第48話 オイジスは見えない世界を愛している
くん、と何かに引っかかったように学校のローブが重くなった。
引っかかりの先を見れば、そこには銀の髪の小さな生き物がいた。
弟のディオ。
頭を撫でてやれば、猫のような声を出して嬉しそうにきゃっきゃと騒いだ。無邪気な顔は、輝く太陽の光のようだ。
詩人のようなくさい表現である事は自負しているし、そんな柄でもない事はわかっている。
それでもそのように言葉遊びをしてしまうほどには美しい笑顔で私を見つめていた。
サラサラの髪を撫でた私の手のひらには、ほんのりと子供の体温が宿る。
私にもこのような時期があっただろうか。
勉強と経営と、魔法。
時間に追われる焦りに、心に積もる黒いものが蠢く。私の後ろをひょこひょこついて回るこの小さな生き物は、実に美しく、実に羨ましく、それでいて心の底から腹立たしかった。
私は幼い頃から出来が悪く、いつだって父、そしてこの世に、私の世界に弟が生まれ落ちてからは弟と比べられる日々。
「オイジス兄上!まほーできました」
「オイジス兄上!魔物を捕まえました」
「ディオは優秀だ」
「ディオは才能がある。騎士か、それとも」
「きっとこの国1番の騎士になるでしょうね」
苦労することもなく、難なく、まるで遊びのように課題をこなすディオは、天才と呼ぶに相応しかった。
天才。
私が喉から手が出るほどに欲しい名称だ。
気がつけば姿が見える位置、そして数歩背後、仕舞いにはあっという間に私の隣にまで追いついてくる。
父も母も、それは嬉しそうにディオを褒めた。
グラグラ煮えるような怒りと嫉妬に眩暈がした。
いつか。
いつか私がこの家を継いだら……。
そう思うと、ほんの少し、胸の痛みが引いていくのだ。
ディオとの出来の違いに嫉妬して苦悶する。
後どれほどで追いつく、後どれほどで追い抜かすだろうか。焦燥感が胸を焼く。
そんな事を考える度に、私がこの家を継ぐのだと、自分を慰める。
ディオと比べる度に心に突き刺さる硝子片。
数える事を辞めた日から、いく万本と刺さったか分からない小さな嫉妬の硝子の破片が、その度にポロリと抜け落ちた。
また、心に黒いモノが積もっていく。
寒くて冷たい。
指先が凍っていくようだ。
◆
あまりの指先の冷たさに目を覚ますと、どうやら椅子に座ったまま寝てしまっていたようだった。
すりすりと手を擦り合わせればほんの僅かに温かさが戻ってきた。人間の温もりまで戻るに幾分にも足りないが、それでも多少は温かい。
手のささくれがヒリ、と痛みを訴える。
その痛みもまた、自分を人間に戻すような気になる。
今がまだ夢の中なのか、現実なのか。
今となっては見えなくなってしまった目を通して確認することはできない。
あの日、ディオを殺そうとした日。
頭で思うだけでは飽き足らず、実行に移してしまったあの日。
……紛い物でなく、本物の聖女が現れた日。
私の目は呪われ、なんの光も届かなくなった。
「それだけの事をした……当然の報いだ……」
自身に向けて呟いた言葉の威力は随分な物で、心臓が重く、体が芯から冷えて行く。
瞼の奥で思い出される、魔女の姿。
呪いとはよくよく言ったものだ。もう瞼の裏側にこべりついて離れそうにない。あれは私が、私の行いの果ての姿。私の罪そのもの。
最後に見えたのは、騎士たちに連行される時、美しい光に包まれた天使のような、そんな光。
———ガシャン、と遠くの方で大きな音が鳴る。
扉が開いた音か、何かがぶつかったか。
足場も悪く、空気も薄い。息がし辛く埃臭いこの場所へやってくるのは罪人か、死人の肉を頂戴しにきた小動物か……——。
カツカツと靴の音がして、やはり人が来たのだと分かった。
ふわりと、花の香りが鼻をさした。
「……誰だ」
「わたくしですわ、司祭様」
「……シェリーか……」
返答はない。
なんの光も映さなくなった目には正解かどうかも分からせてはくれなかった。
暗闇の中、ただただ沈黙だけがそこにある。
「随分と回復いたしました」
「……そうか」
「大聖女さま、ステラ様のおかげですわ」
「そうか」
投げやりな応え方になっていたかもしれない。
その名前は、耳が痛い。
「わたくしは……司祭様を裁きに参りました」
細く温かな指が、私の酷く荒れた指を掬い取る。何も写さない瞳で人影を探すものの、きっと見当違いの場所を見ているかもしれない。それでもほんの少し顔を動かす。まるで初めて体外に出た赤子のように、見えもしない指先の温もりに導かれるままにその姿を探す。
私はそんな純粋な物でも、清い物でもなく、大罪人であるというのに。
浮かんでくる発想が実に凡庸であり模範的で、自分がいかに矮小な人間かこの期に及んで知る事となり、心が沈む。
荒くれた心のやり場が、ついに脳の中でも無くなり始めたようだ。
「そう、か」
裁く。
実に、適役者だろう。
実に憎い事だろう。
『聖女』という化け物を作り出し、本物の化け物に変えて命を自ら削り取らせていた張本人だ。
憎らしくないはずもない。
どうか存分に。
気が晴れるまで。
なんの役にも立たない息を吐くだけの肉塊の私でも、突き飛ばせば彼女の手のひらを温めるくらいには役に立つだろう。
「貴方を此処から出します」
「……なんだと?」
「なんの権力も持ちません。一生を与えられる物のみで。奉仕をして教会という牢獄で過ごすのです。それが……わたくしたち国に保護された聖女だった者達の願いです」
「そ、そんなもの、そのような事……」
唇が震え、言葉がうまく走らない。
唾が飛び、舌をうまく転がせない事も気にならないほど、動揺した。
「甘いと、緩いと、そうお考えですか? 司祭様」
「……無論だ」
生きてるだけで、今や誰かを傷つけるだろう。
シェリーもその一人のはずだ。
捨てられ、罵倒される。その経験は脳にこべりついているはずだ。
「ひと思いに、死にたいですか?」
「……」
「……そうは…させませんわ」
強い言葉の端に、小さな抑揚と震えが混じる。
乱れた呼吸と掠れる声に憎らしげな声色。
表情は分からない。
見えなくてよかったのかもしれないと、自衛の刃が心の臓を刺した。
「貴方は死んで行くのです。それはもう、確実に。恥を感じて、貴方を憎む者に囲まれて、貴方に踏みにじられた者達と一緒の墓場で人柱になるのです」
「貴方についてきた者達は皆、金と居場所を求めるために、聖女という不確かな存在に体を、魂をも売ったのですわ……誰もが綺麗事を並べても、それは抗えない事実。それもまた、わたくしたち自身の罪。わたくしたちが罪を償う事も、貴方の罪です」
その表情が、いっその事ひどく歪んでいればいい。
憎しみをちゃんと抱いて全てぶつけてくれれば。許されなくていい。許しがたい。
自分で自分は許せない。
何も、何も見えない。
この暗闇で、表情さえも見えない事が、最上の罰だ。一生、消化される事のない物事。
それ以上何も発さず、足音が遠くへと音を立てて遠ざかって行く。
◇
硬い石造りの椅子の上で、うつらうつらとしていたようだった。座っている場所を手でさすれば、つるりとした冷たい感触が手に伝わってジンジンと指が凍えた。
指の先に、柔らかく暖かな感触がぶつかった。指のようだ。
細く、柔い指。
「シェリーか」
「……このようなところでは眠ることはできませんわ」
「そんな事はない」
「それでもお体に障りますわ。せめて暖炉へ」
「……構わない」
「そうですか」
それを聞いて、シェリーは席を立ったようだった。足音が少しずつ遠ざかる。
遠くで薪を焚べる音がして、炭の匂いが鼻にかかる。
牢獄から外へ出され、国から任されたのは国境付近の小さな教会だった。
教会とは名ばかりで、小さな聖女の像が飾られた小さな祭壇と、石造りのベンチがいくつか。
小さな部屋がいくつかと、その程度。
国境を越える旅人や、商人、迷い人を救う小さな拠り所の一つ。
懺悔と、人へ尽くす労働が不可欠な場所。
歩く事ひとつ、眠る事ひとつの満足にする事ができない。今までどれほど傲慢に生きてきたのか、よく骨身に染みる事だ。
暗闇の中で、今日も誰かの声が聞こえる。
お前は一生、天才にはなれない。
そう言われたようで、少しホッとした。
硝子の破片に塗れた心臓は、動くたびに随分と痛むが、それが私に相応しい。
指は冷えたままだ。
指先が凍りそうなままだ。その冷たさに妙にホッとした。
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