22-1.ノア


 リュシアン兄さんはアレク兄上とのことを何も聞かなかった。もちろんノアのことも。

 読んだ本の話なんかをして、ただ和やかな時間を過ごした。


 兄さんは持ってきたエッグタルトをほとんどくれて、俺が食べている姿を見て静かに笑っていた。


「フレディさえよければ、しばらくうちの村に来ないか? 田舎でのんびり過ごすのも、悪くないと思うよ」

 

 ティータイムの終わり際、兄さんがそう口にした。

 兄上と俺を同じ屋敷に住まわせておくのは限界だと思ったんだろう。引きこもりの転地療養としても、田舎に行くのは悪くない。


 何も迷う必要なんてない。はずだったのに。


「……考えとく」


 ノアはこの街からいなくなる。なんの未練もなくなるはずなのに、すぐには決断できなかった。

 この街から出てしまったら、ノアと過ごした日々がまるで夢だったかのように消えてしまうような気がして。



 次の日、俺は机に向かってガラスペンを弄んでいた。

 俺みたいな冴えない男が持つよりも、こういうキレイなものはノアの方が良く似合う。自分には買わなかったんだろうか。


 それを聞くことは、もうできない。


 窓の外を見上げると、いつの間にか夕日が沈んでいた。部屋の中が薄暗くなっているのすら、気づいていなかった。


 今頃ノアはどうしているだろうか。もう街を出ているのかもしれない。

 それともまだ、あの宿にいるんだろうか。


 考えたって仕方ない。あいつに別れはちゃんと告げたんだ。

 

 机の上に散らばる紙束に目を落とす。全部俺が書き留めたノアの歌詞だ。

 思い出に詩集にでもしようとも思ったが、見るたびにあいつのことを思い出す。


 良い思い出だと笑って振り返ることが、いずれ俺にできるだろうか。それどころか、二度と会えない彼を思って鬱々としそうな気がする。


 散らばった紙をかき集めた。

 俺みたいなうじうじした男は、思い出の物なんて残ってると一生引きずってしまう。


 部屋にある、最近は使ってなかった暖炉に紙を放り込んだ。

 マッチをつけると、火が紙を飲み込むようにして黒く広がり、あっという間に灰に変わっていく。


 俺の頭の中の記憶も、そうして全部消えてしまえばいいのに。


 すべてが灰になったことを確認し、俺は机に戻った。


 あとは、これだけだ。


 ガラスペンを掴むと、両開きの大きな出窓を開けた。

 周りの景色はすっかり夜の闇に溶け込み、何も見えない。まるでブラックホールのように、なんでも飲み込まれてしまいそうだ。


 息を吸い込むと、ひんやりとした夜の空気が肺に入る。 ガラスペンが割れそうなほど、握る指に力を込めた。


 これで、終わりにしよう。


 力いっぱい振りかぶって、ガラスペンを夜の闇に放り込んだ。

 すぐに窓から背を向けると、それが落ちた音すら聞こえなかった。


 これでもうノアとの繋がりは何もない。全部終わったんだ。

 あれは前世の記憶と同じ、フレデリックにとってはただの夢。


 夢だったんだ。全部。


「僕のこと、嫌いになってしまいましたか?」


 

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