20-4


 屋敷を出て、ノアの暮らす宿に乗り込んだ。

 豪勢なホテルではないが、雨漏りも隙間風もない、ベッドもが軋むこともない。


 宿の主人からノアがまだ滞在していると聞き、階段を上がって行く。


 階段の中ほどで、爪弾く優しい音色が聞こえた。

 張り詰めていた精神が一瞬和らいだ。途端に泣きそうになる。


 なんだこの涙は。今更兄上に反抗したことへの反動か。女々しく泣いてる場合じゃないだろ。


「ノア!」


 ドアを開けた瞬間、竪琴の音が止まった。

 

 椅子に腰かけ竪琴を弾いていたノアが、こちらを振り向く。面食らっているようだったが、すぐに穏やかな表情を作り直した。


「どうしました、突然。あなたがこの部屋に来るのは初めてですね。おかげさまで、良い暮らしをさせてもらって――」

「お前、いつここを出るつもりだ?」


 問い詰めるようにそう言うと、ノアは言いにくそうに視線を落とした。


「……明日にでもと、考えていました」

「だったら、俺も行く」


 ずっと考えてはいたことだ。迷いをようやく断ち切れた。


「俺はノアのパトロンを続けたい。この街を離れたら終わりなんて嫌だ。だから」

「やめておきなさい」


 静かに、きっぱりとそう言われた。

 まぬけにも断られる可能性が頭から抜け落ちていて、その言葉を飲み込めなかった。


「僕の旅は旅行じゃない。箱入り息子のあなたには酷なものになります」

「俺は今さっき爵位を捨ててきた。もう貴族でも何でもない。それに、俺はどんなものでも食べられるし、どこでも寝れる。こう見えて意外と逞しいんだ」


 前世の話だが。そうは言えないのがもどかしい。

 ノアは眉間にしわを寄せ、首を振った。


「なんでだよ! 俺は……俺はノアと一緒にいたいって……」

「違いますね」


 縋りついた言葉さえ、すぐさま否定される。


「あなたは本気で僕と一緒に行きたいわけじゃない。大方、兄上様とケンカでもしたのでしょう。だから家出のつもりで僕についてこようとしている」

「違う! 俺は」

「それに、爵位を捨てればあなたが自由に使える金はない。どうやって僕のパトロンをするのです?」

 

 息が詰まった。


 ノアのパトロンをやれていたのは、家から小遣いを貰っていたからだ。それがなくなれば俺はただのニート。働いたとしても、今までのような額には到底届かないだろう。


 ノアを雨漏りしない宿に泊めてやることも、一流のレストランで食わせてやることもできない。

 そんな俺に、一体何の価値があるって言うんだ。


 竪琴を置いて立ち上がると、ノアが俺に背を向けた。


「フレディ。今までのことは、本当に感謝しています」


 少し前の俺なら、ノアに名前を呼ばれただけで舞い上がっていた。

 でも今は胸の奥が冷えていく。ノアの細い背中がやけに遠くに感じてしまう。


 ……何を勘違いしていたんだろう。最初からそうだったじゃないか。

 俺はただのオタクで、ノアは推し。手の届く相手じゃなかった。


 手が届く相手だと、仲間だと、友人だと、そう勘違いさせてくれていただけだったのに。


 楽しい夢を見せてくれて、俺こそ礼を言うべきなんだろうか。

 でもその背中に、呟くことしかできなかった。

 

「さよなら、ノア」

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