第9話

☆☆☆


アパートに戻ってスマホを確認すると梨江たちからメッセージが届いていた。

《梨江:菊池さんとどうだった!?》


好奇心むき出しのメッセージについ苦笑いを浮かべてしまう。

けれどその笑みもすぐに引っ込んだ。


大和の対応は本当にあのときのことを忘れさせるようなものだった。

ふたりきりでいたのにその話題に触れなかったということは、本当に忘れてしまいたいものなんだろう。


《千明:別に……なにもなかった》

文章の後に泣き顔のマークを入れたかったが、本当に落ち込んでいたからそれもできないまま、スマホをベッドの上に投げ出した。


自分の体は床に投げ出して両手で顔を覆う。

こんな気持になるなら、大人っぽく割り切った返事なんてしなければよかった。


そんな後悔が押し寄せてきて、大きなため息を吐き出したのだった。


☆☆☆


しばらくそのままの姿勢で眠ってしまったようで、肌寒さで目を覚ました。

服も着替えていないし晩ごはんも食べていない。


いくらなんでもだらしなさすぎる自分自身に苦笑いを浮かべてお風呂のお湯をためはじめた。

その間に冷凍うどんを茹でる。


帰宅してから2時間も経っているから、さすがにお腹もペコペコだ。

うどんを茹でている間にネギを刻んで卵も用意した。

熱々のできたてうどんに卵を落とせば完成だ。


なんとなくテレビをつけてお笑い番組へ視線を向けながら夕食を食べる。

ちょうど二人組のお笑い芸人が出てきて、満月の夜に狼になってしまう狼男をネタにしていた。

「そういえばあの夜も満月だっけ」


ふと思い出したのは大和とキスをした夜のことだった。

あの日は雲も出ていなくて満月の光で周囲がとても明るかったはずだ。

と、そのとき。


お笑い芸人が『うぉぉぉ!』と声を上げ始めた。

狼男が狼に変身しようとしているシーンだ。



お笑い芸人は顔を歪めて苦しそうにあえいでいる。

その顔が一瞬だけ大和とかぶった。

あの満月の夜、大和もこの芸人と同じように苦しんでいた。


そして突然キスしてきたのだ。

ガブリと、まるで噛み付くようにして――。

ガタンッと椅子を鳴らして我に返った。


椅子に座った状態で前のめりになりすぎて、危うくこけるところだった。

テレビ画面ではすでに別の芸人が出てきて、狼男の芸は終わっていた。


それでもさっき見た映像を忘れることができない。

満月の夜に豹変する狼男……。


まるでこの前の大和みたいだ。

そう思ったが、すぐにその思考をかき消した。


「そんな、単純なことあるはずないって」



自分自身に言い聞かせるように呟いて笑う。

あれは単なる偶然だ。


あの日は偶然満月で、そのときに偶然菊池さんの体調が悪くなっただけ。

千明はそう言い聞かせて変な思考を振り払ったのだった。



それからも仕事をしながら大和のことを気にする日が続いていた。

叶わない恋だとわかっていても、そう簡単に諦めることはできない。

どうすれば忘れることができるのか、それすらわからないままだった。

「大丈夫か?」


昼休憩の時間になって梨江とふたりで外へ出てきていた千明に晋也がそう声をかけた。

今日は晋也も外へ出て食べるつもりのようで、手にはコンビニのお弁当が入った袋が握られている。


「大丈夫だよ。私元気でしょう?」

そう言って首を傾げてくる千明は明らかに弱っている。


食事量も減っているし、眠る時間も減っているのだから当然のことだった。

「元気そうには見えないけどな」

晋也は腕組みをして答えた。


大きなミスはしていないものの、このままではいつどんなミスをしでかすかわからない。

千明本人だって、その不安を持ったまま仕事をしていた。

「人を好きになったくらいで休むことなんてできないし」


当人がいない場所だからこそ言えることだった。

「同じ職場ってきついよね」


梨江が訳知り顔で何度も頷いている。

その手に持っているのは栄養ドリンクの茶色い瓶だ。



中身はすでに飲んでしまっているが、休憩室へ戻るつもりはないらしい。

「思い切って告白するっていうのは?」

晋也からの提案に千明は箸を落としてしまいそうになった。


慌てて握り直して晋也へ視線を向ける。

「だって、このままじゃ良くないだろ。それならもう思い切って告白してスッキリするのが一番だと思うけど」

「それって潔く振られろって言ってる?」


千明の問いかけに晋也は黙り込んだ。

だけどその沈黙は肯定しているようなものだった。

元々可能性ゼロの相手を好きなってしまったんだから、告白した時の返事だってわかりきったものだった。


それでも告白してスッキリしろというのは、すべてを終わりにしろということだった。

千明は体の中の空気をすべて出し切るようなため息を吐き出した。

「私だってこのままじゃダメだってわかってる。でも振られたら個々で働くのも辛くなっちゃう」


保育士の夢を諦めてここへ来た。

ここでは小さな子どもたちが沢山遊びにきて、その相手をすることができるからだ。

だけど保育士のように大きな責任は持たなくてもいい。


それが千明には大きな魅力になっていた。

この場所はまさしく天職なのだ。

「それは時間が経てば消える傷だと……思うんだけどなぁ」

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