ベストチャンス・ワーストタイム

神楽堂

第1話

志保しほ、車で送るよ」


明日の卒論発表会に向けての準備は、思いのほか時間がかかった。

ゼミ室には私と貴矢たかやくんの二人だけが残っていた。

レジュメを印刷したり、スライドのデータをパソコンに入れたりしているうちに、こんなに遅い時間になってしまっていた。


貴矢くんは、車で送ってくれると言う。

どうしようか迷った。

バスと電車を乗り継いで帰ってもよいのだけど、家に着くのはいったい何時になるのだろう。


貴矢くんは、同じ研究室で仲良くしてきた仲間だ。

友達以上恋人未満、と私は勝手に思い込んでいる。

お互い、就職活動や卒業研究で忙しい毎日を過ごしてきた。


私はなんとなく、貴矢くんのことが気になっていた。

そして、貴矢くんの方も私に好意をもってくれているのではないか、と私は思っていた。


男の子が運転する車に一人で乗るのは危ないかな、とも思ったけど、これを機会に貴矢くんと仲良くなって、交際にまで発展できたらいいな、なんて、これまた都合の良い妄想が浮かんできてしまった。


「……うん。ありがとう。お願いしようかな」


二人で、大学の駐車場に向かう。

すっかり夜になっていた。

車はほとんど停まっていない。


「貴矢くんの車って……」


まさか、あれ?


「今日、遅くなりそうだったから、親父の車、借りたんだ」


私達の目の前には、長い間洗っていなさそうな、泥だらけの車があった。

貴矢くんはかっこいいから、きっと車もかっこいいんだろうな、なんて思い込んでいた。

ちょっと期待外れだった。

でも、私は送ってもらう身だ。贅沢を言っている場合ではない。


貴矢くんは運転席に乗り込んだ。

私は助手席のドアを開けて乗り込む。


「おじゃまします……」


きついタバコの匂いが漂ってきた。


「貴矢くん、タバコ吸うの?」


「いや。俺は吸わない。親父は結構吸うけどな」


車の中も、かなり汚かった。

灰皿には吸い殻がたくさん溜まっていたし、お菓子の空袋とか、いろんなゴミが車内に残されていた。

貴矢くんとドライブできるのを期待していた私は、なんとなく興が冷めてしまった。


車は走り出す。

貴矢くんは言った。


「ジュース買いたいから、ちょっとコンビニ寄ってもいいかな」


「どうぞ」


コンビニの狭い駐車場には、1台分のスペースが空いていた。

貴矢くんは巧みなハンドルさばきで、1回でねらいの場所に車を入れる。


「すご~い! 貴矢くん、車庫入れ得意なんだね! 私も免許もっているけど、何回も切り返しちゃう」


「ははは。オレは車庫入れ、得意だぞ」


貴矢くんはそう言うと車を降り、コンビニに入った。


車は正直、汚いけど、貴矢くんはイケメンだし、車の運転もうまいし、やっぱりステキな人だな……

そんなことを考えながら、私は助手席で待っていた。


「これ、志保の分」


戻ってきた貴矢くんは、私にジュースの缶を差し出した。


「え? いいのに……」


「いいからいいから」


車は再び、私達の住む街へと走り出す。

隣には貴矢くんが座って運転している。

ハンドルを持つ貴矢くんの腕を見た。

なんだかドキドキしてきた。


やっぱり、私は貴矢くんのことが好き。


「もうすぐ卒業だね」


「そうだな……」


貴矢くんはしばらく無言になり、何かを考えていた。

そして、おもむろに口を開いた。


「志保はこの大学、第一志望だった?」


「え? そうだよ。ちょっと遠いけど、家から通えるし……」


「そっか……俺はもっと都会の大学に行きたかった」


貴矢くんは、ゼミでも活発に意見を出すし、向上心もある方だと思う。

もっと難しい大学に行きたかったというのもうなずける。


「入学してすぐの頃は、別の大学を受け直そうかな、って思ってた。でもさ、卒業を前にして、この大学に入って良かったって、今はそう思っている」


「うん。私もこの大学、好きだよ」


「志保はさ、運命は生まれたときから決まっているって思う?」


「なにそれ?」


「俺さ、小さい頃から都会の大学に行きたいって思って勉強してきた。けど、それは叶わなくてこうして地元の大学に入った。この運命ってさ、初めから決まっていたのかな、って思って」


「どうだろうね」


「受験をやり直したいって何度も思った。でも、この大学に入るという運命が初めから決まっていたのなら仕方ない。そんな風に最近は思うようになったんだ」


「運命……」


「ゼミの仲間と一緒に研究したのも楽しかった。仲間たちとの出会いも運命の出会いだったと今なら思える。みんないいやつだし……」


「うん。私もこの研究室に入れて良かったって思っているよ」


車は信号で停止した。


カ チ カ チ カ チ カ チ ……


夜の静けさの中、車内に聞こえるのはウインカーの音だけ。

貴矢くんは、この後、何を言うのだろう。


私はまた、妄想にふけってしまった。

行きたい大学に行けず、この大学に入った貴矢くん。これが自分の運命だったと受け入れている。そして、ゼミの仲間と出会えたのも運命だったと言っている。


これって……


私と出会えたことも「運命」って……

そういうことかな?

貴矢くんの次の言葉を、私は待っていた。


カ チ カ チ カ チ カ チ ……


貴矢くんは黙っている。

聞こえてくるウインカーの音が、私をドキドキさせる。


信号は青に変わった。

車は走り出す。


「志保の家って、ここからどう行くんだっけ?」


「え? ええっと……」


現実に引き戻された。

何を期待していたのだろう。

なんだか、急に恥ずかしくなってきた。



貴矢くんは、私を家の前で下ろしてくれた。


汚れた窓ガラスを下げ、貴矢くんは言った。


「じゃあ、またな」


「うん。送ってくれてありがとう」


車は角を曲がり、私の視界から消えていった。



ため息をついた。

何を考えていたんだろう、私……

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