第百三十二話 女王、名人部門に参加する
はっきり言ってしまえば、それは勝負にすらなっていなかった。
西地区交流戦に参加した来崎は、初参加ながら一番上の名人部門を選択。
周りからしてみれば突然現れた若手のアマチュア、それも背の小さな女の子だ。良いカモが参加してくれたと思っただろう。
だが、そこに立っているのが黄龍戦の県王者だということを、彼らは知らない。
「……うっそ……?」
「ありがとうございました」
来崎はおもむろに頭を下げた。勝利の言葉を添えて。
「なに……?」
「嘘だろ……?」
「もしかして
来崎の周りには、俺の視界が埋まるほどの人集りができていた。
初戦は田辺という中年の男性が相手だったようで、来崎はこれをものの数分で仕留めて勝利を飾った。
しかし、問題はその後だった。
「田辺さん、相手が女の子だからって手ぇ抜いただろ?」
「いんや、さっき見てたが、田辺さんは序盤で銀を素抜かれてたのさ。それで悪くなった」
「あー、油断したなぁ?」
周りで見ていた数人が口を挟んで二人の前でそう告げる。
すると、僅かに乾いた笑いと安堵のような空気感が生まれた。
「うーん……あと一手あれば勝ってたんだけどねぇ……いやぁミスったミスった」
それは田辺自身も同じだったようで、彼は自分が致命的なミスを犯したせいで負けてしまったと言葉を漏らす。
「確かに一手差だな」
「ギリギリの勝負だったのか」
「それでも田辺さんに勝つって、嬢ちゃんやるな?」
「え? あ、はい……ありがとうございます」
一手差、ギリギリの勝利。つまり二人の実力は僅差で、ギリギリの読み合いで来崎の思考が上回って勝ったということである。
──当然、そんなはずはない。
そのあまりの圧勝劇に、周りの思考は追いついていなかった。
来崎はただ忠実に勝ちを目指したに過ぎない。そこに手数の差、守りの堅さなど無関係である。
『将棋とは、大差をつけて勝つゲームではない。一手差で勝てばいい』
かつての天才はそう言った。
この言葉が
自分がどれだけ駒損をしようと、自分の陣形がどれだけ危なくなろうと、相手の王様を詰ませば勝ちとなる。
来崎は自分が一手差で勝つ局面が見えていた。だから踏み込んだに過ぎない。
そこには相手との絶対的な差が生まれており、勝敗を分ける思考が備わっている。
これは、相手の読みを完全に上回っている証拠だ。
そして、こと将棋において『あと一手あれば勝てた』ほど勝利から遠い言葉はない。
「なんだあ? 田辺さんやられちまったのかい?」
奥の方からもう一人、田辺より少しだけ年上の中年男性が顔を見せてきた。
「
すると、周りの表情が一気に変わる。
木下と呼ばれた中年の男性は、大所帯となっていたところへ堂々と割って入る。
それに次いで周りが一気に道を開け始めた。
周りからの視線と表情を見るに、どうやら彼がこの大会の優勝候補の一人らしい。
「最近酒飲みすぎなんじゃねぇのかい?」
「かもなあ……」
田辺の隣まで近づいた木下は、まるで慣れ親しんだ仲のように会話を繰り広げる。
その間、来崎は気まずそうにちょこんと席に座っていた。
「ほんで、嬢ちゃんが次の相手かい?」
「あ、はい」
「随分とべっぴんさんだねぇ……将棋は強いのかい?」
「えっと、ほどほどには……」
あまり年上との会話は慣れていないのか、来崎は言葉を詰まらせながら答える。
なんか普段の自分を見ているみたいで、ちょっと心が痛い。
「それじゃあ、始めるよ?」
「はい、お願いします」
刹那、何かの策の匂いを感じ取った俺は、荷物を置いて人集りとなっている来崎の周りに突っ込んでいく。
そしてなんとか来崎の後ろに立つと、そのまま二回戦を見守るのだった。
※
負け試合は無意味だ。
勝てる試合にだけ出ればいい。
元を取るにはそれが最適解であることに間違いはない。
木下
しかしそれは、天竜一輝や舞蝶麗奈、成田聖夜に匹敵する存在という意味ではない。
彼は、アマチュアの公式戦に出たことがほとんどなかった。
出るとしてもシニア戦や代表を決めない一般戦、今回のような小さな交流戦にである。
将棋歴30年という大ベテラン。大会の優勝回数は脅威の100回超え。その経歴だけ見れば明らかな強敵として名が知れ渡るだろう。
だが、木下は自分が負ける大会には出なかった。
勝てる大会にだけ出場し、そこで順当に勝って参加費分の元と名誉を得る。
完全な趣味としての独立。それが木下達郎の将棋人生だった。
「それじゃあ、始めるよ?」
「はい、お願いします」
目の前に座るは明らかな格下。それも見たことのない顔である。
女子供というだけで余裕が生まれるというのに、相手が新顔となれば今日の優勝も堅い。
それでも相手は田辺を破った存在。ギリギリとはいえ、彼と同程度の棋力は持ち合わせているだろうと木下は踏む。
「嬢ちゃんは最近この辺りに引っ越してきたのかい?」
「……? いえ、元々この辺りに住んでますけど」
その言葉に、木下の心から笑みが零れる。
(ということは、別地区からやってきた強豪ではない。大会の経験は薄いと……ククク……)
来崎を前に何とか笑みを隠そうと顔を抑えて考えてるフリをする。
この手のような存在はこれまでにも何人かおり、木下はそれらを相手に何度も戦ってきた。
いわゆる、独学で将棋を覚える者。
現代ではネット将棋が普及したことにより、多くの者はわざわざ道場や教室に通うことなく、ネットでの情報収集がメインとなりつつある。
そうなれば大会に出る機会も自然と減り、人と人との顔を合わせて戦う対局に慣れない者が頻出する。
駒を触るという行為、相手の指し手の威圧感、時計を押す感覚。ネット将棋と実際の将棋では見た目以上に差異がある。
木下の推察では、目の前の少女はまだ大会慣れしていない、と思い込んでいた。
(こういう子は本来の実力も出せずに負けるパターンが多いんだ。どれ、仕掛けてみるか)
木下は開始早々、飛車先を突いて攻め将棋を目指す。
──実際のところ、木下の読みは一部当たっていた。
来崎は長い間大会で結果を残せなかった。それは真に大会慣れしていないこと、自らの全力を出せないことに起因している。
ネット将棋と現実の将棋とでは棋力に差が出る。特に早指しの世界で生きてきた真才や来崎にとって、現実の将棋はあまりにも長く、考える時間が多い。
それをなんとか上手く活かそうとしてしまうと、逆に時間が足りなくなるという現象に陥る。
来崎は凱旋道場の試験に落ちているため、道場に通えていない。常に家で独学の勉強を行う毎日である。
そのせいで、長い間棋力の低下と諦め癖がついてしまっていたのだ。
──だが、今の来崎は違う。
開始から10手目、まだ形を整えている段階で局面の優劣はハッキリとしない。
木下は早々と銀を前に繰り出して攻めの構えを作るが、来崎は
(やはり、こういう相手には単純な攻めが刺さる)
木下は威圧をするかのように、盤上に駒を強く叩きつけて攻めの銀をさらに前に押し出す。
まだ戦いは始まっていない。まだ優劣は定まっていない。
だが、来崎の後ろに立つ真才だけは、既に結果を察していた。
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