第三十四話 神の世界から放たれる一手

 俺が初めてゾーンを経験したのは、小学生の頃だった。


 将棋戦争で昇段のかかった試合の中、突如として周りの音が消え去った違和感を今でも覚えている。


 何か特別な事をしたわけじゃない。特別な気持ちを抱いていたわけでもない。しいて言うなら、昇段がかかっているから負けられないという気持ちだろうか。


 指している時には気づかなかったが、その時の俺は圧倒的な棋風で相手を打ち負かしていた。それに気づいたのは感想戦をしていた時だった。


 いつも指す手とは全く違う動き方、ついさっきまで自分が指していたのだろうかと疑うほどの強さと完璧な読み。


 そのあまりの別人さに、自分が二重人格なのではないかと疑うほどの衝撃が走る。


 しかし、それが後にゾーンに入っていたんじゃないかと推察がつき、それを理解した俺は、なんとか意図的にゾーンに入る方法は無いかと何度も試す日々へと移っていった。


 言うは易し、人はそんな簡単にゾーンに入ることなどできない。そもそもゾーンというのは曖昧な表現の一種だ。スポーツ選手でも意図的にこの状態に入ることは難しいと言われている。


 ゾーンに入りやすくなる方法、というのはあるかもしれないが、俺が求めていたのは意図的に入る方法だった。


 ゾーンに入る瞬間、わずかな前触れのようなものが訪れる。全身がぞわっとするような、力が湧き出る直前の感覚だ。


 だから俺は、その前触れが訪れた際に息を整える癖をつけた。息を整える行為とゾーンに入る状態を結びつけ、ふたつの感覚がイコールで結ばれるように脳を錯覚させる。


 そうすることで、平常時でも息を整えることで疑似的なゾーン状態に入れるようになった。これを習得するのに3年はかかった気がする。


 そして俺はこの状態を自滅帝の思考として区分し、定期的にこの状態になることで、いつどんなときでも自滅帝としての指し手が指せるように感覚を定着させた。


 ──そこでひとつ、疑問が残る。


 俺はゾーン状態を常に発揮できるようにという目的のもと、自滅帝の思考を手に入れたわけだが、それは厳密にいえば純粋なゾーン状態とは言えない。


 やっていることは紛い物の似非行為。ゾーン状態と言うのが正しいだろう。


 だから、俺はある可能性を考えていた。


 ──この状態でゾーンに入ったら、果たしてどうなるのだろうか? と。


 ※


 くぐもった音が弾け飛び、霧のかかった視界が晴れていく。水底に落ちた思考が解き放たれ、周りの水が全て蒸発し、脳が開かれたような感覚が全身を巡る。


 周りの雑音が聞こえなくなるほどの、極限の集中状態。


 その限界を超えた先に見える景色に、俺は思わず苦笑した。


 理解の範疇を越えた手、意味の分からない手に思考が勝手なGOサインを出す。


 今なら来崎の気持ちがよく分かる。こんな手、そう簡単に指せるわけがない。そもそも指したところで、本当にその手を自分自身が理解しているのかさえ分からない。


(……はは、よりにもよって角捨てかよ)


 極限まで導かれた思考は、あらゆる前提、評価値、未来を予測して勝利への完璧な一手を模索する。


 終盤ならいざ知らず、まだ中盤に入りたてのこの状況で角を捨てるなど冗談じゃない。これは俺の駒台に乗せられたたった一枚の大駒だ。


 明らかに悪手だと思っている手を指すこと、その躊躇いは確かにあった。


 だが、それでも俺は迷わず角を掴んで盤上に放つ。


「正気か……?」


 そう驚く天竜に、俺は言葉を返さない。


 それでも天竜は何かがあるのだろうと数分考えた後、疑うような声色を乗せて俺の放った角を取った。


「盤上でハッタリは通用しないぞ」

「──」


 その様子を見ていた観戦者達も声を揃えて、俺に対し呆れた反応を見せる。


「何やってんだアイツ」

「相手が西地区の王者だから、勝負を諦めたんじゃないか?」

「……」


 その中には1回戦で敗退した琉帝道場の大将、明日香も混ざっていた。


 そんな者達の声など届いているはずもない俺は、角を捨てながらも平然とした顔で歩を突き捨てていく。


 開戦は歩の突き捨てから。角を捨てた後に戦いを始めるという逆順を選択して、俺は将棋の定跡に反する指し方を繰り返した。


 スーッと溶け込むような思考が音も立てずに脳内で回転し、加速しているはずの世界は真っ白な景色に包まれて何も感じなくなっていく。


 ──結局、俺は何も分かっていなかった。


 戦術とは何か、戦略とは何か。戦法の上に成り立つ思考のロジックに、俺は明確な答えを出していなかった。


『いつか、お前が本気でプロを目指そうと思ったなら、俺に会いに来い』


 自ら戦術を生み出した天才は、現代の定跡を自分の定跡で塗り替えた。


 稀代の神童──将棋の神として恐れられてもなお、前へ前へと前進し続けるその姿に、俺は憧れと諦めを覚えた。


 あんな風にはなれない。あんなかっこいい存在にはどうやっても届かない。


 それでも──。


『それで、もしも俺に勝つことができたなら、お前をプロに推薦してやる。これは"約束"な』


 それでも──夢は諦められなかった。


 この歳になっても、高校生になっても、俺はまだ"プロ棋士"を目指している。


 散々戦って、散々苦悩して、そうしてネットでの証明を終えたから俺は表舞台に顔を出したんだ。今までずっと顔を背けてきた、この挫折した世界へと戻ってきたんだ。


「──まだ、死んでない」

「なに……?」


 そうしてゆっくりと顔を上げた俺は、天竜に対して不屈の笑みを投げつけた。


「──死ぬのは、そっちだ」

「……やってみろ」


 意を返すように笑みを浮かべる天竜に、俺は守っていた小駒たちを攻めに使ってハイリスクな戦いを巻き起こす。


 そこから始まったのは激烈な攻防戦。時間なんてあってないようなもの、互いにノータイムで殴り合い、攻める。


 しかし、徐々に差は広がっていった。──そう、劣勢なのは俺の方だ。


 角を捨てている影響がここにきて差となって広がっていく。互いに互角と思われる攻防を繰り返すも、その角1枚の差で俺の方が先に追い詰められていった。


 勝ちを確信して口角が上がる天竜。


 局面は一手差の終盤、頓死の隙が見え隠れする難解な状況。


 誰もが両者の勝敗を悟り、誰もがその結末を理解した。


 その時だった──。


「……?」


 そこまでノータイムで手順に指していたはずの天竜が、いきなり止まって盤面を凝視した。


 何かの違和感に気づき、自分の陣形とこちらの陣形の差異を軽く指先を動かして計算すると、目を白黒させながら硬直した。


「……まて、なんだこれは……? ……なんで俺が、負けているんだ……?」

「は……?」


 隣で聞いていた麗奈が思わず振り返った。



『【黄龍戦・団体戦】について話し合うスレPart89』


 名無しの212

 :西地区の実況スレみた?今天竜が決勝戦で戦ってるで。

  https://koreha/usono-saitodayo/nishichiku-zikkyou.part18


 名無しの213

 :>>212 サンクス。てか相手の指し手ヤバくね?ボロカスやん


 名無しの214

 :ほんとだw


 名無しの215

 :なんかようわからんところに角捨てて草


 名無しの216

 :いやこれはいくらなんでも将棋初心者過ぎるやろw


 名無しの217

 :これあれか、大将を当て馬にして他で勝とうって作戦か


 名無しの218

 :うーん、そんなおかしいか?なんか自滅帝もこんな感じの指し方するから感覚麻痺ってるかもしれん


 名無しの219

 :自滅帝って誰?


 名無しの220

 :知らんの?将棋戦争のトップランカーだよ


 名無しの221

 :将棋戦争とか懐かしいな。俺は三段より上はいけんかった。トップランカーって言うと七段くらいか?


 名無しの222

 :自滅帝は九段やで


 名無しの223

 :え?九段?当時は九段どころか八段もおらんかったやろ。流石に盛りすぎちゃう?


 名無しの224

 :九段とかw不正しなきゃ届かねーだろw


 名無しの225

 :いやそれが実際に実力で九段まで行ってるんよ


 名無しの226

 :嘘くせー


 名無しの227

 :……ん?てか今気づいたんだけど、実況スレの天竜の評価値-9999になってね?


 名無しの228

 :は?


 名無しの229

 :は?


 名無しの230

 :え?天竜負けてんの?


 名無しの231

 :どういうこと?いつの間にそんなんなったの?


 名無しの232

 :は?


 名無しの233

 :え、相手初心者だよね?


 名無しの234

 :どういうこと?


 名無しの235

 :何が起きたんや……



 その後スレは一気に加速し、今まで無名だった真才はこの試合をきっかけに一斉に注目を浴び始めた。

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