格差社会というもの
医学部に入ったが、最初から専門教科を学ぶわけじゃない。1年生の間は高校時代の延長戦のような科目が組み込まれ、一般教養、体育などと他の学部生と授業を一緒に受ける形である。
この1年間は、医療従事者になる前に1人の人間として理解しておかなくてはならないことを学習するのだ。
授業が組み込まれていない時間枠は選択科目を選べる。
外国語で英語は必須になる。第二、第三言語は好きな言語を選べるので、私はドイツ語とラテン語を選んだ。
語学に関しては小学校時代から外国語教室で英語、中学からはドイツ語を独学で学習してきた。昔は医学部ではドイツ語が必修だったらしいけど、今は英語の方が重要視されているそうだ。
それでも医学の勉強をするに当たって、ドイツ語やラテン語がわかるといろいろと便利なので、私はそちらも選択した。
必修科目の単位を確保するためにも、選択科目に力を入れるのは難しいだろうが、自分のキャパシティの限界まで学べたらいいなって考えている。
ちなみに単位を落としたら即留年だ。他の学部なら翌年に持ち越して再履修できるものもあるが、医学部はどんどん必修科目が増えて行くので、翌年で挽回というのはなかなか難しいものがあると最初のオリエンテーションで説明された。
特に2学年次はハードになるから、1年のうちにクリアしておいた方がいいと警告された。
わざわざ警告してくれたということは、毎年留年者が出ているってことなんだろう。
他にも実習が義務づけられていて介護福祉施設へ訪問して、体験学習をさせてもらうこともあった。もちろん、事前に介護やお年寄りに多い病気を学習したり、救命講習などを受講してからお伺いする。
介護福祉施設での実習はけっこう勉強になることも多くて、積極的に質問した。日本の高齢化社会による医学的な問題についていろいろと考えさせられることもあった。
高校では体験できない、学習できない事がたくさん学べる大学生活。
世間一般の大学生のようにキラキラはしていない、勉強漬けな毎日を送っている私だったけど、個人的にはとても充実した毎日を送っていた。
他の学部の生徒と同じ講義を受講するので、顔見知りになって会話することも増えた。むしろ医学部よりも外の学部の友人の方が多い気がしてきた。
医学部にも同じ女性で、会えば話すこともある相手ができたんだけど、なんというか、ヒエラルキー的なものを感じるというかなんというか……
「あ、森宮さん、ドイツ語のノートありがとう」
「どういたしまして」
ふわふわのフレアスカートを揺らして穏やかに微笑む女性が私のノートを返してきた。私はそれにペコッと頭を下げて恭しく受けとる。
「森宮さんは本当に勉強家なのね。こんなに綺麗に書き込まれたノートはじめて見たわ」
「いやいや、けっこう殴り書きな部分が多いと思うから……読めないところがあったらゴメンね」
「そんなことないわ。本当に助かる」
いま私とお話しているのは、同じ医学科1年の廣木琴乃さんだ。
気が合うから仲がいいとかそういうわけじゃないけど、私たちが所属するのは女性比率の少ない医学科なこともあるし、一緒の実習班に入ったときに話すこともあってそれでノートの貸し借りをする仲になったのだ。
「でも廣木さんのお家ならお医者さんのお父さんがわかりやすいドイツ語の本を持っているんじゃない?」
「それが…父の書斎には実用書しか置かれていないの。お祖父様の持つものも時代が経ちすぎて、私には難しいものばかりだから……」
彼女は医師家系の3世で、そこはかとなく育ちのいいオーラがびしびし伝わって来るお嬢様だ。彼女のお父さんお祖父さんは開業医ではなくて、大病院に勤める勤務医らしいが、それでもお医者さんの娘って感じの特別な雰囲気があって、私はちょっと近寄りがたかったりする。
普通だったら友人にはなれない相手だけど、同じ医師を志す者同士なら話は別だ。
それに彼女は私が公立校出身だからとか、一般家庭出身の後ろ盾のない学生だからと差別的態度を取ることがなかった。ノートを貸してほしいとお願いしたときも丁寧にお願いされたし、礼儀正しい人だ。
もしも彼女が失礼な態度で私に接していたら絶対に貸してあげなかっただろう。医学部全体の最初の印象が悪すぎて警戒しまくっていたけど、まともな人はいるにはいるとわかって安心した。
今はパソコンとかタブレットを駆使して学習する人が多いけど、私は手書きの方が覚えやすい人間なので、学習の際は書き込み方式を採用している。
だからなのか、廣木さんもスマホ撮影ではなく、図書館の隅にあるコピー機でわざわざ印刷してきたらしい。学生証を使えば限度枚数まで印刷できるから使えるなら使っておいた方が得だと。
「タブレットも便利なんだけど、勉強するなら紙の方が頭に入ってくるの」
「わかる。ていうかタブレット学習は視力が悪くなるって言われてるから、常時使用は避けたいよね」
廣木さんと肩を並べて次の講義場所へ移動する。……だって私たちの時間割は決まっているから同じ講義を受けるんだもん。わざわざ別行動するのもおかしな話だし。
「──何か落ちたぞ」
後ろから呼びかけられて、私と廣木さんは立ち止まって振り返る。
背後にはプリントを持って、それをじっと凝視する眼鏡の男──そいつは、入学式と新歓サークルの時に遭遇したいけ好かない男であった。
彼が持っているのは、私のドイツ語のノートのコピーの束だ。
1枚目には、医学部で知り合った先輩が昨年度に受講したドイツ語講義のテキストやレジュメをお借りして、研究した内容と傾向と対策がぎっちりメモされており、2枚目以降は講義の内容がザーッと書かれている。
「あらいけない。久家くんどうもありがとう」
廣木さんははっとして眼鏡男からコピー束を受け取るとホッとした顔をしていた。教材を抱えている手元から滑り落ちてプリントを落としていたみたいだ。廣木さんはそれを大きめのトートバッグにしまっていた。
「お待たせしてごめんなさい、森宮さん……そういえば今日は、お友達とは一緒じゃないのね?」
「市脇さんのこと? 彼女は次の講義から参加するよ。彼女は苦学生だから、選択科目はある程度セーブして、空き時間はバイトで学費を稼がなきゃいけないんだよ」
「そうなの……大変そうね」
大学になると奨学金とバイトで通う学生の数が格段と上がる。なので選択授業はそこそこに空き時間にバイトして稼ぐ学生もちょいちょい存在する。
こういう話題が出てくると、人によっては失礼なことを言う場面だけど、廣木さんはその辺弁えているみたいだ。失礼にならないよう発言を控えている。実は私、彼女のそういう思慮深いところに好感を持っている。
話に出てきた市脇さんというのは医学部でいま私と一番親しい女子学生だ。
同じ一般家庭出身で、特待生の私と違うのは彼女は一般入学をしており、奨学金を借りた上で、さらにバイトして学費を稼ぐ苦学生というところだ。
ボンボンが多い医学部の中で金銭感覚が似ている彼女と私は自然と親しくなり、同じ講義の際は一緒に行動することも少なくない。
市脇さんは医学部への進学を親に反対され、就職をしろと言われていたそうだが、優秀な人材をこのままにしておくのはもったいないと言う高校の担任の先生の口添えもあって、大学に関わる出費は学費から学用品その他諸々、全て自分で出すことを条件にようやく進学を許してもらえたそうなのだ。
世の中には学費は親が出して当然という考えの人がたまにいるが、それは勘違いである。ない袖は振れないと言うものだ。
誰も彼もが子供の進路に賛成してくれるわけじゃない。そうなれば自分でなんとかするしかない、そんな立場の人もいるのである。
……そして市脇さんは、この廣木さんを苦手としている。
私の想像にはなるけど、多分コンプレックスが刺激されるから、隣にいたくないんだろうなって。嫉妬する自分が醜く見えて余計に虚しくなるって奴だ。
もしも私が市脇さんの立場なら同じ事を考えていたので、そんな彼女を軽蔑できない。大学にいると格差と言うものをありありと見せつけられる気がする。
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