第5話
ベッドから出ることもなくグズグズと考えている間にスマホが震えた。
見ると大和からのメッセージだ。
《大和:昨日のこと、ちゃんと謝りたい。今日会えないかな?》
その文面を見た千明はゆるゆると息を吐き出した。
謝りたいってことは、間違いだったってこと?
起きてからはしゃいでいた自分が情けなくなる。
そうだよね。
菊池さんがわざわざ私のことを好きになるはずない。
菊池さんならきっと、もっと素敵な女性が似合うだろうから。
千明は重たいため息を吐いて《わかりました。リトゥーンホテルのレストランでいいですか?》と返事を打った。
こうなったらとことん高いものを注文してやる!
☆☆☆
千明が指定してホテルはこの辺では最も高級なホテルで、最上階は平日でも一泊数十万円は取るらしい。
その中にあるレストランだから、これも目が飛び出てしまうほどの金額だ。
千明はイトコの結婚式で1度だけこのレストランの料理を食べたことがあった。
そのときは緊張してしまって味なんてよくわからなかったけれど、今日はもりもり食べる気満々だった。
真っ白な鏡台の前に座って丁寧にメークする。
有名ホテルだから、服にも気を使わないといけない。
あれこれ考えている間になんだか自分がデートにでも行くような気分になってきて苦笑した。
今日はデートじゃなくて、失恋しに行くようなものだ。
好きだという自覚はなかったものの、キスをされて拒絶しなかったということは、きっとそういうことなんだろう。
昨日のキスを思い出すとまた胸の奥がじんわりと熱を帯びてくる。
千明は左右に頭をふってその熱を追い払った。
「私は振られたんだから」
鏡の中の自分へ向けてそう言い聞かせる。
するとジワリと涙が滲んできて、視界がボヤけた。
恋愛と離れていたぶんだけ、失恋とも無縁な毎日を送っていたことに気がつく。
「失恋ってこんなに辛いんだっけ」
千明はそう呟いて涙がこぼれ落ちないように上を向いたのだった。
☆☆☆
約束時間の5分前にホテルのロビーにやってくると、大和はそこで待っていた。
ノーネクタイのスーツ姿の大和は普段よりもスラッとして見えて千明はドキドキしてしまう。
観光地の体験施設では、子供の相手をすることも多いからみんなジーンズにTシャツにエプロンという動きやすい格好しかしない。
グレーのスーツが似合い過ぎていて目がチカチカしてしまう。
「すごい、見直した」
大和が千明の薄いピンクのワンピース姿を見て笑顔になる。
長い髪の毛は編み込みにしてアップにしている。
アクセサリーは小さなダイヤのついた控えめなネックレスだけで、清楚感を出したつもりだ。
「菊池さんこそ、まるで別人みたいですよ」
軽口を叩きながらも千明の心臓は飛び跳ねていた。
自分で指定した場所のくせに緊張でおかしくなってしまいそうだ。
それからレストランへ入ると、一番景色のいい席に案内された。
「へぇ、ここってこんなにいい景色なんだな」
広い窓の外を見て大和が目を細める。
「ここで食べたことないんですか?」
「あるわけないだろ。安月給なんだから」
と、大げさにため息をついてみせる。
それは普段どおりの大和の様子で千明も緊張がほぐれていく。
「安月給なのにこんなところに連れてきてごめんなさい」
「本当にそうだぞ。ゆっくり味わって食べないとな」
運ばれてきた料理をしげしげと見つめてそう言う大和に千明は思わず吹き出してしまった。
それからは他愛のない仕事の話や趣味の話をして、デザートのケーキが運ばれてきた。
「今日のデザートはチョコレートケーキです」
小ぶりなチョコレートケーキが3種類、白いお皿の上に乗っている。
どれも一口サイズだけれど、とても美味しそうだ。
「うん、うまいな」
上にベリーが乗っているケーキを一口で食べて大和は満足そうに頷いている。
「もしかして甘党ですか?」
「そうでもないけど、甘いものは嫌いじゃないよ」
そう言って2つ目もペロリと平らげてしまった。
絶対に甘党でしょ。
と、心の中で突っ込みながら千明もショコレートケーキを口に頬張る。
ほどよい甘みが口の中一杯に広がって幸せな気持ちになれる。
「それで、昨日のことなんだけどな」
先にケーキを食べ終えた大和が咳払いをして本題に入ろうとするので、千明は慌ててとめた。
「まだケーキがふたつ残ってるんです。この幸せを感じてからにしてください」
そう言うと大和は目を丸くして瞬きを繰り返し、それからフッと表情をゆるめて笑った。
その笑顔にまた心臓がドキンッと跳ねてしまい、千明は慌てて視線をそらした。
振られるとわかっているのにドキドキするなんて、そんなの悔しい。
「そういえば、昨日は目の色が違ったように見えたんですけど、あれってやっぱり気の所為ですよね?」
2つ目のケーキを口に運びながら千明は何気なく質問する。
すると大和の表情がみるみる険しくなっていった。
え、もしかして聞いちゃいけないことだった?
混乱し、視線をさまよわせる。
フォークに刺さったケーキは空中で止まったままで、口まで運ばれることがなかった。
「それについては黙っていて欲しい」
真剣な表情で言われて千明はなおさら混乱する。
こんな風に忠告してくるということは、あれは見間違いなんかじゃなかったということなんだろう。
なにか、いけないものを見てしまったんだろうか。
千明はできるだけいつもの調子で笑顔を浮かべて「言うわけないじゃないですかぁ」と、ケーキを口に運ぶ。
あれだけ幸せを感じることのできたケーキの味が薄く感じられる。
「それに、キスについても」
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