第百七十七話 膝から崩れ落ちるほどの『戦慄』
……初めての挫折は、後から振り返っても決して美しいものではなかった。
「──────────ッッ!!」
部屋の中に絶叫が響き渡った。
何も見えない真っ暗な部屋の中、パソコンから発せられる光だけが自分の激情を壁に照らし、揺れる影には嗚咽と醜悪の入り混じる地獄のような感情が投射されていた。
喉が切れるほどの大声を無意識に出してしまったのは、今まで行っていた研究がとん挫したからだった。
「クソ!! クソ!! クソッ……!! あぁ……っ!!」
頭を掻きむしり、血が出るほどに爪を食いこませ、その手には大量の髪の毛が抜け落ちている。
頬から流れる涙は、もはや何の感情のものなのかすら分からない。今にも気が狂いそうになる頭の中を必死に押し留めて、それでも現状に何ひとつ前進がない状況を嘆きたくて、気付けば発狂するような大声を出していた。
「なんで……こんな単純なこと……っ!」
あと一歩で打ち止めとなった研究譜は、序盤の単純な見落としが原因で引き起こされていたことが分かった。
7ヶ月にも及ぶ大研究、学業以外の全てを削ってやってきた成果がゼロとして消える。
こんなに虚しいことがあるだろうか。
「……、…………」
今にも魂が抜けそうなほどうつろな目で画面を見つめる俺は、絶望なんて生温いほどの境地に立って、ため息すら出てこなかった。
定跡の発掘は大勢のアマチュアや研究家、さらには最前線で戦い続けるプロ棋士の足跡があって初めて生まれ出るものだ。
そんな中で、俺がやっていることは定跡の構築だった。発見や発掘ではなく、自ら創り上げるという、歴史に逆らうかのような行為に等しかった。
自分だけの唯一の定跡──『オリジナル戦法』は誰もが抱く夢であると同時に、絶対に成功しない悪形であることを理解させられる現実がある。
最初は『形』から入った。どんな『形』にすれば上手くいくのか、何千パターンも研究して、一つの答えにたどり着くまでひたすら頑張った。
結果、全部ダメだった。どんな『形』であっても、正道から放たれる最善手はそれを凌駕する。
次は少し視野を広げて『作戦』から入った。相手の手に合わせて形を変え、相手の狙いに合わせて手を変える。そんな『作戦』を自分なりに構築できるのであれば、きっと誰にも見破られぬ最強の戦法になるだろうと。
結果、全部ダメだった。どんな『作戦』であっても、無限に等しい選択肢から放たれる相手の手を完璧に咎めることはできない。それに、やっていることは万能型のオールラウンダーと同じだ。いずれ才能の壁にぶち当たる。
他にも色々な手法を模索した。過去のプロ棋士達の戦績を集計して戦型の最善を考えてみたり、現在までに生み出されている戦法を自分なりに少し改良を施してみたり。
結果は全部ダメだったが、唯一の残った『正解』があった。
でも、今からそれを可能にするためには、あまりにも膨大な量の知識と棋力が求められ、人ひとりの人生を費やして完成するほど現実味のあるものでもなかった。
それでも夢を追いかけたかった幼き日の俺は、画面に向かってただひたすらにずっと研究を続け、続け、続け……。
──挫折するその日まで、続けた。
「…………」
目元が重たくなるのを感じるほどの巨大な隈に雫が垂れる。
涙だ。──気づけば俺は泣いていた。
何枚も印刷された膨大な研究譜、自分の理想とする形を何度も何度も上書きしていった紙が膝の上になだれ落ちていく。
「……ははっ」
思わず、笑いが零れた。
だってそうだろう。こんなにも真剣に取り組んで、こんなにも重い愛を向けているのに、返ってくる答えはいつも残酷な結果ばかりだ。
絶対に成就しない、叶わない片思い。水面に映る月をすくおうとする手はいつも水に濡れていて、繰り返せば繰り返すほどその手が冷たく凍り付いていく。
辛かった、苦しかった。きっと逃げた方が気が楽で、諦めてしまった方がスッキリできて、たった一つのその夢を閉じてしまうだけで何もかもが終わりだった。
思わず屈してしまいそうになる境地に立たされて、俺はこの魔物の本質を知る。
覚えるのは一瞬、極めるのは一生。成長している間だけ希望を持ち、勝っている間だけ幸福を覚える。そんなよくある『人生』の一端に置かれた劇薬だ。
飲み切るのを諦めた者もいれば、一滴ずつ飲んでいく者もいる。覚悟を決めた者は舌を取り、味覚を消してから飲み干すことも辞さないのだろう。
いずれにせよ、俺はそのどちらでもない。
「……やるか」
ひとしきり絶望した俺は、再びパソコンに向かう。
またゼロからのやり直し、気が遠くなるほどの研究の再開に、俺はまた立ち向かうことを決意する。
ここから俺は何度も挫折を味わうことになる。その度に絶望して、その度に将棋なんてやめてやろうと自暴自棄になって。
──そうして何時間も折れた心に絆創膏を貼っては、また将棋を再開する。
何度も何度も、希望すら見えない暗闇の中を走り抜けて、失敗してはまた繰り返す。意味がなかった結果に終わっても、また繰り返す。ただひたすらに繰り返し、極め続けた。
諦めなかった理由は単純だ。
……それでも俺は、将棋が好きだったから。
※
砂漠にでもいるかのような熱気。それが自分の体内から発せられた熱であることも忘れ、今はただ思考の海へと入り続ける。
ジャックの棋力は俺を遥かに上回っていた。
今こうして好手を指せているのは、ジャックの凶悪な指し手に釣られて俺の棋力まで引き上げられているにすぎない。
一時的な力の底上げ、火事場の馬鹿力だ。
──だが、ありがたい。俺はこれを待っていた。
知恵熱を出し続ける額を拭って、さらに深く読みを入れる。誰にも届かないほど、その読みの範囲を大幅に広げる。
今の俺はゾーンに入っていない。というより、入ることができない。
あれは慣れ親しんだ感覚から生み出される刹那の極限状態。ルールそのものが通常の将棋と違っているこの場で、完全な集中状態を維持することは不可能だ。
だから、俺はこの対局で『基礎棋力』を上げることに専念した。世界大会の本番というプレッシャーの中で、限られた時間の中で、格上の棋力を持つ相手に挑む戦いだ。
そう、成長を目標に掲げる必要はない。なぜなら俺は今、こうして指しているだけで成長しているから。
俺が今まで勝ってきた試合はどれもゾーンに入っている。将棋戦争で慣れ親しんだ感覚を、自滅帝としての感覚を引っ張り出して挑む対局。それは勝利を目指す戦い方としては正しくとも、今後を見据えた戦い方としてはふさわしくない。
──以前行った来崎との戦いでは、その確認をしたかった。
ゾーンに入り、自滅流を繰り出し、かつて初見殺しとして使っていた絶無指しまでを持ってきて来崎に挑んだ。俺の手札をほぼ全て使った対局だ。
結果、俺は負けた。負けなければいけなかった。そうじゃなければ俺はあのまま黄龍戦に挑み、そこで負けていただろうから。
俺の弱点は基礎棋力の低さだ。感覚を兼ね備えた集中力で瞬間的に高い棋力へと跳ねあがっているだけで、それ以外の場では大した力を生み出せない。
──初めて部活に入った際、部長や葵、佐久間兄弟らと多面指しをしたのを覚えているだろうか。
あのとき、俺は序盤でかなり苦戦を強いられていた。
その後、自滅帝の思考に切り替えて即逆転したときに理解した。現実の俺は、渡辺真才はまだまだ"弱い"のだと。
──WTDT杯は通常の将棋とルールが違う。普段は自分と相手の手を読んで戦っているが、この戦いは敵チームと味方チーム全員の思考を読まなければならない。
そんな新鮮な環境下でゾーンに入れるはずもなく、かといって集中できないかと言われるとそうでもない。やっていることは結局将棋なのだから。
俺は全力で考える。ゾーンに入れないのなら、素の実力で物事を考え、可能な限りの森羅万象を読めばいい。
そうして全てを成長させた先で、俺は黄龍戦の全国大会でほんの少しは戦えるだけの棋力を得られるだろう。
久遠とも思える読みの果て、息継ぎもままならない秒読みのダイビングでジャックの手が先に止まった。
「クソ……っ、なんだよそれ……! 戦法は完璧だったはずなのに……!」
戦法──? それは自滅流のことを言っているのだろうか。
確かにジャックは赤利の指した自滅流を完璧に模倣し、俺の指した手を完璧に模倣している。余分な部分を捨て完全な上位互換を創り上げるジャックの指し回しは、見ているだけで惚れ惚れするほどだ。
それが単なる真似将棋でないことはプロの目から見ても明らかだろう。
──だが、俺はこの対局で一度も『自滅流』を使っていない。
なぜなら俺があのとき指した自滅流は、明確な"悪手"だからだ。それをアリスターに咎められて頓死となった。
本物の『自滅流』に悪手は存在しない。残念なことに、俺が長年かけて作り出した戦術は、自滅帝の指す自滅流は、頓死などしないのだ。
偽物だ、本物だなどと比べる前に……俺はそもそも本物を見せていない。
※
WTDT杯の観戦会場にて、鈴木哲郎はようやく納得の表情を浮かべていた。
「そういう、ことだったのか……!」
それは、これまでの真才の対局棋譜全てに目を通している哲郎だからこそ理解出来た瞬間である。
これから全国大会を控えた真才が、どうして世界大会なんて大舞台に足を向けたのか。敗北前提の力試しならまだしも、全力を賭して勝とうとしていたのか。
──自滅流の棋譜が日本中に周知される。それだけは避けなければならない。プロへの道が掛かった大会なのだ。自滅流への特効など1つも許されない、あらゆるリスクを排除していかなければならない。
哲郎はそればかりを考えていた。
しかし、真才はその逆である。リスクを排除するのではなく、リスクを利点に変えてしまえばいいと判断したのだ。
ネットが普及している現代、アマチュアとはいえ全国大会ともなれば事前研究は当然の策として用いられるだろう。
特にネットの方で有名になっている者がリアルの大会に出るなどと知れば、恰好の研究対象だ。
そんな相手がWTDT杯という注目度の高い大会に出ている。なんて都合の良い選手だろうか。こんな簡単に棋譜が入手でき、こんな簡単に対策が打てる。
──しかし、真才はただの一度も『自滅流』を使用していない。これまでの大会であれほど使い続けてきたその得意技を、一切使わずに戦い続けている。
唯一使った瞬間と言えば、青薔薇赤利から手を繋ぎ、頓死へと導いた悪手だけである。
だが哲郎は知っている。本物の『自滅流』にそんなヘマは存在しないと。彼が人生を費やして築き上げてきた戦い方に、いくら相手を騙す手とはいえ頓死など採用されるはずがない。
皆、渡辺真才の頓死の術に驚いている。カインの悪手を誘う一手として注目しており、誰も『自滅流』を使っていないという点に気づいていない。
あの青薔薇赤利が自滅流を使ったことすら、隠れ蓑として利用したのだ。
正道だけを歩み続けた青薔薇家の神童から、自滅流という邪道にも等しい策が放たれたことで誰もが勘違いした。
──この戦いは、自滅流を主軸として戦っていくのだろうと。
実際は全く違う。真才は赤利の自滅流を引き継ぐフリをして、頓死という全く別の方向性で戦い始めた。
天竜はその頓死から逃げるのに必死で、赤利はカインの悪手を誘うのに必死。
そして再び真才に順番が回って来たかと思えば、自滅流を指したのは対戦相手のジャックである。
──あり得ない。あり得なさすぎる。何もかもが真才に都合の良い結果だ。
まさにこの戦いは自滅流を中心とした戦いになっている。なのに、真才はただの一度も『自滅流』を指していないという意味不明な状況になっている。
こんなことがあり得るだろうか?
「はははっ、酷い性格だ。本当に……将棋のことになると容赦がない……」
ジャックが自滅流を指したことで、自滅流の対策をする者はジャックの手も参考とするはずだ。
そこに渡辺真才の息は欠片も吹き込まれていないというのに、黄龍戦の全国大会を控えた者達はこぞって今回の大会の棋譜を研究していくだろう。
無駄だ、無駄過ぎる。何もかもが無意味だ。無価値である。だって真才はこの大会で何ひとつとして──情報を……。
──渡していないのだから。
「……冗談だろう? 私が見ている男は本当に高校生なのかね……」
膝から崩れ落ちた哲郎は、あまりの戦慄にただ苦笑することしかできなかった。
『【ヤバい】自滅帝とかいう正体不明のアマ強豪www【十段おめでとう】Part56』
名無しの756
:なぁ、ひとつ気づいたこと言っていいか?
名無しの757
:>>756 やめろ
名無しの758
:>>756 ダメです
名無しの759
:>>756 またぁ!?
名無しの760
:>>756 あっ
名無しの761
:>>756 詠唱開始
名無しの762
:>>756 詠唱開始やめろ
名無しの763
:>>756 また自滅帝が何かするのか
名無しの764
:>>756 この流れ進〇ゼミで習ったぁ!!
名無しの765
:>>756 訊くだけでフラグ立つの草
名無しの766
:>>756 もうこれ以上気づくところないだろいい加減にしろ
名無しの767
:>>756 さ、さすがにもう何か仕掛けてるなんてことはないでしょ……
名無しの768
:>>756 頓死からの逆転とかいう意味不明な手を指しておいてまだなんかするつもりなんか
名無しの769
:>>756 おまえ前スレで自滅帝の解説して的中させた奴やんけぇ!
やめろぉ!(建前) やめろぉ!(本音)
──────────────────────
次回、終盤戦&スレ回
追記:更新もうちょっと待ってね
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