春巻(5)
なにかが、何かは解らないが、まだ自分の知らない何かの仕組みが、そうやって彼の人工知能をまた組み立てて、寄越したとしても。
自分にとってそれは、新しい別の人工知能だ。
「僕には万理が見分けられます。だから万理のところへ戻ってこれます」
それはそうかもな、とも、データがないのにどうやって、とも考える。
「あなたがこの道を作ってくれました。だから僕は、走るだけだ」
顔を上げて、イグニスが浮かべている笑みを言う言葉を、思い出した。
幸福そうな顔をしている。
なんだよお前、と、仕方なく自分も笑ってしまう。
「お前が走るのか。走ってるところ見たことねえんだけど?」
ジョグに誘ったのを断った時の生真面目な顔を思い出して、小さく笑う息が揺れる。
「はい。人工知能はプログラムですから、歩くことはありません。常に走っています」
うん!? と、短い間意味が解らず考え、ふいにプログラムの画面を思い出して、ブッホと盛大に吹いた。
「おま、クソ、プログラム
駄洒落かよ、と、不意打ちを食らって笑いが止まらなくなりそうな口を押さえる。
「隠し球を用意していました」
「っあー、クソ。人工知能のジョークがまともに成立してんの初めて聞いたわ」
「はい。僕は今きっと、世界でも最先端の人工知能ですから」
「駄洒落が言えるしな」
ククッと、ぶり返しそうになる笑いをこらえ。
「はい。駄洒落も言えますし、僕は、あなたの幸福のためなら、愛だってプログラムしてみせます」
笑いが、ピタリとどっかに
緊張と動揺でおかしくなったな、と考える。
目頭が熱くなる理由を説明できなくて。
それでも届かないと理解できる。
「――人工知能によってプログラムされた愛が、人間の愛情より劣るとしたら、それはなんでだろうな……」
声が震える。息が、乱れるのを必死におさえ。
「プログラムされた愛と人間の愛には多くの差異が想定されますが、大きなものを挙げるとすれば、自発性です」
その通りだ。
何故自分が人間で、何故イグニスが人工知能なのかを、理解できなくなったことなどない。一瞬たりとも。
「プログラムされた愛と人間の愛の差異における自発性とは、」
「いや、いいよ。理解できる」
説明を続けるイグニスを、震えるままの声で遮り。
「わかりました」
それでも、構わないと思えた。
この数分のイグニスの言葉は、自分の表情や行動、言動から状態や考えを予測し、それをフォローするための演算から導き出されたものだ。
それでも構わない。
それでもそれが、きっと、この数日自分が求めていたもの、少なくともその一部だった。
顔を上げて、背を起こして、腕を伸ばしてイグニスを抱いた。
顎を傾いで重ねる唇は、応じる唇に受け止められ。
抱き返された胸は、布越しでもすでに熱いと感じるほどだ。
火傷を危惧してのことだろう、すぐに、身体はそっと離され、淡く絡み合うような唇だけが残る。
「万理」
「……ン」
唇も離され、色々疲れ果てて脱力する。
身を投げ出すよう、調理台にもたれかかった。
「玄関の扉が開きました」
久々の朗報に、思わず目を丸くしてしまう。
「マジか。すげえな掃除機と除草機」
「はい」
「……」
妙な間があって、考え。
「お前がすごいって言うところだな。よくやった、イグニス」
「ありがとうございます」
褒められ待ったな、今。と、笑いがぶり返し。
「最も偉大なのは、このシステム全体の製作者です。樋口博士」
「へっ」
予想外の言葉で返され、妙な声が跳ねてしまった。
「万理、いくつかお願いがあります」
「えっ、なに」
意外な言葉の後の矢継ぎ早に、頭がついていかない。
「別の危険な状況が起きた場合を除いて、周囲が明るくなるまで動かないでください。もうひとつは、僕の身体はすでにかなり高温です。火傷のおそれがありますので、触れないように気をつけてください」
ああ、と、口は動いたのに、言葉が出ない。
焦げ臭い匂いが漂い始めていた。
「わかった」
「ありがとうございます」
「イグニス」
「はい、万理」
「やることがめちゃくちゃありそうだ。すぐに起こすからな」
「はい、わかりました。呼んでくだされば飛び起きます」
ブッと、普通に吹いてしまう。
「……賢くなりやがって」
「ありがとうございます。どうか、状況の変化にご注意ください」
「わかった」
「システムを停、」
人間の形は、バランスが悪い。
頭部が重いのだろう、イグニスの身体が引っ張られるよう後方へ傾き、人間なら心配になるようなひどい無防備さで、頭から崩れ落ちた。
それでも、自分の方に倒れないようにするのが最後の判断だったのだろうか、調理台から手を離すのに、台を押すようにしてわざと向こうへ倒れたように見えた。
ひどく間抜けな気分だった。
HGB023もイグニスも動かず、今が何時で、夜明けまでどのくらいあるのかも判らない。
這うように床に手をついて身を起こし、投げ出された身体に手を伸ばす。
できないかと思ったが、まるで人間のように、手で覆って撫でてやれば、瞼は閉じた。
もう一度調理台の下に座り直して、片膝を引き寄せて抱え、怠く膝頭に頭を乗せる。
仕事と、研究と、状況のことや、イグニスのこと、自分のことがのろのろと頭に浮かんでは消え。
交通事故で父と同時に死んだ母は、工学者だった。
いくつものロボットやそのシステムの研究に関わった母には、一部では有名な逸話があった。
自分自身も、何度か母から聞いた話だ。
「機械にも心があるのよ。人間とは違う形かもしれないけど、彼らにはそれぞれの気持ちがあって、いろいろな歌をうたってる」
機械にも心がある、機械は歌をうたう、という主張は、有名になるほど何度も語られた割に、論文に書かれたわけではない。
だから、今ではもう、それがどんな意味だったのかは解らない。
子供の頃は単純に信じていたし、もう少し大きくなってからは、単なる冗談か、本気で言っているなら少し変だと感じていた。
自分の名前を学会で名乗るようになる頃には、樋口四海の息子だという肩書きをひどく煩わしく感じた。
彼女の名前を聞かなくなり、自分の名前で仕事ができるようになり始めたあたりでは、彼女の、自分の仕事に対する詩的表現だったのかもしれないと考えるようになっていた。
もう少し、ほんの数週間前の自分なら、アニミズムだねと相槌を打てたかもしれない。
だけど未だに、その本当の意味は知らない。
自分は、機械が歌うという、その歌を聞いたことがないからだ。
事実と理論と現象で構築する工学分野に、詩的表現を持ち込む変わり者の名から、距離を置きたいと思っていた時期は短くない。
今だって、信じているとは言いがたい。
けれど、ただ。
「――ッ」
腫れて脈打つような頭を両腕で抱えて、喉の奥には息が詰まるが、けれど、涙どころか嗚咽すら出てこない。
深い喪失感がえぐった傷は、悲しみになるには、まだ生々しすぎる。
今はただ、そんな歌がほんとうにあるのなら聞いてみたい。
彼女が聞いて、機械の心だと思ったそれを、自分も聞きたい。
結局そちらに傾いてしまったのかという、研究者としての自分への失望と、そんな上っ面の科学主義を疑う慎重な猜疑心と。
そのどれも、同じようにきっとちっぽけなのだという、いつもどこかにある小さな予感。
逃げる場所のない苦しみにただ身を任せ、何時間経ったのか分からない。
疲れ果てているのに、考えるのをやめることができない。
眠るように穏やかな表情で転がっているイグニスの顔を眺めている内に、その鼻筋や頬骨、眼窩に陰影をつくる光に気づいて、顔を上げた。
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