医師になってはいけない男


 夏休みの終わりが9月末だったのでなんか調子が狂わされる。


 約2ヶ月の長い夏休みを終えると、2学期が開始された。夏休み中も休まず勉強していたけど、休みですっかり怠けた体の調子を戻すまでかなり大変だった。

 

 1年生の後半からは生命科学の専門的な講義も加わっていく。分子生物学、細胞生物学がスタートしたので、やっと医学部らしい講義が開始されると私は胸踊らせた。

 一般教養科目の講義は他の学部と同じキャンパスだけど、専門科目は別の医学部キャンパスに移ることになる。2学年に進級すれば完全に医学部キャンパスに引きこもることになるだろう。


 こっちに足を踏み入れると、気分が引き締まる。緊張感というのだろうか。周りの先輩方は医学部という場所で研磨してきた方々とだけあって纏っている雰囲気が常人のそれとは異なる。ついつい憧れの眼差しを送っちゃうよね。


 この時期、夏休みボケが抜けなくてサボり気味になる学生が増えるらしいので、私もそうならぬよう気をつけなくては。

 少し早いけど、講堂に入って予習でもしよう。


 意気揚々と医学部キャンパスを突っ切っていると、どこからか人の言い争う声が聞こえてきた。


「梶井くん待って! 私っあなたの子を妊娠してるの!」


 まさかの修羅場である。

 妊娠っておいおい……


 騒ぎの渦中となっているのは医学部キャンパスの中庭だった。そこで見覚えのある同級生が女の子に縋られていた。

 あんまりいい印象のない相手だからやけに記憶に残ってるんだな。

 男の方は、オリエンテーションで公立校出身の私を態度で小馬鹿にしていた奴。

 女の方は、医学部インカレサークルで私の悪口を一緒になって吐き捨てていたお嬢様大学の人だったから。


 どうやら婚活通りすぎて、妊活をしていたようだ。

 反応からして避妊失敗しちゃったパターンだろうけど。


「……はぁ? 言い掛かり止めてくんない? 他の男の子供だろ」

「そんな訳ないじゃない! 責任取ってよ!」


 そんな押し問答を繰り広げていた。誰の子かは調べたらわかることだろうに、往生際の悪い奴だ。医者志望なのにそんなこともわからないのかな。

 はたして、大学生で結婚出産ってのはどうなんだろう。外国はその辺緩いけど、日本はまだ偏見がきついからなぁ。

 ところで何故、医学部キャンパスで騒いでるのだろう。音信不通になったから押しかけたのかな。


 その時はまさに他人事のように眺めていた。周りの人も同様だったから。

 だって他人の痴話喧嘩だし、妊娠となると口だししにくい話題じゃない。せいぜい事務局の人を呼んで、場所を移動させるくらいしかないかな。私はキャンパス内にある事務局のある方角に視線を向け、足を運ぼうと踵を返した。

 ──が、「グゥッ」と女の子の呻き声が聞こえて、私の足はぴたりと止まった。


 嫌な予感がした。

 バッと首を元の位置へ戻すと、さっきまで男子学生の腕に縋り付いていた女の子が地面に膝をついてお腹を押さえていた。

 男子学生は拳を握ったまま、冷めた目で女の子を見下ろしている。


 周りで見ていた学生達は目の前で起きたことが信じられないとばかりに目を見開いて固まっていた。


「ど、どうして……」


 女の子は今にも泣きそうな声で聞いた。はぁはぁと苦しそうに息をするその姿は危険な状態に見える。


「お前が勝手に股を開いて来たんだろうが。中に出してないんだから妊娠するかよバァカ」


 医学部ではこんな噂が流れている。

 医者になってはいけない、ヤバイやつが学年に一人はいると──……あいつ、女の子のお腹を殴ったんだ。


「ちょっとあんた! やめなさいよ!」


 こいつ馬鹿じゃないの!?

 性交渉した時点で妊娠する確率はあるのに、ばっかじゃないの!?


 これ以上女の子に暴力を振るわせないよう、私は間に入って男子学生を突き飛ばした。


「なんだよ、無関係の奴が出てこないでくんない?」

「妊娠の可能性のある女性に暴力を振るう男から引きはがすのは当然でしょうが。あんたそれでも医者志望なの? 頭悪すぎてドン引きなんですけど」


 人に危害を加えておいて反省したそぶりもない。これぞまさしく医者になってはいけないタイプの人間だ。


「うっ……ああああああーっ!」

「! どうしたの!?」


 地面にしゃがみ込んでいた女の子が突然悲鳴を上げたので、彼女の容態を確認すると……

 彼女は苦悶に表情を歪め、お腹を抱えて石畳の上に転がっていた。


 どうした、なにがあった、どこが痛いんだ。

 パニクりながら彼女の全身状態を視覚で確認して……スカートの裾から覗く内ももに赤い筋が流れているのを目撃してしまった。

 鮮やかな赤。

 月経がきたのだと思えたら良かったけど、そうじゃない。痛がり方が尋常じゃない。


「あああーっ! いたぁあぃ!」

「誰か、婦人科専攻の方いませんか!」


 私は泣きそうだった。

 医学を全く習っていない1年の私の手には負えない。周りに大勢いる、医者の卵である先輩方に視線を向けて助けを求めると、そこからひとり男性が飛び出して来てくれた。

 婦人科系志望らしい先輩が女の子の症状を見て、ひと目で「まずいな、流産しかかっている」と診断を下した。


 その言葉に私は固まった。

 流産? ってことはやっぱり本当に妊娠していて、それを父親であるあの男が殺したってこと……?


「すぐに隣の大学病院に。処置をしなくては。痛みもひどいことだろう。誰かここへ担架を!」


 さすがは医学部というべきか。周りの反応はそこから一致団結したものだった。担架を持ってくるもの、隣の病院に連絡するもの、事務局へ報告へ行くもの……何もできずに助けを求めるだけの私とは大違いだった。


「ごめんね、ごめんね……」


 謝る声が聞こえてきたので視線を女の子へ戻すと、彼女はお腹を抱えてすすり泣いていた。

 痛くて堪らない状況で自身も危険な状態なのに、流産しかかっている赤ちゃんに謝っているのだ。


 私はそれを見て、悲しみと共にとてつもない怒りに襲われた。

 ぎりっと歯噛みした私はすっくと立ち上がると、何もせずに棒立ちしている男子学生を睨みあげた。


「何ぼーっと突っ立ってんだよ、この人殺し!」


 私の怒鳴り声はキャンパス内に反響した。

 焦るなり、青ざめるなりすればいいのに顔色ひとつ変えず、ぼーっと見ているこいつは何なんだ! 自分の子供を殺したんだぞ!? すこしくらい動揺を見せてもいいのになんだその反応! 信じられない!


「胎児は人間じゃない。だから俺が殺人罪で起訴されることはありえない」

「あんたねぇっ……!」


 法律を持ち出して自己保身をはかろうとするこの男をぶん殴りたくて仕方なくなった。私はぎりりと自分の拳を握りしめると、一歩前へ飛び出そうとした。


「──やめろ、君の立場がまずくなる」


 しかし次の瞬間身動きが取れなくなった。後ろから羽交い締めにされたのだ。

 誰だか知らんが止めてくれるな! じたばたしながらもがくが相手の方が力が強く、私は滑稽な動きをお披露目するだけだった。

 そんな私を、いかれた胎児殺しの男は鼻で笑って嘲笑していた。その態度に私の中の怒りはさらに加熱する。


「あんたは絶対に医者になっちゃいけないやつだ! 医学部から出て行け!」


 妊婦に危害を加えた時点でこいつは欠格者だ!

 仮に医師免許を取得したとしても、また人を傷つけようとするに違いない…!


「女のくせに意見するな! 女が医者になれるとでも思ってんのかよ!」


 ムカッとしたのか、相手が言い返してきた。

 確かに医学会はいまだに男性社会だ。世の中には女性医師もいるけど、その数は男性医師と比べて多くないし、妊娠出産子育てでキャリアを諦めて引退する人もいる。

 だけど、だからこそ、女性医師が必要とされている。

 確かに私たち女性は非力だ。男性と比べるとできないこともある。だけど女性だからこそできることもあるというものだ!


 そもそも、医者に男も女もないんだよ!


「だから何だ! 命を救う医者に男も女もあるか!!」


 私は怒鳴り返しながら再度暴れ出した。

 もー許さん! 一発殴らなきゃ気が済まない!


「こら、暴れるな!」


 後ろの人が窘めて来るけどそんなの知ったことか!


「私と同じ女を殴り、そのお腹に宿っていた命を奪ったあんたに何を言われても全く響かないね! 私は絶対に医師になって、少なくともあんたよりは患者を救ってやる!」


 パイプカットしろ!

 なんなら私が執刀してあげてもいいよ! もしかしたらすべて切り落とすかもしれないけどね!


 そう叫ぶと、後ろの人が私の口を手で塞いできた。

 何をするんだ! 邪魔をするな!!


 私はそのまま、ずりずりと後ろの人に引きずられてその場から引きはがされたのである。

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