第17話

 別の休日。

 頻繁に美沙と会うことは避けているので、この日も先日同様に迅を連れて散歩に出かけた。

 快晴で散歩日和だ。

 こうして迅と歩いていると、ただの親子だ。当然血の繋がった親子だが、浮気をしている男ではないような気がしてくる。

 潔白な夫であり父。そんな気持ちになる。

 だがすぐ頭の中に浮かぶのは美沙の顔ばかり。やはり潔白な男にはなれない。


「パパ、散歩好きなの?」

「迅は嫌いか?」

「あんまり好きじゃなーい」

「気分転換には丁度良いだろう」

「家でゲームしたい」


 琴音の両親が迅にプレゼントしたゲーム機は、毎日迅の手の中にある。ゲームは毎日一時間のみと琴音が決めている。今日はその一時間をまだ使っていないようで、早くゲームがしたいと連呼している。

 琴音は両親と仲が良いのか、頻繁に実家へ帰る。実家に帰るくらいなら手土産は必要ないと思うのだが、毎回何かを持って帰っている。それは俺の金だぞ、と何度も言いたい衝動に駆られた。琴音と智之を置き替えて考えてほしい。智之が頻繁に、手土産を持って実家へ帰ったらきっと琴音は怒るだろう。そんなに帰らなくてもいいのに、と。金が勿体ないから手土産なんて要らないだろう、と。ねちねちと文句を言うに違いない。

 智之はそんなことはせず、琴音の好きなようにさせている。現に、今日だって琴音は実家へ帰った。迅を置いて行くなよ。せめて平日にしろよ。そう吐き捨てたいのを我慢した。


「今日はママ出掛けたから、ゲームたくさんしたいのに」

「一緒に散歩行きなさい、ってママが言ったんだから仕方ないだろう」

「お爺ちゃん家行ったのかな」

「そうだな。迅は行かなくてよかったのか?」

「うーん、別に。今日はゲームしたいもん」


 ゲームはそのお爺ちゃんが買ってくれたのだが、迅はそんなことすっかり忘れたようにゲームのことだけを考えていた。


「そういえば、ママこの前おじちゃんと電話してた」

「おじちゃんと?」


 迅の言うおじちゃんとは、琴音の弟だ。


「ママの話し方で分かったよ」

「あぁ、そういうことか」


 琴音は弟に弱いのか、智之相手にする時の何倍もの優しい声を出す。弱腰になり、機嫌を損ねないように、下から話しかけるのだ。

 弟には嫌われたくないという気持ちが伝わってくる。

 智之はその弟と数える程しか会ったことがない。結婚式くらいだろうか。片手で足りる程度であるため、すれ違っても琴音の弟だと分からない。ぼんやりとしか記憶にないが、弟は整った顔立ちをしていて淡泊で無口な印象がある。甲斐甲斐しく話しかける琴音を無視するような、疎ましく思っているような、そんなイメージのみが残っている。


「おじちゃんと喋った後はママ優しくなる」

「ははは、ママはおじちゃんのことが好きだからなー」

「その日はね、ゲームを二時間してても怒られなかったよ」

「よかったな」

「うん!」


 その日のことを思い出しているのか迅はにひひ、と笑う。

 子どもは幸せそうだ。

 他愛もない話をして道を歩いていると、帽子を被った女が見えた。

 見覚えのある帽子を被っているのは、先日の女だった。

 目が合ったので会釈をした。

 どうせまた無視するのだろう、と期待せずにいると、女は戸惑った様子を見せた後、小さく会釈をした。

 初対面ではないから、人見知りは緩和されたのか。

 人見知りは若いうちなら許されるが、歳をとるとコミュニケーションが下手な大人でしかない。

 通り過ぎる瞬間、再度目が合うも智之から逸らした。


「あ、あの」


 逸らしたのだが、声をかけられた。

 智之は立ち止まって振り返る。


「はい?」


 女は視線を彷徨わせ、口元に手を当てる。

 智之と迅は立ち止まったまま、女の口から言葉が出るのを待つ。

 じっと見つめられた女は、言い出しにくそうに口を開いた。


「あの、M市で...」

「はい?」


 M市、と言われてどきりとする。

 その場所は一度だけ美沙とデートで行ったことがあるけれど、美沙の元カレがその地に住んでいると聞いてすぐに他の場所へ移った。

 それ以降、美沙とのデートでそこへ行くことはなかった。

 元カレと出くわしたくない。元カレとの思い出しかない場所でデートをしたくない。そんな美沙の思いを知り、すぐに移動したので滞在時間は三十分もない。

 デートで避ける場所としているM市が、女の口から出た。


「M市がどうかしましたか?」


 至って平静を装い、笑顔で尋ねる。

 まさか見られたのか。滞在時間は短かったし、もう随分前の話だ。今更蒸し返して、どういうつもりだ。


「い、いえ…やっぱりなんでもないです」

「はい?」

「忘れてください…」


 そそくさと去ろうとする女に「ちょっと!」と呼び止める。


「本当に、忘れてください。もう随分昔の話なので、今更だし…」

「…M市のことですか?」

「は、はい。あの、心当たりが…?」


 ちらっと、小さな瞳が智之を映す。

 見透かしたような目。良くないものを見たと主張する視線。

 まさか、知っているのか。

 智之はどう返事をしようか迷った。


「別に、誰かに話そうってわけじゃないから、安心してください」

「は、はい…」

「実はM市に友人がいて、その友人に会いに行った日偶然見かけたものだから…」

「…」

「そちらの家庭ではもう終わったことですよね。ごめんなさい、蒸し返して」

「は、はぁ」

「随分前のことだけど、ずっと気になってたからつい…」


 でも吐き出せてすっきりしたわ、誰にも言えないからどうにか吐き出したかったの。と、ほっとする女を見て、もしかしてと胸がざわついた。


「あの、じゃあ写真は...?」

「写真?」


 きょとんとする女に、「何でもないです」と言って話を終わらせた。

 初対面の時とは違い、笑顔を浮かべて去る女は人見知りではなかった。

 見られていた。知られていた。

 どくどくと心臓が大きく動き始めた。

 誰にも言わない、と言っていたがそんな保証はどこにもない。

 それに、写真のことは知らない様子だった。

 浮気は知っているが、写真の件は知らない。

 喋った感じでは悪い人ではないと直感した。人の良いおばさん。秘密を漏らすような人には見えない。

 何より、M市を訪れた時のことを今まで黙っていたのだ。今更琴音に暴露するようなこともないだろう。

 信用して、いいのか。


「パパ、行こうよ」

「…そうだな」


 浮気を知られている以上、この近辺で目立つ行動は避けよう。

 今まで通りの生活を送ればいい。

 あの女が今更蒸し返すようなことはしないはずだ。

 そう願う以外に何もできない。

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