scene(1,Ⅲ);
クロエは、意識を失ったままの女性の様子をじっと見つめる。珍しい
エルゼノアの住人は、ほとんどが
生身の肉体に比べて、便利で頑丈だ。先天的に身体が欠損している人も健常者と同様に生活可能だし、脳や神経の働きに干渉して精神的ダメージから心を守ったりする事もできる。
換装身体ならば、
I№自体は表示されているので換装身体なのだろうが、ノイズが入って詳細が見えない。女性の換装身体はまだ新品に見えるが、プリセットはずいぶん古風だし、赤い瞳のデザインは見たことが無かった。
「オーダーメイドかな? 本体は……分かんねぇな。っと……いけね」
何故だろう、ついつい見入ってしまう。三次視像で誰でも美しくなれる筈なのに目を惹かれる。とはいえ人が眠っている所を呑気に、しかも無断で観察するなんて無粋だ。そんなことやってる場合じゃない。クロエは再度女性を抱えて持ち上げると、不安定によたよたしながらデッキを後にした。
数刻後、下層階の大規模地下商業街・ロストラ。クロエは馴染みのバーで酒をちびちび飲みながら、苦い顔を浮かべていた。
「で、そのまま連れ歩いてるってワケかい⁉」
信じられない、という様子のママは、クロエが渋々頷いたので、あんぐりと口を空けたままになってしまった。カウンターに掛けている彼のすぐ隣には、ぼうっとした表情で赤眼の女性が座っている。
『自殺病』は精神疾患と認められてはいるが、実際に
助けたからには責任を持つつもりであったクロエは、彼女を匿おうと連れて歩きつつ、様々なことを尋ねた。ところが、赤眼の女性は会話をする事にも苦労するほど、まともに反応が返ってこなかった。
名前を聞いても「忘れた」、何があったか聞いても「覚えていない」。そして大半の時間は放心した様子で黙っているのみだった。『自殺病』は確かに意識が朦朧とするとは聞いているが、これでは目覚めたての幼子のようだ。困ったクロエは、ひとまず『自殺病』に詳しい人間を捜し歩いていたのだった。
「ふぅん。流石にアタシでも、『自殺病』の事は分からないねェ……。悪いわね」
綺麗な眉尻が申し訳なさそうに下がった。ママは若い女性の換装身体を使っているが、声だけは変えておらず、壮齢の感がある。声帯を変えるのはリスクがあるのであまり好まれていない。
「ボスに訊いてみたら?」
クロエ達が話している横から、カウンターに座っていた別の客が口を挟んだ。痩せていて、くたびれた容貌の中年男性だ。
「少佐、ボスと『自殺病』の話したことあるの?」
「いいや。でも、あの人何でも知ってるじゃん。相手してくれれば、だけど」
クロエに少佐、と呼ばれた男性は、疲労と酔いが混ざった血色悪い顔で煙草の煙を吐く。彼はこのバーの常連客で、軍部に所属している身の上ながら、ロストラにも情報を横流ししている人物だ。いわゆる汚職である。
「ベルヌーイさんは、ボスと仲良いからね~。
バーのママは、顎に手を遣りながら明後日の方向に視線を泳がせた。
皆に〝ボス〟と呼称されている人物は、この地下街を取りまとめている存在で、言うならば元締めだ。威厳に溢れた佇まいとカリスマ性で、下層階の住民に慕われもし、恐れられてもいる。確かに、かの首魁であれば、『自殺病』に有効な手を打ってくれる可能性はあった。
「クロエ、俺からボスにひと声掛けておいてやろうか? おめぇの良い頃合いで、ボスの事務所に顔出すといいさ」
「マジで! 少佐~~ありがてぇ‼ 恩に着るぜ!」
ベルヌーイ少佐が思わぬ助け船を出してくれ、クロエが飛び上がって喜んだ。だが彼は曲者にふさわしく、含みのある表情でニヤッと笑う。
「タダじゃないぜ。礼は?」
「じゃあ、次期のレースの上席と、その回の
「いいね、じゃそれで。実はさ、前の奥さんに根こそぎ取られて懐が寂しくてよ~!」
少佐がそう愚痴ると、バーの客たちがからからと笑った。下層階は実質的に軍部から見放されていて、法と政府が存在していない。上層階で生きていけなくなった者も、大罪を犯して逃げ込んだ者もいる。互いに深入りせずに慰めあって、何とか生きている。そんな奴ばかりだ。
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【用語解説】
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・I№《アイナンバー》:個人識別内部番号。換装身体や各種個人証明書に連携して、見た目が変わっても識別ができる。身分区分があり、上位INo.は下位INo.の身分を目視で確認することができる。
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