第9話 うちの弘法は筆を選ぶ
「『大』が4,000超えたでーーーー!」
朝から妻の声が我が家に響く。もう、何のことか説明する必要もないだろう。
妻の書道動画の再生回数のことだ。
うちの妻は自称ユーチューバーとして書道動画を投稿している。私は自称ユーチューバーのアシスタントだ。
『大』を書いている動画の再生回数が4,000回を突破した。最近は2~3日に1回、再生回数が4桁の動画が生まれている。
再生回数が増えていくことに妻は満足している。ただ、失敗した動画も多い。
「あれ、ちょっと失敗してたのになー」と私は妻に言った。
我が家の書道動画にはローカル・ルールがある。
書くのは1回だけ、失敗してもその動画を掲載するというものだ。
私が何度も録画するのが面倒くさいのが主な理由。
だから、掲載している動画は、最中に書き順を忘れてフリーズしていたり、左右・上下のバランスが変だったりする。習字経験者の妻としては、失敗作を世に出すのは嫌だから書き直ししたいようだ。
でも、面倒くさいから私はなんやかんや理由を付けて、取り直しをしていない。
傾向として、ちょっと失敗している動画の方が再生回数は伸びる。
『紙が破れるぞーー!』
『バランスが変だぞーー!』
『はみ出してるぞーー!』
こんなコメント(悪口)が大量に英語や日本語で書き込まれる。
私は悟った。
きっと、見ている人は美しい字を書く動画を見たいのではないのだ。
ちょっと失敗しているくらいの方が、ツッコミが入るからよいのでは?
そもそも、妻の動画は私がちゃんと編集しないから、クオリティが低い。
他のユーチューバーとは比較してはいけないレベルの動画をアップしている。
まるで、ゴミのような画像……
だから、ちょっと失敗動画の方が見てくれそうな気がする。
私は妻の意見を確認することにした。
「なあ、思ったんやけど……」
「なに?」
「ヘタクソな字の方が再生回数は伸びてる気がするんやけど、どう思う?」
「えぇっ? わざと下手な字を載せるってこと?」
「そやな」
「そんなん嫌や!」
妻は上手く書けた字を載せたい派だ。書道経験者としてのプライドが許さない。
***
我が家では概ね週1回のペースで、妻が字を書いているのを私が撮影している。
書道の動画を撮り始めたら、妻が叫んだ。
「あーーーっ、失敗したーーーー!」
妻は字が上手く書けないのを怒っている。
「そもそも、筆が悪いねん。書道チューバ―はもっといい筆を使わなあかん!」
ついに、うちの弘法(妻)は字の失敗を筆のせいにし始めた。
妻はうまくいかないと、いつも物のせいにする。
だから、私はその考えを改めさせるべく、妻を説得することにした。
「弘法は筆を選ばず、って言うで」
「あれは嘘や。弘法は私よりもいい筆を使ってたわ!」
「上手い人は100均の筆でも上手に書けるやろ?」
「無理やな。100均の筆はナイロンやで。上手く書けるわけがない」
「あんたが使ってる筆は100均とちゃう。普通の筆やろ?」
「この筆、画数が多い字が書けへんねん」
「なんで?」
妻は「ここ見てみ」と筆を指さして言った。
「習字の筆は全部潰れて(おろして)たら、細い線が書けへん」
「まぁ、そうやろな」
「細い線が書けへんから、綺麗な字が書けへん」
※半紙に書く場合は、穂の先端から3分の2くらいまでおろして書くのが一般的なようです。
私は気になったことがあったから、妻に質問する。
「でも、筆を全部おろしたのは、あんたやろ?」
「そうやで」
「全部おろさんかったら、良かったんちゃう?」
「そうやな」
「自分の責任じゃない?」
「とにかく、この筆では字が書けん。新しい筆を要求する!」
妻が逆ギレし始めたので、私たちは自称ユーチューバーの使う筆を買いに行くことにした。
近くの有隣堂に文房具が売られているから、そこに行った。
有隣堂で習字筆を発見した妻と私は筆を見ていた。
「習字の筆って、高いねんなー」
妻が手に取った筆は4,800円(税別)の値札が貼ってあった。
「こっちのが安いで」
私は2,800円(税別)の筆を妻に差し出す。
「それでも2,800円もするんやなー」
妻は軽くショックを受けている。きっと、1,000円前後で買えると思っていたのだろう。
「ユーチューバーとして1円も稼いでないのに、2,800円の筆を使っていいんやろか?」
「まぁ、それで上手く書けるんやったら、買ったらいいやん」
「そうやけどなー。2,800円の筆で上手く書けんかったら、どうしよ……」
妻は不安になってきたようだ。
そして、妻は4,800円(税別)と2,800円(税別)の筆を持ったまま固まっている。
良くない傾向だ。こうなると筆を買うまでに時間が掛かる。
世の旦那さんはいつも経験していると思う。
そして、みんなこう思っているはずだ。
――どっちでもいいから早く決めてほしい……
さんざん悩んだ挙句、その日は筆を買わずに帰った。
<続く>
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