第三十九話 夢を賭けた一戦

 たまに思うことがある。


 人はなぜ、信じたいものだけを信じてしまうのか。どうして自分の都合のいいように考えてしまうのか。


 その裏にある微かな違和感に気づいていながら、俺は今まで見て見ぬフリをしてきた。


 そして今、そのツケが回ってきた。


 信じたいものだけを信じて勝手に仲間だと思うのも、それはそれで楽しいと思えるだろう。どれだけの思惑が交錯しようと、楽しめるならそれでいいじゃないか。


 そう思って、俺は今までその違和感を無視してきた。


 ──そこに亀裂が走るまでは。


 学校の帰り際、今日は部活がないからと武林先輩に言われていた俺は、まっすぐ帰宅しようとして下駄箱に手を入れると、一枚の手紙が入ってるのを見つける。


 このご時世にラブレター、なんて都合のいい展開が待っているはずもなく、俺は期待半分でその手紙の内容を見た。


「……」


 瞬間、表情が暗くなる。


 内容に関してもそうだが、こうなることを心のどこかで感じ取っていた自分に虫唾が走った。


 だって、知っていたならもっとやりようはあっただろうから。知っていたなら、もっと簡単に対策が取れていただろうから。


 なんで、こうなるまで放っておいたんだ。


 なんで、今まで見て見ぬフリをしてしまったんだ。


「……はぁ」


 慣れない感覚に吐き気がする。


 いつまでもぬるま湯に浸かっていたから、俺はこんな事態を招いたのだろうか。


『放課後、部室に来てください。来なかった場合はあなたの過去、天王寺てんのうじ道場のことをバラします』


 手紙にはそう書かれていた。


「……だから表舞台に出るのは嫌だったんだ」


 俺はぐしゃりと手紙を握りしめて、部室へと向かった。


 ※


 運動部の掛け声が木霊する廊下を歩きつつ、俺は将棋部の前までたどり着く。


 今日は東城がいないから部活は休みとなっている。来崎はもう帰っただろう。


 嫌な予感をひしひしと感じ取りながらも、俺は逃げない姿勢で部室の扉に手を掛けた。


 そして扉を開けると、一人の部員が武林先輩の机に腰掛けていた。


「こんにちは、先輩」


 そんな言葉を投げかけてきたのは、同じ将棋部の仲間でもある葵玲奈だった。


「こんな俺に一体何の用だ?」

「……へぇ、相手が私って知っても驚かないんだ。手紙の差出人は書いてなかったのに」

「まぁ、ある程度予想はできていたからな」

「予想……?」

「なんてことはない。ただの被害妄想だ」

「ふーん」


 いつもとは違う口調で喋る葵は、嘲笑うような口元とは対照的に歪んだ表情を浮かべていた。


 まるで何かに怯えているようなその眼は、殺意となって俺に向けられている。


 なぁ、葵──それが人を脅している側の顔か?


「それで、俺に何を要求するつもりだ?」

「……随分と話が早いね。まだ何も言ってないのに」

「手紙に書いてあっただろ? 俺は盤上以外での交渉や駆け引きは苦手なんだ。要件があるならパパっと済ませてくれ」


 俺がそう言うと、葵は机から降りて俺を真っすぐと睨んだ。


「じゃあ、結論から言うよ。──先輩には、今すぐこの将棋部を退部して欲しい」


 抑え気味の声で葵は俺にそう告げた。


 なるほど、退部と来たか。別に退部するくらいなら考えてやらなくもない。


 そもそも俺はこの部活に人生を懸けているわけじゃないし、部活をやめたからと言って東城や来崎たちと言った将棋部の仲間とも絶交するわけじゃないしな。


 それで事が丸く収まるなら退部してもいいとは思った。


 ──でも、俺には俺の目的がある。この将棋部に入らないとできないことが、"約束"がまだ残っている。


 それはある意味、この部に人生を懸けている、という問いにを通すレベルだ。


 それを果たすまでは、はい分かりましたと二つ返事で退部するわけにもいかないんだよな。


「……理由を聞いてもいいか?」


 何事にも理由は付随する。答えてくれるかは分からないが、俺は愚直に葵に尋ねた。


「私が大将になりたいから」


 返ってきた答えは意外にもシンプルだった。


「大将?」

「先輩は知らないか。この将棋部、どうして部活の顧問教師がいないか分かる?」

「……?」


 そう言えば、確かにこの部活には顧問の教師がいない。


 いつも雑務は武林先輩が担ってるし、大会の時も武林先輩が全部やってくれていた。


 本来ならこの将棋部を担当する顧問教師がいるはずだ。なぜ武林先輩が全部担っているのか、よくよく考えて見れば腑に落ちない。


「先輩も大会に出たなら、今の将棋界が水面下でどう動いているか知っているよね」

「……」

英雄プロ棋士の誕生はどの道場にとっても悲願なの。それに勢力の拡大を狙っている組織も多い。この西ヶ崎高校はそんな巨大組織たち──銀譱委員会や第十六議会といった者達の利権争いに巻き込まれてる中心部なんだよ」


 葵の口から出た内容は、俺の予想を遥かに超えるスケールの話だった。


「ここは高校だから、部員はまだ7人しかいないけどね。でもあと数年もすれば、何十何百という道場の門下生達が中学を卒業して、ここに殺到してくる」

「何を目的に……?」

「目的なんてひとつしかないよ。──この部活で大きく活躍した生徒は、奨励会の推薦資格を得られる」

「……!」


 葵のその言葉で、俺は事の重大さを理解した。


 奨励会──それはプロまでの登竜門とされるプロ棋士養成機関。天才たちが集まる魔の巣窟だ。


「しかも奨学金や支援金が出るらしくてね、合格した場合は無償で奨励会に在籍できるんだ。夢みたいな話でしょ?」

「……お金に困ってるのか?」

「少しね。こう見えても私、一人暮らしなんだ。幼い頃に両親が死んじゃって、今はバイトをしながら生活してる。でも今のままじゃバイトに時間が取られてろくに将棋の勉強ができない。……このまま奨励会に入っても、私には会費を払う余裕すらないんだよ」


 それは既に悲しみを乗り越えたゆえの無感情さなのか、葵は情に訴えかけるわけでもなく淡々と喋る。


 その眼は、その言葉の重みは──どこからどうみても葵玲奈の本音だった。


 なるほど、だから大将を担って活躍するのが狙いだったのか。


 それにしても、奨励会か。随分と大きな場所を目標にするものだ。奨励会は俺ですら落ちたところなのに。


「葵の夢は、女流棋士なのか?」

「違う。──プロ棋士」

「……!」


 ある程度そうなのだろうなとは思っていたが、まさか本当にその言葉が出てくるとは思わなかった。


 女流棋士とは、女性のみがなれるプロの枠である。将棋の普及面で創設されたこの枠は、通常のプロ棋士とは別個で区別され、決して交わることはない。


 レベル的にいえば、研修会から奨励会の間と言ったところだ。


 だから葵の夢が女流棋士だというのなら、今からでも研修会に入って一定の成績を収めれば可能だろう。葵に限らず、東城や来崎にもそれだけの力は眠っている。


 しかし、葵は奨励会とハッキリ口にした。


 そこから導き出されるのは当然──プロ棋士である。


「本気で言ってるのか?」

「うん。本気」


 プロ棋士のレベルは女流棋士とは次元が違う。難易度も、なれる確率も、他とは比にならない。


 ──なんて言ったって、日本の歴史上、女性がプロ棋士になった例は一度もないのだから。


「弟の夢だったんだ、プロ棋士なること。だから私の夢は、そんな弟がプロ棋士になったとき、その対局を大盤で解説することだった。聞き手役だけどね」

「大盤解説……じゃあ、元々は女流棋士になるつもりだったのか」

「そうだね。そうだったのかもね。……でも、もう遠い夢だよ。忘れちゃった。今はもう、どうでもよくなった」


 葵は自分自身に苛立っているのか、俺に見せないよう拳を握りしめて失望の目を窓に向けていた。


「ごめんね、同情させるつもりはなかったんだ。だから今の話は聞かなかったことにして」

「もとより同情するつもりはない」

「そっか、なら安心。じゃあ、改めて本題に入るよ。──渡辺真才、アンタには今すぐ退部して欲しい。理由はもう分かるよね?」


 今度は明確な敵意を向けて、葵は俺を睨んだ。


「俺が大将をやっていたのが気に食わなかったのか」

「うん」

「じゃあ、俺が入る前は東城を狙っていたんだな?」

「そうだよ。来崎夏は家に引きこもってたから、手を出す必要もなかった。でも部長が余計なこと言ったせいで学校に登校してくるようになっちゃった。……ほんと、敵が増えて最悪の気分だよ」

「敵? お前が勝手に敵と認識しているだけだろ。俺達は共に戦ってきた仲間で、これからも共に戦う仲間だ」

「うるさいな。私はアンタたちを仲間だなんて思ったことはない。余計な改心に期待しないで」


 葵の意思は固かった。


 もし仮に、葵が本当に敵として俺の前に立つのなら、俺はあらゆる手段を用いて防衛に移るだろう。


 それこそ、相手の人生を潰してでも俺は自分の身を守るつもりだ。


 でも、葵の目を見て俺は少しだけ安堵した。


 亀裂が崩壊することを想定していた。真っ向から対峙するつもりだった。


 だが、葵の目はまだ俺を見ている。


「……定番な言い回しだけど、一応聞いておこうか。もし断ったら?」

「私だって無策じゃない。色々なことはできるし、色々なネタも持ってる。──例えば、アンタが過去に天王寺道場で何をやらかしたのか、とかね」

「……」


 どうして葵が俺の過去を知っているのか気になるところだが、今はおいておくか。


「……そんなにも大将をやりたいのか? 俺をや東城たちを退部させてでも、お前は大将になりたいのか? そこに価値は生まれるのか?」

「うん。減った人数は適当に集めればいいし、そのつてもある」

「……そういえば、東城と佐久間兄弟が俺を大将にするかどうかで言い争ってた時に、間に入って自分が大将をやればいいって言ってたな。あれは本心だったのか」

「そうだね。そう捉えてもらって構わないよ」


 煽りも挑発も効かない。どこまでも冷酷に冷え切った心が葵の中にはあるのだろう。


 葵からは敵意も殺気も感じる。しかし、俺はまだ"悪意"を向けられていない。明日香から放たれていたような、欲に塗れた悪意を感じない。


 そんな悪意を向けてこない相手に対して、真っ向から潰しにかかるほど俺は鬼畜じゃない。


 でも、だからと言ってここで引き下がる理由にはならないな。葵の行為はあくまでも一方通行だ、俺のことなど一ミリも考慮していない。


「俺の過去を吹聴したいならすればいい。退部にさせたいならすればいい。だけどな葵、俺にもこの部でやらなくちゃいけないことがある。俺もお前と同じように人生を懸けてるんだ。今のうちにいっておくが、もし仮に何らかの圧力を被って退部せざるを得なくなったら、その後の俺は何をするか分からないぞ」

「……っ」


 それまで強気の姿勢だった葵は少し押され気味に黙り込む。


 相手が悪いな、葵。俺は元々陰キャで、友達もいなくて、交流関係だって無かった男だ。


 今さら過去のことが露呈しようと、俺にとっては何の痛みにもならない。


「……それでも、私は止まらない。舞台だってもう用意してある」

「誰かが用意した壇上に上がるほど俺は出来た人間じゃない。白黒つけるなら今ここでしろ」

「拒否できる立場だと思ってるの?」

「拒否できなくさせる立場だと思ってるのか?」


 一歩も引かない葵と俺。膠着は長引くかに思われたが、俺がそれを打開した。


「……まぁ、ここは郷に従うべきだな。ここは将棋部で、俺達は将棋部員。ならばやることはひとつしかないだろ」


 俺は箱の中から将棋盤と駒箱を取り出し、端に置いてあった対局時計を葵に手渡した。


「勝負は一回限り。お前が勝ったら俺は素直に退部する。その代わり俺が勝ったらお前が退部だ」

「……」


 俺の言葉に、葵は沈黙する。


「勝負は俺から持ち掛けたんだ。もちろんハンデは付けよう。……そうだな、俺の持ち時間は『10秒』で、お前の持ち時間は『無制限』でどうだ?」

「……本気?」

「不服か?」

「……一回勝ったことがあるからって、私を侮ってるの?」

「侮ってなんかいない。現にお前は多面指しの時、本気を出していなかっただろ。大会での実績をみれば普段から手を抜いているのが丸わかりだ。そんな相手を侮る理由はない」


 そう、葵は普段から手を抜いている。それは黄龍戦の戦績で理解した。


 大将じゃなかったとはいえ、優勝するまで葵は一回も負けなかった。あの東城ですら1回の黒星がついたというのに、葵は全勝だ。


 これは生半可な実力で出来るものじゃない。


「それに俺は初めてこの部活に入った時、部長にこう言われたんだ。『葵は東城に続いてこの部で2番目に強い』ってね。当時の俺はその言葉を平然と受け入れていたわけだが、よくよく考えればこの部には来崎もいる。なのに部長はお前を2番目だと評価した。……あぁ、そういえば部長も黄龍戦は全勝だっけ。ほんと、誰が実力を隠しているのか分からないな、この部は」


 俺は笑い飛ばすように吐き捨てた。


 それを聞いた葵は対局時計を横に置いて、駒を並べる俺を見ながら席に着く。


「……本気で、こんなデタラメなハンデで私に勝てると思ってるの?」

「勝てる勝てないじゃない。こうでもしないとお前は勝負を受けないだろ? そりゃあ俺だってハンデがない方がいい。でもそれじゃあお前の舞台に立たされるからな。悪いがこっちは荒事や冤罪で地に落とされるのはごめんなんだ。──お前も棋士を目指す一人なら、勝負は盤上でしっかりと決着をつけろ」


 ハッキリと言い放つ俺に対し、葵の目付きが僅かだが変わった。


 そして口角を上げると、勝ち誇った顔で俺を見上げた。


「……約束は守ってもらうよ? 負けたら退部、分かった?」

「あぁ、俺は絶対に"約束"を守る男だ。でも安心しろ葵。俺は負けないし、お前も救う」

「意味分かんない。じゃあ、始めるからね」


 俺がコクリと頷くと、葵が対局時計を押して互いの退部を賭けた勝負が始まった。

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