scene(2,Ⅱ);
ヘレンは豹変していた。先ほど喰らった啖呵もだが、常にぼうっとして意思疎通も出来なかった人間は、怒りに燃えて突き進んでいく強い女性に変貌したのだった。後を追っている道中で、警備兵と思われる兵が何人も倒れていて、クロエは愕然とした。
「おじょっ……ヘレン! 待てって! 何やってんだ!」
見知らぬ施設の中をどんどん進んでいってしまうヘレン。引き止めようとしても全く無視されている。すると、彼女の恐れのない足取りがふと止まって、こちらを振り向いた。
「何って、ここが何処だか分からないから、探っているだけよ。兵士に見つかったら面倒だから気を失わせてるわ」
それだけ言って、再び背を向けて進んでいくヘレン。多少は追い付くことができたが、しばらく走り続けたので息が上がった。足を止めてうなだれる。
「はぁっ、気を失わせる、って……どうやってんだ。全く、別人みてぇな……」
荒い息に混じって本音を零したあと、再び走り出す。
やっとの思いで追い付いた時、クロエの前には衝撃の光景が待っていた。ヘレンは職員らしき男の腕を背に絡め取りつつ、ナイフを向け脅していたのだ。
「ひっ……!」
「声を出さないで、質問にだけ答えて。ここは一体どこ?」
クロエは目の前の凶行を止めるべきかと思ったが、ここまで走らされた疲労ですぐには身体が動かなかった。仕方なく、息を整えている間に彼らのやり取りを見逃す形になる。
「どこって……。廃墟層だよ。今から一〇〇年前に廃棄された……」
「廃墟層……?」
男の答えを、ヘレンは考えを巡らすように繰り返した。その間に、男は身を拘束されながらも様子を伺おうと、視線を背中側へ向けた。すると男は驚愕の表情を浮かべて、ある名前を口走った。
「君は……アノン……⁉」
次の瞬間、ヘレンは冷静な様子から一転し、激情を全面に現して叫んだ。
「っ! 姉さんを知っているの⁉ 姉さんは今どこなのよ! 教えなさい‼」
ヘレンが男の腕をいっそう強く引っ張るので、男が苦しそうに呻いた。男にはI№表示が無い、珍しい
「おい、ヘレン! やめろって! 腕が抜けちまう。落ち着けよ」
「ちっ……」
クロエが諫めると、ヘレンは舌打ちをしながら拘束を緩めてやる。男は逃げたりする素振りもなく、ヘレンの全身をじっくりと観察するようにしてから口を開いた。
「姉さん、という事は……君は、妹なんだね。そうか……」
男が至極哀しそうに言うので、クロエ達は一瞬動揺したが、ヘレンが迷いを断つかのように鋭く訊いた。
「そうよ。姉さんは何処なの。早く答えて」
「ああ、だが……。ここまで兵士に何人か手を出しただろう。このままでは君達は兵士に捕まってしまう。一旦、こちらへ」
男は手招きをして、近くの研究室らしき部屋へ入って行く。自分の命を脅かした相手を匿おうとしているのだろうか?クロエは首を傾げてしまう。あの落ち着き具合からして、ただの一職員では無い気はするが。
「行くわよ」
ヘレンはクロエの意志を確認する間もなく、勝手について行ってしまう。
「うお、おお。分かったよ。怖え~なしかし……」
翻弄されっぱなしのクロエは小さく呻いて、しぶしぶ後を追った。
クロエが部屋に入ると、男はデータ処理機器を操り、扉を閉める。通常の閉扉だけでなく、何かしら防衛機構に影響する操作を行ったらしく、カチカチという機械音が後追いするように鳴った。
「これで、少しの間は警備の目を掻い潜る事ができる。といっても、派手に暴れたみたいだね。既に警報が鳴っているよ」
「やっぱり」
男の言葉にクロエがぼやくと、ヘレンからぎっ、と怒りを込めた睨みが飛んできた。
「警報なんて鳴っていないじゃない? どこで鳴ってるっていうのよ」
「実際に音を鳴らすと、上階にこの廃墟層の存在が知られてしまうから。体内に流れる
男は、自身の脳を現すように、こめかみ辺りに向けて人差し指で指し示した。霊粒子。確かエルドリウムを構成している粒子の用語だ。ヘレンは納得していないのか、男の方を依然睨み付けたままだ。
「なるほどね。それより、姉さんは何処なの?」
「いや、それより。ここは何の施設なのかが先だ。廃墟層って、つまり一〇〇年前に廃棄された居住層だろ。何でこんな……」
ヘレンが執拗に聞き出そうとしている姉の話題に、クロエが割り込む。悪いが今は現状把握を優先したかった。
すると、突然ヘレンはクロエの顔面に向かい、おもいきり右拳を振るって殴りつけた。右の頬から鈍い音が鳴り、クロエが悲鳴を上げる。
「いって‼ オレの
「うるさいわね、いちいち喚かないで。黙って見てなさいよ」
勝手に殴っておきながら、ヘレンは迷惑そうに顔を顰めて文句を言い放った。クロエは負傷した右頬を抑えるが、驚きで口がふさがらない。上層階に居た時の大人しい、神秘的な雰囲気は何処へ行ったのか。ヘレンは別人になるどころか、破壊的ですらあった。
「
ふたりの会話を聞いて、男がふと呟く。それを聞いた途端に、ヘレンは顔色を失って俯いた。そして、まるで壊れた機械のごとく早口で喋り始めた。
「姉さんになりたかったのよ。あの時、飛び降りた姉さんを止め……られなくて。だったら私は、姉さんの代わりになればいい。そうよね。そうよ。姉さんは……」
「え? お、おい」
クロエは異常を察してヘレンの腕に触れる。掴んだ腕も声も震えていて、視線の先が行き場を失ったみたいに彷徨っている。“アノン”という人物に言及がされてから、明らかに様子がおかしい。精彩を欠いて、呼吸が乱れ始める。なにか精神的な疾患だろうか。
「……すまない。アノンは死んだ。『自殺病』から、救ってやれなかった……」
男からそれを聞いた瞬間、ヘレンの息がひゅっと引っ込む音が聞こえた。クロエは何ともいえない嫌な予感がして、恐る恐る彼女の様子を伺う。
ヘレンは錯乱したりはしていなかった。ただ、立ったまま泣いていた。まるで心が決壊したかのように、大粒の涙を流していた。
「……嘘。嘘よ。姉さんは飛び降りたけど、生きて……。いいえ。生きてる筈がない……」
涙声で呟きながら、ゆっくり膝を折ってしゃがみ込んだ。クロエは彼女に合わせるように、立膝の恰好をとって体勢を低くした。
傍で聞いていた話によれば、ヘレンが異様に執着している姉〝アノン〟は、飛び降りて死んだのだという。『自殺病』だと言っていたが。この職員らしき男は、その件に何かしら関与しているらしい。
ヘレンは、何者なんだ。明らかに精神が壊れている。地下に着いた途端に人格が変わり、暴力も厭わずに己の都合を優先させている。タチが悪いことに、兵士をいなせるほどの腕っぷしらしい。姉だという〝アノン〟の情報に何よりも拘っているが、当人はすでに死んでいる。ヘレン自身も分かっているようで、しかし事実をうまく受け止めきれていないような素振りを見せている。
一体、オレはどうすればいい。彼女に何をしてやれて、どうするべきなんだ。惑って、答えの出ないまま考えていると、泣き腫らしたヘレンの暗い瞳がこちらを向いた。痛々しい姿。あの虚ろな表情の奥に、これだけ傷つき果てた心が隠れていたのか。何も手段はないままでも、たまらなくなって、クロエの口は勝手に言葉を発していた。
「ヘレン、オレはお前の味方だ。とりあえず今は、それだけは言えるから」
思わぬ言葉だっただろうか、涙に塗れたままのヘレンが不思議そうに顔を上げる。クロエは何か通じればいいと思いつつ、頷きを返す。握ったままになっていた腕を離して立ちあがった。
「あんた、色々と知ってるみたいだな。名前は?」
「……ヴァンテ。ヴァンテだ」
職員の男は、罪悪感を滲ませた暗い顔で答えた。
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【用語解説】
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