第36話 名も知らぬ誰か





 王城にほど近い広々とした土地に大きなお屋敷と庭、さらに倉庫がいくつか。お屋敷は忙しなく人が出入りしているが、外の倉庫はシンと静まり人が出入りしている様子はなかった。


 そのお屋敷はドナ・マルンの私有地であり、その人物の家であった。


 娘の名前はメグ・マルン。


 ドナ・マルンの妻のナナ・マルンの忘れ形見である。娘は最初こそでっぷりとした体格のドナ・マルンの血を感じさせたが、成長すると共にスラリと体は縦に伸び、横は少し注意してやれば伸びることもなく、ナナ・マルンそっくりに美しく成長した。

 そんなメグ・マルンをたんと甘やかしたドナ・マルンは、娘にはなんでも話し、なんでも教えた。

 そして自由にさせた。

 自由にさせたが、年齢と共に外出する頻度も変わる。

 当然、親の手は届かない。

 子を心配しない親はいない。知らぬ間に家に帰り、知らぬ間に家から出るようになるものだ。

 そう言うものだ。ドナ・マルンにも身に覚えがある。

 家に帰ってきた時は魔法で頭に直接信号を送るようにしている。知らぬものが侵入しても無論同じように頭に信号が送られる。


 いつ出かけても、いつ戻っても、信号が知らせるので問題ない。いつでもメグ・マルンの行手を阻む扉は無い。


 今日も娘の自由にさせたかった。

 させたかったが、大きな力には敵わない。




◆◆◆

 


 滅多に人が入らないような静かな部屋の扉が少しばかり開き、廊下に室内の光が溢れている。

 

そこをひゅ、と影が横切りゆらゆらと影法師が揺れる。


 急に、ドン、と何かを殴るような音とどさりとものが倒れる音が響いた。


 扉の前にいたドナ・マルンは音が鳴った瞬間、後悔と恐怖に襲われた。一歩もその場から動けない。


 我が家に王家から何かを預ったのは娘の報告で知っていたが、どこに何があるのかは知らなかった。まだ我が家にあるものか、それとも何処かへ移動したのかも、ドナ・マルンには知り得ない。


 つい今し方まで何もかもを忘れていたところだ。


 それが雷に打たれたように思い出した。

 思い出したくは、なかった。


 背後から、人の足音が聞こえ、ドキリと心臓が震えた。震える手を握りしめて、光が漏れる部屋に入り、急いで扉を閉めて施錠の魔法をかける。まだ部屋の中で何が起こっているのか目には入っていない。


 扉にへばりつき、上がった息を整えるが、振り向けばそこに何があるのか。想像するだけで汗が吹き出し、息が切れる。


「ドナ・マルン殿……連絡いただきありがとうございます……おかげで害虫を捕まえられました」


 

 低く、穏やかな声が、ドナ・マルンに声をかけた。

 そのねっとりとした声色は、耳を撫でるように入ってくる。


 息が止まる思いで、ゆっくりと振り向いた。



「ひ…ああ……そんな……まさか! 司祭様、それは、彼は、血を分けた弟君ではないですか……!」


「ふん……この男が? ……まさか。今は、違いますよ」


 冷淡な声が、みるみるメグ・マルンを支配していく。床には、転がった黒と赤の塊。メグ・マルンは信じられないと恐怖に震え、まともに言葉がすぐ出てこない。


「ししし、しかし、私は……! あ、あなたに、弟君が訪れたら連絡を、と仰られたから! まさか、まさかこんなっ」


「お嬢さんが……来られますよ?」


 ハッとして扉を振り返る。しかしまだ人の気配はしておらずホッとする。


「やることは分かりますよね。メグ・マルン殿」


「……うぅぅ」


 メグ・マルンが丸々とした手を伸ばすと、司祭がその腕をがっしりと掴んだ。その手には白い本と黒い男の腕を摘み上げている。


 突然、目の前の男が今まで見ていた男とは思えなくなった。

 突然誰か知らない何者かになってしまったような錯覚に囚われる。


 それでも。

 メグ・マルンは、娘と同じ魔法を使うしかない。


 


 バシュンという音を最後に、部屋は静けさを取り戻した。

 パチリパチリと薪が弾ける音のみが決まったリズムを刻み、それに応えるものは誰1人居なくなった。

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