第39話 別れの挨拶
三吉から、妙な噂があると教わった数日後。
夜に、陽香さんが僕の部屋を訊ねてきた。
「今、ちょっといいかしら?」
仕事を終えてそのまま来たのであろうスーツ姿だ。
「妙なことになっているのよ」
「もしかして、僕と陽香さんが熱愛をしていて夜な夜な秘密の逢瀬を重ねているって噂のことですか?」
「あなた、知っていたの? でも、そこまで熱愛を疑われている噂ではなかったはずだけれど?」
「すみません、盛りました」
「余裕ねえ。私にとっては悩みのタネなのだけれど」
「マスコミに追われちゃってますか?」
「あなたはどれだけ大物のつもりなの?」
呆れる陽香さん。
「立ち話もなんですし、入ってくださいよ。夕食がまだでしたら一緒にどうですか?」
「……河井くん、あの」
陽香さんは玄関から一歩も動くことなく、うつむいている。
「ちょうどいい頃合いだと思うのよね」
「何がです?」
「私はこれまで、あなたの言う抜きフレとして、楽しい時間を過ごせたと思うわ。最初はどうなるかと思ったけれどね。でも、あなたの言う通り、付き合ってみてよかったと今なら思えるの」
「なんです、まるでお別れみたいなことを言って」
「似たようなものよ」
陽香さんがそう口にした時、驚きとショックで僕は心臓が止まりそうになった。
「私、引っ越すつもりなの」
「えっ、どうして……? まさか結婚」
「残念だけれど、そうではないわ」
「よかった。脳が破壊されるかと思いました」
「聞いて。真面目な話だから。あなたとは距離を置くべきだと思ったのよ」
「待ってくださいよ。もしかして、変な噂のことを気にしてるんですか? あんなもの、噂を楽しんでいる人たちがクラスにいるぼっちな僕のことを一回でも見れば、すぐ止んじゃいますよ。ああ、こいつがあの美人な先生と恋人になれるわけがない、って思うはずです」
「あなたは自分を卑下しすぎだわ」
僕の手をそっと取る陽香さん。けれど手のひらに触れることはなく、指先をそっと摘むだけだ。
「河井くんは自分で思っているよりいい男よ。コウヘイくんに似てるって贔屓目を別にしてもね。あなたと同い年の頃に、あなたと会いたかったくらい。せめて共学校に通っていたらね」
おかしい。
これ、本当に最後の別れみたいな流れになってない?
僕からすれば、いい加減な噂なんて適当に流せばそれで終わる話だった。
けれど陽香さんからすれば、決して看過できない重要事項みたいな扱いになっている。
「陽香さん、どうしたんですか。噂なんかに振り回されることないですよ」
「振り回されてはいないわ。噂はあくまできっかけよ。最近の私の振る舞いを見直すきっかけね」
陽香さんは言った。
「正直、私もここ最近、あなたとは必要以上に距離が近すぎたと反省しているの。教師と生徒の距離感ではなくなっていたことは確かだから」
「そんな……」
「それに、あなたといるとどこまでも甘えてしまいそうになるの。私は教師として、人としてもまだ未熟だし、これからも成長していかないと、大人の世界で生きていけない。……このままだと、私は河井くんなしじゃ生きられない体になってしまいそう」
「僕なしで生きられない体になってくださいよ」
「私、河井くんのそういう正直なところ、好きよ。高校生って案外本音を隠して言いたいことを溜め込んじゃったり、周りに合わせて自分の意見を言えなくなっちゃったりってことが多くなるけれど、あなたは違ったわね。まあ、ちょっと欲望に正直なところはあるけれど、あなたの場合本当に人の嫌がることはしないし」
「やめてくださいよ。もう卒業式に担任が生徒それぞれに贈る言葉をするみたいになっちゃってるじゃないですか……」
「そうね。ごめんなさい、どうせ引っ越しても、担任教師として教室であなたとは顔を合わせるのだものね」
僕の指先に触れていた陽香さんの手が、手のひらに伸びてきて、握手をするかたちになった。
「とにかく、あなたとの思い出は大事にするし、これからも生徒として指導してあげる。あなたのおかげで私も息抜きの仕方を覚えたし、なにより、また推し活できるようになれたわ。ありがとう」
陽香さんが僕から手を離す。
食い下がりたい気持ちはあった。
僕は陽香さんと離れたくなかったのだから。
けれど、ここはグッと堪えるべきところなのだということはわかっていた。
陽香さんの抜きフレになった時から、僕は陽香さんのことを第一に考えるようにしていた。
それなのに、ここで僕がわがままを言ったら、すべてが台無しだ。
当初の目的は、達しているのだ。
いい教師として振る舞おうとした結果、女帝としてみんなから恐れられていた陽香さんが、今やプライベートでは愉快なところや推しへの愛や、学生時代の黒歴史を吐き出せるほど、無理なく振る舞うことができるようになった。
程よく息抜きできるようになったことで、もう女帝としての姿だけを追求して精神的に追い詰められることはあるまい。
それに、噂がこのまま過熱すれば、困るのは陽香さんの方だ。
大人は子供より社会的な責任が大きい。
それは当たり前のことで、ましてや陽香さんは教師なのだ。
この場合、大人で教師であるはずの陽香さんが、未成年の自分の教え子に手を出した。
そんな最悪な解釈をされて、陽香さんが教職を続けられなくなるという可能性もある。
わがままを押し通して悲しむのは陽香さんの方。
それなら、抜きフレとしての付き合いは、ここで一区切りにしてしまう方がいい。
陽香さんの今後の教師生活を犠牲にする危険を犯してまで押し通すべきじゃない。
そんなもの……僕だって望んでいないのだから。
「……わかりました。陽香さん、今まで楽しかったです。僕もいい思い出ができました」
「ありがとう。突然で悪かったわね。私もギリギリまで悩んだの」
「そういう最後の最後まで真面目に背負い込んでしまうところ、陽香さんらしいですけど、これからは適度に気を抜いてもう少しいい加減に生きてくださいね」
「そうするわ」
陽香さんは困ったように微笑む。
たんなる教師と生徒に戻ったあとは、こんな緩んだ表情を目にすることはないのだと思うとどうしても寂しくなってしまうのだが、耐えなければいけない。
「あーあ、できれば陽香さんとはもっと遊びたかったんですけど。ほら、陽香さんが大好きな『スパプリ』は、最近僕もアニメを観るくらいにはハマっているんですよ」
「たしかにアニメ版もいいのだけれど、オタとしてはキャラによって掘り下げが浅い部分があるのが気になるのよね特にコウヘイくんはアニメ化で割りを食ってしまったキャラだから真のコウヘイくんを堪能するのならぜひK社で発売されている方のコミカライズを激推しするわねなにせコウヘイくんの所属校である爽快高校がメインの話で――」
「早口! いい感じにオタクが出てきてますねえ……」
つい僕は笑ってしまう。
「こういう私を外に出せるようになれたのも、河井くんのおかげだから」
「陽香さんが見せてくれた学生時代の黒歴史写真、僕はしっかり覚えてますからね」
「それは忘れてくれていいわ」
「忘れませんよー」
「意地悪ね」
学校の中で陽香さんの黒歴史を知っているのは僕だけ。つまり、僕にとっては大事な思い出だ。
「引っ越しの手続きはすぐ済むわけでもないから……明日からしばらくは実家で過ごすことにするわ。学校からは遠くなって、通勤はちょっと面倒になってしまうけれど、この際仕方がないもの。それと、これ」
陽香さんがさっきからずっと傍らに置いていた紙袋を差し出してくる。紙袋は全面にバレーボールのユニフォーム姿の美少年たちが描かれたデザインだ。コミケでよく見るやつ。
「なんです、これ?」
「あなたに借りていたルームウェアよ。ちゃんと洗濯したし、返すわ」
「そんな。洗わなくてもよかったのに」
「気持ち悪いわねえ……でも、あなたのそういう気持ち悪いところも妙な可愛さがあって好きよ」
それだけ好き好き言ってくれるのに、僕から離れていくのか。
ありがとう、楽しかったわ、と言って、陽香さんが部屋へと戻っていく。
僕の部屋までやってきてくれるのも、きっと今日が最後に違いない。
引き止めないまま、長い髪が揺れる背中を見つめていた。
でも、これでいいはずだ。
陽香さんだけではなく僕まで幸せになれる最良の結果を求めるなんて、欲張りすぎなのだから。
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