咲く花に思ひつくみのあぢきなさ身にいたつきのいるもしらずて

 そのまま少女の世話になることになった。

 この際、身分など到底言ってなどいられない。

 ただ大穴に落ちたが五体満足であることに感謝しよう。


「あのー、狭いですが」

「構わない。とても助かる」


 少女の名は『井月いづき 夏目なつめ』という。

 とてもよい名前だ。月と夏とは実に風流のある名だ。


「ついてきてしまったが大丈夫だったのか」

「大丈夫ですよ。その、ここには私しか住んでいませんので」

「そうか、いきなり申し訳ないな井月……さん、でいいのか」

「は、はい」


 ここに来るまでの道中で、私が少女のことを井月様と『様』を付けて呼んでいたのだが、あまりに他人行儀すぎるし、こそばゆいと言われたため『さん』にしてほしいと頼まれたのだ。だが、女性に対してこのような呼び方をするのはあまり慣れていない。


「……こちらをどうぞ」

「これは」

「粗茶です」


 粗茶。それにしては冷えている。

 よく準備をしているではないか。ここには一人で住んでいるというのに、客人のための粗茶もあるなんて、良い子ではないか。

 年も二十になったばかりと聞いている。しかし、私はこの身なりと見た目ではあっても五十に近い。そんな三十と離れた少女などまだまだ幼く見える。


「この家は」

「私のマンションです」

「まんしょん」

「はい、大きな家の一部屋を借りていると思ってください」

「……そ、そうか」


 この大きな家は私がいた屋敷とは違った大きさを誇っている。

 なんと、屋根に床を作って上にも部屋を作れるようにしてあるのだ。なるほど、これは素晴らしい考え方だ。

 ただ、何かの重みで崩れてしまいそうで恐ろしいが、ただ歩くだけなら問題はなさそうだ。それに、せっかく部屋を用意してくれたのだ。その気持ちを無下にするわけにもいかないし、この場所がなければ私はあの森で倒れたまま死んでいたかもしれない。


 粗茶を飲みながら井月さんを見つめる。


「……」

「な、なんでしょうか」

「いや、何でもない。ただ、やはりこの世界は私の知る日ノ本の国ではないのだな。それがまだ信じられなくてだな」

「多分……そうだと思います」


 井月さんからこの世界は何なのかを聞いてみた。


 ここは日本で間違いはない。ただ私がいたあの時代から1000年近く先の未来になる。そしてこの場所は紀貫之に呼ばれた京の御所でもない。

 京から遠く離れた『尾崎市』という場所だ。


 どうして私はこんなに遠方まで飛ばされてしまったのか。

 もう時を1000年も超えているならば、場所などいかようにもなると思えばその通りだ。

 それを聞いたときに、まずは京に行くべきだと考えて井月さんに提案をしてみた。

 しかし、意味がないでしょうと否定された。


 どうやら1000年も時が経てば、私の知る京でもなくなっているそうで、行ったところで何も無いだろうと言われたのだ。

 そうか、そうか。1000年も経てば変わっていくものもあるか。


 ここに来るまでの道も私が知る日ノ本の国のモノとは違った。

 すべてが直線的だ。自然的ではないと言えばよいだろうか。

 例えるならば、歩く道と見えるものの何もかもが作られたものにしか見えない。


 自然もあるのだが、明らかに少なすぎる。


 これが発展だと井月さんは言っていた。

 発展という言葉はとても素晴らしい。だが私たちが望んだ発展の正体はこれでよかったのだろうか。


 井月さんは私の話を突拍子もない夢物語だと思わずに、真摯になって聞いてくれた。そして、私がどのような人物なのかもよく理解してくれた。


「ちはやぶる、神代も聞かず、竜田川、からくれないに、水くくるとは」

「それは……私の歌だ」

「そうです……よね。ならやっぱり……」


 その歌は私が、歌集を作るから何か詠ってくれと頼まれて作ったものだ。


 それよりも、何よりも……


「…………」

「………………どうされました、か?」


「せ、1000年も、私の歌が残っているの……か」

「……はい」

「!!」


 なんだと……信じられない。

 たしかに私は歌に自信はある。歌には人の心を動かす力があり、その一端を担っているという自負もある。

 ただ、それでも1000年という膨大過ぎる時間を越えても、その歴史の重みにつぶされず、色あせることなく残っているだなんて……


「やはり……歌は、素晴らしいな」

「え」

「それに、その歌を知っているということは、井月さんも歌が好きなのだろう」


「あ、いえ、その、調べただけで」

「ん、調べた?」


 井月さんは黒色の光る木簡を私に見せる。そこには私の歌が書かれていた。


 ただ、実に読みにくい。

 どうして左から右に横詠みなのか。


「……」

「あれ」

「何か困ったことでも」

「いえ……だいたいこういうものを見ると、驚くものだと思って」


 黒色の木簡を指して井月さんは『スマホ』と呼んだ。これはスマホというものなのか。


「驚いていないわけではない。この世に来てからというものの、ほんの数刻だが見るもの全てがにわかに信じられないものばかりでな。もう驚くも何もない。それが私の思う未来と違うと考えるだけで納得ができる」

「は、はぁ」

「それに良いことも知れた」


 私はマンションの窓から外を眺める。夜風で木々はざわつき、月はくっきりと光を放っている。

 あの白い巨大な柳だけは風に揺れずに佇んでいたが、それが見たことのない世界だと割り切るにはずいぶんと似ていたのだ。


「人の世は変わらなかった」

「え」


 それだけで私は嬉しかったのだ。


「この地に私を連れてきた者は、未来は争いに呑まれると言っていた。しかし、蓋を開けてみると井月さんのように他人を思いやる心はまだ美しくあるではないか。それに月もまた素晴らしい。少し濁って見える気もするが、我々のことを悠久の時の波の上で常に照らしてくれていた。わたしの時代とあなたの時代、変わってしまったが何も変わらないものもある。それがとても喜ばしいのだ」

「……は、はぁ」


 そう。歌も同じである。


 この景色も、人の世心も、根本は変わらないのだからこそ、私の歌も残っているのだ。

 ならば紀貫之は歌がどうして消えると言っていたのか。


「井月さん」

「はい!」


「拙いことを聞くが、この世にはまだ歌はあるのだろうか」

「……ありますが」

「そうだろうな。そこの木簡が語っている」

「ただ」

「ただ?」

「在原さんの思う歌はあまり人気では……」


 ……どういうことだ。


「これは今は短歌と呼ばれていて、一般的に皆が楽しむようなものではないのです」

「……え、何かあったのか」

「いえ……何も……その、これを見て下さい」


 そう言って、またスマホを持って何かをそこに書き始めた。しかし指だけを動かしてるが、何も書けないだろうに。


「これです」

「これ……か」


 スマホに動く絵が映された。しかし、絵と呼ぶには人物がくっきりとしている。それをさらに動かすなど、どういうからくりなのだ。

 それよりもこの絵に合わせて奏でている雅楽が気になる。これもまたどうやって鳴らしているのか……


「これが今の歌です」

「……雅楽がか」

「はい」


「すごいじゃないか」

「え」


 どうして井月さんはそんなに言い淀んでいたのか。三味線や太鼓のような音は聴こえないが、これは間違いなく雅楽に近いもの。これが歌と呼ばれているのか……


「美しい……」

「え」

「これがこの世の歌なのだろう。なるほど、雅楽に合わせて歌を詠んでいるのか。確かにこれは実に面白い……」

「え?」


 井月さんはまた不思議そうな顔をした。


「何かおかしなことでも」

「いえ、てっきり驚くものかと」

「何度も言わせるな。もちろん驚いている。それよりも見ろ」


 スマホには雅に歌を詠う女性。

 それに合わせて流れる音。


「この美しさに私は感動している」

「……」

「それに、井月さんが歌は変わったと言っていた意味もわかった。これは素晴らしすぎる。歌よりももっと簡単で、美しいとなればこちらを皆が選ぶのも無理はない」


 スマホの中で詠う女性は音節など守っていない。

 でもしっかりと音を感じるし、何よりも感動ができる。できてしまうのだ。


「……どう思ってますか」

「どう、とは」

「歌の形が変わってしまったことに」


「何も思わない。歌とはそういうものだ。時の流れに任せて、その時その瞬間を描くものこそ歌である。だからどのような形であっても、これは歌だと認めるしかあるまい」


 それにこれは良い発想だ。


 歌と雅楽、帝様が見ればさぞ驚くだろう。


「なるほど……これを彼は嘆いていたのか」


 しかし、事細かく歌を聞いてみると、どうしてかみすぼらしく聞こえてくる。

 これほどまでに美しいのに、なぜか。

 それもまた紀貫之が言っていた。


『歌は歌えばいいと思っている連中が多い。林に茂る木の葉の数ほどいる。そのどれもが歌の本質を理解していない。ただ風に任せてざわめくだけにすぎない』


 つまるところ、このような歌が今、この世界に五万とあるのか。

 歌を歌とわかっていない歌。

 それが間違いであるとは思わないが、紀貫之のやりたいことも理解できた。


 彼はこの世に、歌をまた作りたいのだ。


 あの美しい、千変万化する世を切る歌を。


「……」


 これが我々の仕事というのか。

 良いだろう。面白いではないか。

 どうせ、彼の願いを叶えないことには元の時代には帰れないのだろう。


 私は詠う。


 この世を詠うしかあるまい。

 変わり続ける世を、そして変わらないまま生きるこの世を詠うのだ。


「……」

「……何かありましたか」


 ……ふと窓から外を見た。


 月がこちらを見ていた。


 ……


「……


 しろがねに

  ひかりて伸びゆく

   やなぎさえ

 窓辺に見据えば

  千歳と変わらず


 ……」


「……え?」

「……ふっ、やはり私の気持ちを詠うには、彼の言う通り、少し言葉が足りないかな」


 そう言って私は、遠くなってしまった光る鉄の柳を見て少し笑うのだった。

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