第26話
呼ばれた美沙は呼吸も瞬きも忘れたように静止した。
智之は低い声がどこからしたのかと、周囲を見回すが誰もいない。聞き間違いか、と思ったが美沙が静止したのはその声が原因だろうから、聞き間違いではないのだろう。
ならばどこから声がしたのか。
耳を澄ませると「お客さん?」と、また低い声が聞こえた。
今度はどこから聞こえてきたのかはっきりと分かった。
何かに遮られているような低い声。
扉越しに聞こえたのだ。
つまり、美沙の後ろから。美沙の部屋から。
低い声は女ではない。男だ。
男の声が、美沙の部屋からした。
親がいると言っていたが、美沙の親は五十代か六十代だ。こんなに若い声ではない。
美沙に弟か兄がいるのか。そんな話は耳にしたことがない。姉と美沙の二人姉妹だったはずだ。
それならば、誰だ。誰の声なのだ。
親が来ていると言っていたが、親ではない。嘘を吐いたのか。何故か。
嫌な予感がする。
「美沙?」
男の声が近くからした。
きっと美沙の隣にいる。
琴音が邪魔で顔は見えない。琴音の位置からは、見えているのだろうか。
ちらっと琴音を見ると、驚愕の色に染まっていた。
何故琴音がそんな表情をしているのだ。
どうなっている。
状況が把握できない。
美沙も琴音も喋らない。
智之はじれったくなり、口を開いた。
「あの、そこにいるのは誰ですか?」
お前は誰だ。
美沙の家族ではないだろう。ならば親戚なのか。
「は?」
男の不審がる声が聞こえる。
智之からは琴音と扉しか見えない。
琴音を押しのけたい衝動に駆られたが実行する前に「姉貴?」という声がした。
低い声は姉貴と言った。
誰のことだ。
智之は訳が分からず、眉をひそめていると琴音が小さく掠れた声を出した。
「蓮?」
蓮。
それは琴音の弟の名前だった。
智之は絶句した。
美沙の部屋にいる男は、蓮という琴音の弟だった。
弟とは数える程度しか会ったことがない。顔も声も、記憶に薄い。
琴音はきっと声だけで分かったのだろう。だからあんなに驚いていたのだ。
しかし、何故弟が美沙の部屋にいるのだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ」
琴音も美沙も何も言わないので、智之が声を出す。
「どうして弟…蓮くんがここにいるんだ?」
弟くん、と言おうとしたが他人行儀すぎる呼び方であることに気付き、名前で呼んだ。
表情は見えないが、きっと首を傾げているのだろう。
「どうしてって、彼女の家に居たら悪いですか?」
その言葉は智之と琴音の頭を殴った。
彼女。
彼女とは美沙のことだ。
一体どういうことなのだ。何故蓮の彼女が美沙なのだ。美沙は自分の彼女だ。まさか美沙は二股をかけていたのか。
智之は混乱し、琴音は強い衝撃によりまだ言葉が出ない。
「これ、何の集まり?」
蓮は美沙に尋ねた。
美沙は答えることができなかった。
黙り込む三人に、訳有りだと察して美沙を守るように前に立つ。
「おい」
蓮が琴音に声をかけると、現実に戻ってきたのかはっとした表情で蓮とその後ろにちらっと見える美沙の一部を交互に見た。
「ちょっと、どういうつもりなのよこのクソ女!」
「もう夜遅いから、明日にしてくんね?」
「前に出てきなさいよ!ふざけんな!」
「横にいる男の人、もしかして姉貴の旦那?」
智之が浮気したと知ったときよりも凄み、怒鳴り散らす。そんな琴音を無視し、蓮は智之に声をかける。
蓮の言葉に「あぁ」と一言のみ返した。
「連れて帰ってくれる?近所迷惑だし」
「あ、あぁ」
「話があるなら明日にして。なんか訳ありみたいだし、俺に連絡入れてくれる?連絡先交換してたっけ?」
「あぁ」
「じゃあよろしく」
扉に置かれたままの琴音の手を払いのけ、扉を閉めた蓮の顔を智之は見ることができなかった。
呆然と立ち尽くしている琴音の肩に手を置き、「今日は帰ろう」と伝えると、鬼の形相で肩に置かれた手を叩いた。
蚊を叩くようなものではなく、痛みを与えてやろうとする行為だった。
叩かれた手を反対側の手で摩り、放心状態のままアパートを出る琴音の後ろをついていく。
パーキングで使用料を払い、自宅へ帰った。
琴音は蓮がいたことの衝撃が大きかったらしく、ふらふらとした足取りで寝室へ入った。
風呂は済ませていないはずだ。
化粧をしたままだったはず。いつもの琴音なら絶対に、化粧をしたまま、風呂に入らないまま寝るなんてあり得ない。
夫の浮気相手の彼氏が弟だった。その事実を受け止めきれないのだろう。
琴音は蓮を大切にしていた。大事な弟だ。
世間は狭いというが、狭いどころではない。
恋人に、彼氏がいた。琴音同様に、智之もショックを受けていた。
美沙には自分だけだと思っていたのに、彼氏がいた。二股をかけていたのだ。
琴音の弟ということは美沙と歳は近いはずだ。
やはり若い男が好きなのか。
自分とは遊びだったのか。好きではなかったのか。愛し合っていたのではなかったのか。
裏切られた気分だった。
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