第9話 独り善がりな気持ち
梨花の肩を掴んだ時、ビクッと彼女の体が震えた気がした。
それでも俺はキスをしたい欲望が抑えられずに、少しづつ……本当に少しづつ顔を近づけていく。
徐々に濃くなっていく梨花の香りに、もう間も無く彼女とキスをするのだという実感が湧いてくる。
ドッドッドッドッ……と激しく脈打つ心臓の音を無視して、俺は彼女の唇まで残り数㎝までのところまで近づいたその時だった。
ピトっと、俺の唇に“何か”が触れる。
目を開けてみるも、梨花の唇まではもう少しだけ距離がある。では、俺の唇は今何に触れてるのかと言えば、それは梨花の人差し指だった。
「……梨花?」
「ゴメン、大和。今は、キス出来ない……」
俺が梨花の名前を呼ぶと、彼女は顔を伏せ申し訳なさそうにして返答する。
「……っ!」
その彼女の反応に、俺は思わず人差し指を離された自分の下唇を噛んだ。
噛まずには、いられなかった。
それだというのに梨花の方が謝ってくる。
「私からイチャイチャしたいって言い出したのにゴメンね……」
謝らなければいけないのは俺の方なのに……。
自然と気持ちが言葉として現れる。
「……いや、梨花は謝らなくていいよ。今のはちょっと、梨花の気持ちを考えなさすぎた。むしろ謝るのは俺だよ。嫌な思いさせてゴメンな」
俺がやろうとしたキスは梨花の気持ちを考えずにしようとしたものだ。
安心安全なだけの男ではないと分からせたい。俺だって立派な男なんだってところを証明したい。
自分勝手な考えが膨らみに膨らんで、独り善がりなキスをしようとしていた。
梨花のしたいイチャイチャとは真逆なものになってしまった事に、俺は後悔してもしきれない。
しかし、梨花の反応は俺が思っていたものと違っていた。
「え、嫌な思いなんてしてないよ?」
「そう、なのか……?」
てっきりこっぴどく怒られるものかと思っていたものだから、少々拍子抜けしてしまう。
しかも、顔を上げた梨花の表情はどこか嬉しそうなのだから尚更だ。
そんな彼女が口を開いて何を言ってくるのかと、待っていると
「それどころか、さっきの大和がかっこよすぎてまともに顔が見れないというか、なんというか……。えへ……えへへ……」
見たこともない、なんとも蕩けきった表情をするではないか。
イチャイチャの主導権を握っている時の表情とはまた違う、愛らしさ高めの梨花の表情。
また、“好き”が溢れ出しそうになってしまう。
いますぐ抱き着きたい気持ちをグッと抑えて、俺はふと湧き上がった疑問を口にする。
「いやいや……! なら、どうしてキス出来ないなんて」
怒っているどころか愛らしい表情をする梨花に、どうしてキスがダメだったのか知りたくなってしまう。
独り善がりなキスはしたくないけれど、梨花とキスがしたくないとは思っていない。
正直、キス出来るのならしたい。
一年の頃から溜めていた想いは、彼女から仕掛けたイチャイチャによって暴発寸前なのだから。
けれど、梨花が口にしたキス出来ない理由を聞いて俺は呆然とした。
「だって、歯磨いてないもん……」
「……え?」
「大和の朝ごはん食べてから、歯磨いてないんだもん!!」
そんな言葉を泣きそうな顔で口にする梨花。
さっきまでの蕩けきった表情の余韻があるからか、泣いてる梨花も可愛かったけれど、今はその事に気がいかなかった。
「えっと、もしかしてそれだけの理由でキス中断されたの?」
「それだけって何よ! 歯磨きは重要だよ!!」
「いや、それはそうだけども」
まさか、歯磨きをしていない事で断られるとは思っても見なかった。
いや確かに歯磨きは重要だけども。
「初めてのキスはレモンの味って決めてるんだから!!!」
梨花のピュアさに、無理に先に進まなくてもいいんじゃないかなとさえ思えてしまうけれど。
むしろ、このままの梨花でいて欲しいと思う自分がいるのだから驚きだ。
そんな事を考えてると、梨花が顔を覗き込んで様子を伺う。
「どうしたの? 急に固まっちゃって」
「い、いや、梨花が急に乙女な事を言い出したから、ちょっと驚いちゃって」
「乙女だなんて、そんなに褒めなくても〜」
「そこまで褒めては……」
「ん? 褒めてないの?」
「いえ、褒めてます!」
「だよね! やった!!」
あからさまに嬉しそうな梨花を見て改めて、キスはまた今度、ちゃんと彼女に合わせてしよう。そう心に決めるのだった。
「でも、どうしよっか? またハグの続きする?」
一通りの会話を終え、梨花は物足りなくなったのか、腕を広げながら俺に問いかける。
間違いなくハグのお誘いだろう。
しかし、俺はその誘いを泣く泣く断る事にした。
「あー、その事なんだけどさ、午後から塾の臨時講習あるの思い出してさ……」
今の時間から梨花とハグをしてしまえば、塾をサボってしまいかねない。
けれど、高校三年のこの時期に受験特化の臨時講習を一日休むということは、致命的になりかねない。
だからこそ、泣く泣く断るしかなかった。塾が無かったら───間違いなく、彼女の誘いを食い気味に受けていたに違いない。
もちろん、梨花には俺の事情なんて知ったことではない。俺には俺の事情。梨花には梨花の事情があるのだから。
だというのに、梨花は思いの外あっさりと身を引くのだ。
「ありゃ、そりゃ大変。じゃあ、もうやめとく?」
「そんな感じだね。……物凄く、名残惜しいけど」
「うん、私も……」
───いや、かなり名残惜しそうに身を引いていた。
しょんぼりとした表情にズキリと心が痛んでしまう。
ならせめて、せめてもの償いはできないか───。
そんなことを考えていると、気づけば俺と梨花は先ほどまでのイチャイチャの余韻に浸りながら、食器の片付けを始め、終えた頃には十一時手前に差し掛かっていた。
「それじゃあ次は、ちゃんと歯が綺麗な時にイチャイチャしようね! 」
「おーう。それじゃあ、気をつけて寮に戻れよ」
「分かってるって〜」
そう言って、梨花は俺の家から出ると元気に彼女の寮へと戻っていく。
彼女が見えなくなるまで見送ると、急に梨花が放った言葉が頭を
───『今はキス出来ない』
───『次は歯が綺麗な時に』
まるで、場が整っていればキス以上の事も出来たのではないか、という梨花の言葉が。
「……これから先、どんな顔で梨花を見ればいいんだよ」
そう呟きながら部屋に戻った俺は、受験生としての義務を全うするべく、すぐさま塾の自習室に向かうのだが、何一つ勉強に身が入ることはなかった。
そして、何度も何度も梨花の事を頭に思い浮かべながら、貴重な夏休みの一日を終えていく───。
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ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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