第4話 蝶々の鳴く丘で 2

気がついたとき、彼女達は打って変わって爽やかな、小鳥がさえずる丘の上に立っていた。

岬が体の痛みに耐え切れず、足元の草むらに崩れ落ちる。


彼女を一瞥してから、汀は木が立ち並んでいる丘を見回した。

蝶々が沢山飛んでいる。

それぞれ色や大きさは違ったが、共通していたことは、紙で出来ていたということだった。


近くの蝶々を一匹捕まえて、汀はそれを握りつぶした。

途端、周囲に青年の悲痛そうな声が響き渡った。


「僕はやってない! 僕は違うんだ。頭の中の人が命令したんだ!」


くしゃくしゃになった蝶々を広げてみる。

そこには、血液のようなもので雑に、先ほど流れた音声と同じものが書かれていた。

汀はそれを脇に放ると、もう一匹蝶々を捕まえようと、その場をはねた。


『汀、どうだ?』


圭介に問いかけられて、汀は言った。


「ダイブ、心理壁の中に進入成功したよ。」

『トラウマに囲まれてたんじゃなかったのか?』

「この人の心理壁を壊しちゃった。どうせ自己崩壊してる途中だったから」


それを聞いて、圭介は一拍置いてから深くため息をついた。


『お前……』

「廃人になるね。この人」


何でもないことのように言って、汀は面白そうに、紙の蝶々に囲まれながらくるくるとその場を回った。


「でも、いいじゃない。どうせ死刑で死んじゃう人だよ?」

『…………』

「圭介?」

『治療を続けろ。いいか、お前は人を救うんだ。そのためにダイブしてるんだ。分かるな?』

「圭介、私思うんだけどさ」


そこで汀は、ヘッドセットに向かって、困ったような顔をした。


「死刑で殺される人を治して、それで、救ったって言えるのかな?」

『ああ。お前は余計なことを考えず、救えばいいんだ』

「圭介、それは違うよ」


汀は淡々とそう言った。


「助けない方がいいよ、この人」


また近くの蝶々を一つ掴んで、握りつぶす。


「うるさい! うるさい! 僕は殺すんだ! あの女を……僕を笑った女を! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!」

『どうして?』


圭介に聞かれ、汀は答えた。


「だって、屑は死んでも治らないもの」

『…………』


圭介はしばらく考え込んでいた。

が、断固とした口調で彼は言った。


『治せ』


汀は、また一つ蝶々を握りつぶした。


「誰も僕を分かってくれない、誰も僕を分かろうとしない。誰も彼もが僕を見下すんだ。僕は……僕は……」


そこで、突然木々の間に蜘蛛の巣が出現した。

蝶々達が、次々と網にかかっていく。


「僕は……僕は……僕は……」

「殺してやる! 殺してやるんだみんな!」

「血……ひき肉……」

「興奮する。絶叫を聞くと」

「僕を拒絶する声を聞くと、僕は生きている実感を得ることが出来るんだ」

「だから鳴いてよ。もっと、もっと鳴いて」

「誰か僕を分かってよ! 僕はここにいるよ!」

「どうして誰も分かってくれないんだ! 父さんも、母さんも……」

「僕は……! 僕は!」


『僕は、誰だ?』


最後の呟きは、ぐわんぐわんと丘に反響して消えた。

蝶々達は、動きを止めていた。

おびただしい数の蜘蛛が、カサカサと動いて蝶々達を食べ始める。

蜘蛛も、紙で出来ていた。


「この人は自壊を選択してる。生きてても、自分のことが何だか分からなくなってるよ」

『でも、治すんだ』

「どうして?」

『……俺達が、医者だからだ』

「医者?」

『医者は人を治す。それが、人を救うということだ。お前は目の前のことしか見ていない』

「…………」

『汀』


圭介は、彼女の名前を呼んで、優しく言った。


『人を、救いたいんだろう?』

「…………」

『沢山の人を、お前の手で救ってやりたいんだろう?』

「…………」

『目の前だ。そのチャンスを、お前の手で掴め。それは、お前の「踏み台」だ。それ以上でも、それ以下でもない』

「私……私は……」

「なぎさちゃん!」


そこで、うずくまっていた岬が大声を上げた。

ハッとした汀の足元に、紙の蜘蛛の大群が迫ってきていた。

岬が這って逃げようとしている。

小白は、汀の肩の上で、シャーッ! と毛を立ててうなった。


「貴方達が欲しいのは、これ?」


汀がニコリと笑って、蜘蛛達の前に、閉じていた右手を開いた。

そこには、いつの間に捕まえたのか、虹色の羽をした蝶々が一匹、握りこまれていた。


「あげてもいいよ」

『汀!』


圭介が大声を上げる。

汀は、動きを止めた蜘蛛達に言った。


「でも、自分が自分であるのか分からないままでいるのは悲しすぎるから」


彼女はそう言って、虹色の蝶々を、折り紙を元に戻すように、ゆっくりと開き始めた。

空間がざわついた。

蜘蛛達の口から、男の拒否を示す凄まじい絶叫が辺りに轟きわたる。


「私が、あなたにあなたの顔を見せてあげるよ」


折り紙を開く。

それは、顔写真だった。

赤ん坊の、写真だった。


「中島正一。それがあなたの名前。あなたは何にもなれないし、何かになれるわけでもない」


汀は、クスリと笑った。


「これから、殺されにいくの。それから逃れることは、多分できないの」


いつの間にか、おびただしい数の紙の蜘蛛は、足を上に向けて、硬直して死んでいた。

代わりに、丘の向こうがざわついた。

次いで、地面が揺れた。


ミキミキと木を押しつぶしながら、何かが地面の下から出てくる。

それは、体長十メートルはあろうかという、巨大な蜘蛛だった。

八つの赤い目を光らせながら、巨蜘蛛は地面を踏みしめ、汀の前まで移動すると、顔を屈めて蟲の口を開いた。


「シャーッ!」


小白が地面に降り立ち、風船のように膨らむ。

巨蜘蛛の半分ほどの大きさに変わった小白は、牙をむき出して蜘蛛を威嚇した。


その化け猫を制止して、汀は一歩前に進み出た。

そして赤ん坊の写真を、蜘蛛に突きつける。


「良く見て。これが、あなたよ。あなたは蜘蛛じゃない。あなたは人間。何の変哲もない、平凡で、ごくごく普通の何の力もない、無力な人間の一人よ」


巨蜘蛛が悲鳴を上げた。

嫌々をするように首を振った蜘蛛に、汀は淡々と続けた。


「あなたが思い描く現実なんて、どこにもない。誰も、あなたのことを理解なんて出来ない。あなたが、あなたを理解できないように。私も、あなたを理解することができない」

「危ない!」


そこで岬が悲鳴を上げた。

汀が気づいた時は遅かった。

蜘蛛が足を振り上げ、汀に向かって振り下ろしたのだ。


小白も、とっさのことで反応が出来ないほど、すばやい動きだった。

蜘蛛の足は、簡単に汀の背中を胸まで貫通すると、向こう側に抜けた。

そして地面に、まるで蟲のように、少女のことを縫いとめる。


「ゲボッ」


口から血の塊を吐き出して、汀は胸から突き出ている蜘蛛の足を見た。


「……ガ……あ……」

『汀、汀……どうした!』


彼女の声に、圭介が狼狽した声を上げる。

汀はそれに答えることが出来ず、鼻や口から血を垂れ流しながら、震える手で、赤ん坊の写真を前に突き出した。

そして、歯をガチガチと鳴らしながら、かすれた声で言う。


「良く……見て。これがあなたよ……誰も言わないなら……私が言ってあげる……」

「なぎさちゃん!」


岬が声を上げて、這いずって汀に近づこうとする。

汀は彼女に微笑んで、また血を吐き出してから、硬直している蜘蛛に、一言、言った。


「ただの人間のくせに……世界中で何百何億といる、ただの人間のくせに……」

『汀!』

「何を、粋がってるの?」


蜘蛛が絶叫した。

その長い絶叫は周囲に轟き渡り、丘をグラグラと揺らした。

たまらず目を閉じた汀の体を固定していた足が、フッと消える。


胸に大穴を空けて地面に崩れ落ちた汀の目に、空中に浮かんでいる、膝を丸めた赤ん坊の姿が映った。

汀は血を吐き出し、脇の小白に支えられながら赤ん坊の前に這って行った。

そして、写真を赤ん坊の頭につける。


白い光が辺りに走り、赤ん坊の姿が消えた。

同時に丘の蜘蛛の巣が消え、真っ白な蝶々達が周囲を飛び回り始める。

汀は小白に寄りかかって、ゼェゼェと息をついて、また血を吐き出した。


『良くやった、汀。戻って来い、早く!』


圭介がマイクの向こうで怒鳴る。

汀は、しかしそれに答えることが出来ずに、地面に崩れ落ちた。


そこに岬が到着し、彼女の体の上に倒れこむ。

そしてヘッドセットに向かって、叫ぶように言った。


「四番、五番、治療完了しました。目をさまします!」

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