護師から貰って、その場で飲んで、自分の部屋に戻った。

 その直後の事だった。

 コンコン、と小さくドアがノックされた。

 看護師かな、と思ったが中々ドアが開かれない。少し不審に思いながら、ゆっくりスライドドアを開けた。


「あ」


 そこには、佐藤さんが立っていた。佐藤さんは少し俯いていて、どこか焦っているような表情をしている。


「あ、あの。さっき私、大野さんの方を見てしまったんですけど、大野さんが好きとか、全然そういうのじゃないです。ごめんなさい」


 俺は正直びっくりした。「告白してないのに振られた」みたいな驚きがあった。

 俺は瞬時に色々考えた。さっき佐藤さんが俺を見まくっていたのは、俺に少し気があるわけじゃなくて、むしろ嫌いだったからなのか? だとしても普通嫌いな奴を見まくるか?

 とりあえず俺は、


「あ、全然大丈夫ですよ」


 と謎の返答をした。


「じゃあ、おやすみなさい」


 と暗い表情の佐藤さん。


「あ、おやすみなさい」


 そして佐藤さんはゆっくりドアを閉めた。

 その夜は、佐藤さんの事を考えているうちに、睡眠薬が効いてきていつの間にか寝ていた。


 ◆


 翌日から、俺は極力佐藤さんを見ないようにした。もしかしたら、佐藤さんにとって俺は不快な存在なのかもしれないと思ったからだ。

 正直俺は、好きとまでは行かないが、佐藤さんに好感を持ちそうになっていた。ずっと1人で過ごしていた俺に話しかけてくれた初めての患者さんという事もあり、少し気になってしまっていた。

 佐藤さんの笑顔が俺の脳裏を去来する。

 でも、昨日ああいう風に言われたから、もう佐藤さんとは関わらないようにしよう。

 まあ元々俺は自分から他人に話しかけるタイプじゃないけど。


 ◆


 昼間、俺は1人で中庭に出て、イヤホンで耳を塞いでぼーっとしていた。音楽を聴いていると、暗い気持ちが紛れる。

 青い空を眺めると、遠くで飛行機が飛んでいて、その後ろに飛行機雲が出来ていた。

 こうやって青空を眺めていると、タバコが吸いたくなって仕方ない。

 昔の精神科病院では患者も喫煙所でタバコが吸えたらしいが、現代では吸えなくなった。残念だけど仕方ない。


「……」


 俺の耳の中では、THE NOVEMBERSの理解者が流れている。佐藤さんは「聴いてみます」と言っていたが、聴いてくれただろうか。

 やめろ。佐藤さんの事は考えるな。

 ちょっと笑顔で話しかけられたくらいで好きになったらアホらしいし、キモい。

 と思っていたら、いつの間にか俺の隣に佐藤さんが座っていた。

 俺は驚きを隠しつつ、イヤホンを外した。

 佐藤さんの顔を見ると、笑っていた。


「大野さん、聴きましたよ。理解者」

「おお」

「すごいかっこよかったです」

「なら、よかった」


 そこで会話が止まった。

 元々俺は会話が得意じゃない。

 話す内容が思いつかない。それは佐藤さんも同じであるようで、お互いに気まずい時間が続いた。

 だが、佐藤さんが普段通りに話しかけてくれて、俺は少し安堵した。俺が嫌いなわけではないようだ。じゃあ昨日のあれは何だったんだ?

 そのまま気まずい時間を過ごしていると、そのうち、後ろの掃き出し窓が開けられる音がした。


「お話し中のところすみません。大野さん、ちょっと診察室に来てもらってもいいかな?」


 振り返ると、そこには俺の入院中の主治医である松井先生がいた。


 ◆


 精神科に入院していると、不定期的に主治医に呼び出される。俺は松井先生の後について行って、小さな診察室に入った。部屋の中は白い。

 パソコンの前の椅子に座った松井先生に、俺は色々聞かれた。

 ちなみに松井先生は30代くらいのメガネを掛けた短髪の男性だ。


「大野さん、最近の調子はどうですか? 特に変わった事はない?」

「はい。特に変わりないです」

「なら良かった。そういえば最近は頓服を飲む頻度も減ってきたね」

「はい」

「どうですか? 死にたい気持ちにはなったりしない?」

「ここに入院した当初に比べるとだいぶ希死念慮は減ったと思います」

「そうか。大野さんは僕から見ても、落ち着いてここで生活できていると思う。あとはやっぱりアルコール依存と市販薬への依存ですね。ここでしっかり3ヶ月前後入院して、お酒と市販薬のODを断ち切る。そのあとは、うちと提携しているアルコール依存症を専門に診ている●●病院の方で診察を受けてもらうことになる。そういう流れですね」

「はい」

「そういえば、開放病棟に移ってスマホが使えるようになったけど、小説は書いてるかい?」


 ──以前の診察の際、俺は趣味でネット小説を書いてる事を松井先生に打ち明けていた。


「今は何も書けてないです。何もネタが思いつかなくて」

「そうか。でも大野君のファンはずっと待ってると思うよ」


 ファン、という言葉を聞いて俺は少しむず痒い気持ちになった。


「なんなら、ここでの入院生活を小説にしてみたらどうかな?」


 そう言って松井先生は笑った。


 ◆


 その後も色々喋って、診察は終わり、俺は診察室から出た。中庭を見ると佐藤さんはもういなくなっていた。

 精神科病院での生活を小説にするのは中々難しいと思う。何故なら基本的に何もする事が無くて退屈だからだ。

 ユニークな患者さんは沢山いる。

 例えば、東大卒でいつも「再臨のキリストは既に朝鮮半島にいるんです。やばいですよね」と笑顔で言ってる太った博識なおじさんや、全ての患者に学歴を聞いて回る中卒のおばさんとか。めっちゃおしゃべりが好きで社交的な人とか。

 入院してみて思ったのは、患者さんは優しい人がほとんどだという事だった。

 俺が思うに、似たような痛みを知っている人が何人も集まっているからだ。無意識に心のネットワークで痛みを他人と共有しているからみんな優しくなれるのだろうと思った。多かれ少なかれみんなが痛みを知っている。だから学校みたいな環境とは全く違うし、争い事も起こらない。


 ◆


 だが、その日の夜、緊急事態が発生した。

 夕食を取った後、俺が自分の部屋のテレビで野球中継をぼーっと見ていると、部屋の外がバタバタし始めた。

 なんだろうと思って廊下に出てみると、看護師やスタッフ、更には救急隊員のような人までいて、病棟全体がザワザワしていた。

 たまたま俺のそばにいた患者のおじさんに俺は声をかけた。


「すみません。なにがあったんですか?」

「207号室の高山さんっているだろう? あの子が部屋で自殺を図ったらしい」

「えっ? 高山さんは無事なんですか?」

「分からん」

「……」


 俺は衝撃を受けて、言葉が出なかった。


 ◆


 その後、現場が落ち着いてしばらく経ってから、このフロアの全ての患者さんがホールに集められて、3人の医師から話を聞かされた。

 要約すると、高山さんという若い女性患者が部屋で自殺を図り、巡回していた看護師がそれを発見。すぐ救急車で別の病院に搬送されたとの事。幸い命に別状は無く、意識もあるらしい。

 そして先生によれば、高山さんの退院日は、なんと“明日”だったそうだ。

 なぜ明日が退院なのに、自殺を図ったのだろう……。いや、明日が退院だからこそ死のうと思ったのかもしれない。

 俺には高山さんの真意は分からない。

 高山さんは大人しくて地味な雰囲気の女性だった。

 先生は患者たちに「高山さんが普段と変わっていた様子はありませんでしたか?」と訊ねた。

 ある患者さん曰く、高山さんは自殺を図る時刻の直前まで、他の患者さん達と普段通りに談笑していたらしい。


 ──俺は思った。“人の心を診るプロ”の精神科医ですら高山さんの心の内側を正確に見る事が出来なかった。なら、高山さんの孤独な心は誰が一体見る事ができたのだろう、と。


 最後に先生は「このあと外部の方々が来て現場検証などをするから、しばらくバタバタすると思います」という旨の発言をした。そして「もし体調が悪くなったりした人は、些細な事でもすぐに看護師に伝えてください」と喚起した。


 ◆


 高山さんの自殺未遂が起きたその夜、突然体調を悪くしてしまった患者さんが2人いた。いずれも若い女性患者だった。

 その2人の患者さんは、一時的に病棟が移され、閉鎖病棟に入る事になったらしい。

 その場が解散になった後、俺の気持ちはとても重くなっていた。

 自殺を防ぐ為の病院で、まさか患者さんが自殺を図ると思ってなかったからだ。

 俺は、自分の部屋に戻って、自殺ができそうな箇所を探してみた。俺の部屋は高山さんが使っていた部屋ときっと同じ構造だ。

 おそらく、トイレのドアノブで首を吊ったのだろう。それ以外に自殺が図れそうな箇所はこの部屋には見当たらなかった。

 精神科病院では、家族が患者に荷物や生活用品を届ける事ができるが、その際は看護師によるチェックが必ず行われる。中に危険物や自殺を図れる道具が入ってないかを確かめるのだ。

 ヒモ状の物は持ち込み禁止。パーカーのヒモですら、外した状態でなければ着用は許されない。

 おそらく高山さんは、自分の衣類かタオルを使ったのだろう。

 と俺は推測した。

 その日の夜は、あまり寝付けなかった。

 俺の心の中がザワザワしていて、平穏ではいられかったのだ。


 ◆


 翌日の昼間、俺はいつものように中庭の椅子に座って、太陽の光を浴びてぼーっとしていた。

 自殺に失敗した高山さんは、今、どんな気持ちでいるのだろう。

 俺は自殺未遂がきっかけでこの病院に入院する事になった。

 自殺しようと思ったのは、もう生きていても仕方ないと思ったからだ。俺は鬱病に罹患しており、ASDという発達障害も持っていた。鬱は発達障害の2次障害によって発症したものと思われる。

 生きていても苦しいことばかり。手首・腕は傷まみれ。親しい友人も恋人もいない。社会では役立たず。そんな状況が続くうちに、俺は自分の生きる理由さえ分からなくなっていた。独りぼっちの俺は、存在価値を完全に無くした。

 高山さんにどんな背景があったのかは知らない。でも、死にたい気持ちは俺にも分かる気がする。


「──大野さん。おはよ」


 ふいに横から佐藤さんの優しい声がした。


「あ、佐藤さん。おはようございます」


 佐藤さんは、すっと椅子に座って、ぽつんと呟いた。


「私、昨日はほとんど寝られませんでした。高山さんの事があったから」

「俺もあんまり寝られなかったです。どうしても心がザワザワしちゃって」

「実は私も何回か死のうとした事があるんです。ここに入院する前、何度も」

「そうだったんですか」

「でもどんな方法を試しても、成功しませんでした」


 なんで死にたいと思ったのか、とか聞くのは野暮だ。


「辛かったですね」


 すると佐藤さんは、けらけら笑って、


「私は平気。自殺未遂なんてよくある話です」


 と言った。続けて彼女はこう呟いた。


「大野さんは心が優しいね」

「いや、そんな」

「優しいと思います」


 照れ臭くなったので俺は話題を変えた。


「実は俺は自殺未遂をして、この病院に入院する事になったんです。あとはアルコール依存と市販薬への依存も入院の理由です」

「そうなんですか。私は、双極性障害で……あと他にも病気があって、あとは家にも色々問題が……」


 と、佐藤さんは言い淀んで、話題を変えた。


「私、お酒は飲まないけど、市販薬のODはよくやってました」

「どんな薬をやってたんですか?」

「●●●とか●●●●です」

「あ、俺と完全に同じだ。俺もその2つをよくやってました。本当は良くないけど」

「最近はテレビのニュースでもよくODについてやってますよね」

「トー横キッズが仲間に咳止め薬を売って逮捕とか、テレビでよく見ますね。最近」

「うん。そのうち市販薬にも大規模な規制がかかるんじゃないかなって思います。ODっていう概念が世間一般に浸透しすぎたから」

「たしかに、昔はみんな裏でコソコソやってたのに、今じゃSNSでODを自慢するような人が増えちゃいましたもんね」

「そうだね」


 そこで一旦会話が途切れて、佐藤さんは意外な言葉を発した。


「そういえば大野さんって、ラインやってますか?」

「やってます」

「もしよかったら、私とラインの交換とかって……大丈夫ですか?」

「あ、はい、大丈夫です」

「よかった〜」


 ──そういえば、この病院では患者の連絡先の交換は固く禁止されている。でもまぁ、平気だろう。俺たちの他にも隠れてライン交換してる人々はいるはずだ。

 やがて佐藤さんは、小さな紙切れを俺に渡してきた。


「はい、これ」

「?」

「そこに私のIDが書いてあります。あんまり堂々とライン交換したらまずいから、部屋に戻ってから追加してください。私も部屋に戻ります」

「はい」

「よかった。大野さんと友達になれて」


 佐藤さんは笑った。笑顔が可愛いと思った。

 俺も少し笑った。

 紙切れを見ると、女の人特有の可愛い字でIDが書かれている。


 ◆


 俺は部屋に戻って、スマホでラインを開いて、紙切れを見ながら佐藤さんのIDを入力した。すると『いおり』という名前の人が出てきた。そう言えば佐藤さんのフルネームは佐藤伊織だったな。

 俺は『いおり』さんを友達に追加して、


『大野です』


 と送った。すると、すぐに既読がついて、


『いおりです』


 と返ってきた。


『大野さんって下の名前、勇輝っていうんですね。はじめて知った』


 俺のラインの登録名は勇輝だ。

“勇ましく輝く”と書いて勇輝。正直言って、俺の腐った人間性とは真逆の名前だ。


 ◆


 それから、俺と佐藤さんは毎日のようにラインのやり取りをした。ほんとは精神科ではルール違反だが、バレなきゃいいや。

 ラインのIDを交換してから、急速に仲が深まった。

 いつの間にか、佐藤さんは俺を「勇輝くん」と呼ぶようになり、俺は佐藤さんを「伊織さん」と呼ぶようになった。

 2人しか知らない秘密も増えた。

 いつの間にか俺は伊織さんの事を好きになっていた。夜中、夜勤の看護師の目を掻い潜って、お互いの部屋で密会した事も何度かあった。密会と言っても暗い部屋で手を繋ぎながらコソコソ喋っていただけだ。だが俺の心臓はバクバクしていた。

 最近は伊織さんの事ばかり考えていて、ネット小説なんて書いてる暇がない。ネット小説なんてどうでもいいや。

 伊織さんはいつも長袖を着ていた。ある時、伊織さんは自分の腕を俺に見せてくれた。俺は凸凹した歪な彼女の自傷痕を優しく撫でた。俺も伊織さんに自分の腕を見せたら、彼女も同じように撫でてくれた。


「俺の腕、イカ焼きみたいで美味しそうでしょ」


 と俺がふざけたら、


「タレ付けて食べたい!」


 と返された。


 ◆


 あれこれしてるうちに季節は流れて、退院日が明日に迫った。

 明日ついに俺は退院できる。当初の予定通り、3ヶ月間きっちり俺は入院した。

 終わってみれば、長いようで短い期間だった気がする。

 退院したら伊織さんとしばらく会えなくなるのは寂しいけど、スマホで繋がってるから大丈夫。

 看護師によれば、明日は俺の母が朝の9時半頃に迎えに来てくれるらしい。


 ◆


 翌朝、俺が中庭に向かうと、珍しく既に伊織さんが椅子に座っていた。

 空はどんよりと曇っている。

 俺は窓を開けて、


「伊織さん、おはよう」


 と言って横に座った。その瞬間、中庭にふわりと風が吹いた。伊織さんの長い髪が揺れて、いい匂いがした。

 伊織さんは笑って言った。


「おはよう。勇輝くん、今日退院だよね?」

「はい」

「おめでとう! でも、しばらくお別れだね」

「まだ、伊織さんはいつ退院できるか分からないんですか?」

「うん……。私は長くなりそう」

「そっか……。でもいつか絶対に退院できますよ。退院したら、2人でどこか遊びに行きましょう」

「え、いいの?」

「伊織さんが良ければ」

「うん。行く行く!」

「じゃあ俺は一足先に退院して、伊織さんのこと待ってますね。早く退院できるように応援してます」

「ありがとう。嬉しい」

「……俺、退院して、これからの人生どうしよう。仕事も辞めちゃったし」

「人生は長いんだから、ゆっくり考えていけば良いよ。ずっと走ってたら疲れるから、たまには休憩してもいいんだよ。だって勇輝くんはまだ23歳でしょ?」

「そうですよね。ありがとうございます。ゆっくり考えることにします」


 やがて、ぽつぽつと雨が降ってきた。

 最初は小雨だったが、すぐに土砂降りの雨に変わったので、伊織さんと俺は急いでホールの中に戻った。


「それじゃあ俺、そろそろ親が迎えに来るんで、部屋の荷物まとめてます」

「じゃあ私も自分の部屋に戻る。絶対私も退院するから、いつかまた会おうね。勇輝くん」

「はい。未来で待ってます」


 我ながら、かなり痛くて臭いセリフだと思った。イケメンにしか許されない発言だ。

 そしてこれが入院中の最後の伊織さんとの会話だった。


 ◆


 俺は部屋の荷物をまとめた。

 時刻は9時25分。もうすぐ母が来てもおかしくない。

 部屋の窓の外では雨がザーザーと降っている。

 気分的に、晴れの日に退院したかったが、まあ天気はどうでもいい。

 部屋で待っていると、やがてドアがノックされて、開かれた。

 そこには女性の看護師がいた。


「大野さーん、親御さんがお迎えに来たよ。荷物はまとめてある?」

「はい、大丈夫です」

「忘れ物は無いかな?」


 俺は部屋を見渡す。


「はい、平気です」

「よし。じゃあ行こう」


 そして看護師と共に部屋を出ると、俺の母が廊下に立っていた。

 母は俺を見て、少し笑ってこう言った。


「退院おめでとう、勇輝」

「うん」


 ◆


 そして看護師が俺と母を先導し、病棟の外へと繋がる巨大な扉の鍵を開けた。

 ついに、この病棟から出られる。

 俺は看護師に軽く頭を下げて、


「お世話になりました」


 と言った。

 それとほぼ同時に母も、


「お世話になりました」


 と言った。

 看護師は笑顔だった。今まで何人の患者を迎えて、見送ってきたのだろう。


 ◆


 大きな扉の先には、広い待合室や受付がある。一般の患者さんが診察を受けに来ている。これだけ日本には病んでいる人がいるという事だ。

 俺は圧倒的な解放感を感じつつ、病院の出口へと向かって歩く。


「なんか勇輝、ほんとに痩せたね」

「そんなに痩せたかな」

「うん。病室で筋トレでもしてたの?」

「なんもしてないよ」

「そうだ、何か食べたいものある?」

「なんだろう。マックとか?」

「じゃあ帰りにマクドナルド寄ろう」

「うん」


 病院の食事は割と薄味だから、塩分たっぷりの不健康なジャンクフードが久しぶりに食べたい気分だ。


 ◆


 やがて俺と母は病院の外に出た。

 母が傘を2本持っていたから、俺は傘を1本借りて、さした。

 雨は依然として降り続いている。

 駐車場を歩いて、母の軽自動車の助手席に俺は乗った。荷物は後部座席に置いた。

 そして車は病院の敷地を抜けて、車道を走り始めた。

 雨がフロントガラスに当たって、ワイパーがメトロノームみたいに踊る。

 思い返せば、この入院期間は色んな事があった。普通に生きてたら経験しないような事も経験した。個人的に1番嬉しかったのは、やっぱり伊織さんと仲良くなれた事。

 いつか伊織さんが退院できたら、一緒にどこかに遊びに行くんだ。

 伊織さんは花が好きだと言っていたから、大きな花畑とか良いかもしれない。俺も花が好きだから、アパートの近所の大きな花畑によく行く。そこは群馬県では有名な花畑で、よく一眼レフのカメラを持った人やウェディングフォトを撮ってる人が──


「──あ、勇輝。虹だよ」


 と声を上擦らせる母。

 俺は思考を中断して、訊ねる。


「え、虹? どこ?」

「ほら、あそこ」


 母が指差したのは、遠くの空。

 気が付くと雨はほとんど止んでいる。

 灰色の雲間に少しだけ太陽の光が差し込んでいて、そのそばにとても大きくて綺麗な七色の虹が見えた。虹なんて久し振りに見た。(まるで空が俺の退院を祝福しているかのようである)と俺は都合よく解釈した。

 俺はこの虹を伊織さんにも見せたいと思って、スマホを取り出して、虹の写真を撮影した。

 そして、その写真をラインで伊織さんにすぐ送信した。


『退院したら、空に虹が架かってました』


 すると、すぐに既読がついて、


『綺麗! 退院した日に虹が出るのは運が良いね。きっと良いことあるよ!』


 と返ってきた。なので俺は根拠も無くこう返した。


『伊織さんにも絶対良いことあります』

『ほんと?』

『ほんと』

『勇輝くんがそう言うなら、私も少し未来に期待してみる。だから、私が退院するまで、しばらく待っててくれる?』

『どれだけ時間が掛かろうと待ってます。でも、あんまり無理はしないでね』

『うん!』


 そして、車は尚も虹の下を走り続けた。

 俺と母の乗る車は今、まだ見ぬ未来に向かって法定速度の範囲内で走っている。

 自殺に失敗して、入院して、俺の人生はまた今日から新しく始まったのだ。

 現在の積み重ねで未来があるのだとしたら、俺の捨て去りたい過去は一体何のためにあるのだろう。今も、時々過去が俺をぶっ殺そうとしてくるんだ。でもいつか俺が未来を迎えて、人前で大きく笑えるようになったとき、俺は全ての忌々しい過去を肯定できるようになれるのかもしれない。いつかそんな未来が来ることを、俺は願ってる。

 そして、その未来には、伊織さんも隣に居てほしい。

 そう思った。









 〜おわり〜







【あとがき】


 俺が精神科に入院してた時の体験を基に書きました。書いてて楽しかった。


 作中に“THE NOVEMBERS”という俺の好きなバンドを出しましたが、ノーベンバーズは昨日なんと新しいアルバムを出しました。アルバムの中では「誰も知らない」って曲がめっちゃ気に入ってます。クソかっこよくて超興奮した! もちろん作中に出した「理解者」って曲も最高にかっこいい! ノーベンバーズのライブまた行きたい!

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虹が架かる日【短編小説】 Unknown @unknown_saigo

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