森宮莉子は振り向かない。
スズキアカネ
目標はお医者さんになること。
医師を夢見た女の子
子供の頃、無謀な遊び方をしたせいで私は大怪我をした。木登りをして飛び降りた拍子に、鋭い枝でざっくり太モモを切って大出血を起こしたのだ。
すぐに現役看護師であるお母さんが冷静に応急処置をして、そのまま病院へ連れていってくれた。
『こんにちは、ちょっと傷口見せてくれるかな?』
診察室に通された私の患部を観察したお医者さんは泣きじゃくる私に優しく語りかけてきた。
『うん、正しい応急処置をされてるね。これならすぐに縫合してしまえば傷痕も目立たなくなるだろう』
『…お母さんが看護師さんです』
小さな声でお母さんの職業を告げるとお医者さんは小さく笑っていた。
『そうだったのかい。お嬢ちゃんも大きくなったら看護師さんになるのかな?』
私を怖がらせないように話しかけながらお医者さんは手を動かす。
お医者さんが手際よく縫ってくれた傷口はあっという間に糸で固定された。滑らかなその手さばきが魔法のようで、私は泣くことを忘れてそれを凝視していた。
『縫うのは痛いのに、騒がなくて偉いね』
大きな手に頭を撫でられた私はきっと目をキラキラさせていたに違いない。
カッコイイ。
お医者さんって魔法が使えるんだ。
──幼い私は、看護師である母ではなく、傷口を縫ってくれたお医者さんに憧れた。
『わたし、大きくなったらお医者さんになる!』
幼い子供だった私の決意表明に両親は笑わなかった。
『莉子が真剣なら、お父さんもお母さんも協力するよ』
『だけど一度決めたことを途中であきらめたらダメよ? たくさんたくさん勉強しなきゃいけないんだからね。それこそお友達と遊ぶ時間もなくなるくらいに』
前向き姿勢のお父さんとは違って、お母さんはシビアに答えた。
看護師である彼女の方が医療の世界の現実を知っているからだろう。だけど私は真面目に向き合ってくれたその姿勢が嬉しかった。
『それでもやる! わたしはたくさんの患者さんを救うお医者さんになるの!』
私の意志を尊重してくれた両親は祖父母を巻き込んで、全力で私の夢を応援してくれた。祖父母たちも我が一族に女性医師が誕生するやも! とはしゃぎ、できる限りのサポートをしてくれた。
それはプレッシャーにはならず、私の背中を後押しするエールとなった。
◆◇◆
私は今まで言われるがままにやっていた勉強を本気で取り組むようになった。
両親はそんな私に向かって勉強しろと圧力をかけてくることはなかった。全ては私の意志に任せる、そんなスタンスだった。
その頃からもうすでに私は進学計画を立てていた。
出来る事なら国立大学の医学部を目指したい。しかし万が一、私立にしか合格しなかったときの場合のことを考える。そうなると学費が尋常じゃない額になってしまうのだ。
6年制の私立医大の学費は中古マンションが一室買えるくらい高い。一般家庭にホイホイ出せる金額じゃない。
しかも私には4つ下の妹がいるので、大学在学期間が被ってしまうのだ。そのへんを計算に入れなくては家族みんなが苦しむことになる。
だから私はそれを回避する方法を模索していた。
無利子の第一種奨学金の受給条件を調べて、ひとりうむむと唸っていると、見つけてしまったのだ。
上位の成績優秀者の学費免除してくれる特待生制度という素晴らしいものを。
医学部の学費は莫大なものなのに、6年間の学費全免除というのはとてもありがたい。
これなら家庭の年収に縛られることがない。家計に極力負担をかけない手段はこれしかない。
そう思った。
夢は叶えたい。だけど必要以上に家族へ負担を与えたくない。
なんとしても、医学部に合格して、学費免除の座を手に入れたい。
私にできるのは勉強して実力をつけること、ただひとつだった。
順位というものが顕著になったのは中学校の時。
中学の時は成績カードに順位が表示されるだけで、成績順はオープンには公表されなかったけど、ふつーにみんなの前で先生達が私を褒めて来るものだから私が学年トップなことが公然の秘密となっていた。
年頃の女の子達がオシャレだったり彼氏に夢中になる姿を尻目に私は学業に没頭した。
新作の化粧品を使用するより、新しい知識を吸収する方が好き。
男の子と出かけるよりも、図書館に引きこもる方がよほど有意義。
友達と買い食いとかショッピングにも行かないものだから、莉子は付き合いが悪い、会話がつまらないと批難されることもあったけど、そんな雑音に耳を傾けている暇などなかった。
特に中学時代はグループ内のみんな同じじゃないと仲間外れにされやすかった。だから私がハブられるのは自然なことで。自分が世間一般の女子とは価値観や考え方が異なっているのはわかっていた。だけど私はそれに合わせるつもりはなかった。
小学校までは親しかったのに、中学になって疎遠になってしまった友達も少なくない。
仕方ない。私は自分の道を曲げることはしたくなかった。
寂しさがなかったかと言えば嘘になるけど、それを見ないふりして私は勉学に励んだ。
高校は県内で一番の公立進学校の特進科に進んだ。
先輩にお願いして譲ってもらった過去の問題用紙を参考に出題傾向を研究して試験対策ノートを作成した私は、それで3年間特進科首席を維持してきた。
中学の時も同じように対策を練っていたが、我ながらあのノートはうまくできていると自負している。
高校では上位100位までの順位表が掲示板に張り出され、生徒たちの競争心を煽る方式が取られていた。
『今回の試験も森宮莉子君が1位だった。この調子で頑張るように』
先生方からの覚えも目出度く、毎回順位表に1番に名前を飾る私は周りから注目を受けるようになった。
私の通う高校は進学校。みんないい大学を目指して日々学んでいた。
順位争いに水面下でピリピリする彼らにとって私の存在は脅威だったのだろう。
周りからの視線は中学の時とは違って、焦りや嫉妬に満ちたものだった。時折八つ当たりのようなものをぶつけられる事もあったけど、私はその雑音をシャットアウトした。
次第にそんな雑音も学年を上がるごとに鳴りをひそめていく。
2学年に進級するときに、成績不良で普通科に転科することになった元クラスメイト達の姿を見てしまったからだろうか。人はそれを島流しと揶揄していた。
周りはみんなライバルで、いつも殺伐としている特進科。
転落すれば普通科行き。
それを恐れていた同級生達は、周りにおいて行かれぬよう必死に机にかじりついていた。
みんないい大学に入って、いい就職先に就くためにこの特進科にいる。やることは一つだ。
うるさかった一部の人間も、私のことを妬んでも成績が上がることはないと学んだのだろう。
私は休み時間も常に勉強していた。塾はもちろん、通学時も在宅時も休日もずっと勉強していた。学校以外の勉強も進んで行っていたし──もはや勉強が趣味になりつつあった。
学校行事は必要に応じて参加したけど、一切熱中はしなかった。文化祭の後夜祭とかつまんなくて途中でフケたイベントもある。正直、高校のイベントでの思い出はあまり無いかもしれない。
中高ともに部活にも入らず、委員会にも参加しなかった。課外活動が評価につながるとは理解していたが、そんなことしている暇があれば勉強がしたかった私は、誘いを受けてもきっぱりお断りした。
もちろん、彼氏なんてものは存在したことはないし、誰かを好きになったこともない。甘酸っぱい青春なんて知らない。
私の恋人は勉強だと断言してもいい。
医大進学に向けて私が目指したのは、特待奨学生1種。入学金そして医学部在学6年間の学費、施設利用料その他諸々が無料になる枠。
定員2名の狭き門を突破すべく、試験の日まで追い込みをかけ……私は見事その枠を勝ち取ったのである。
家のパソコンでWeb合格発表を見た私は、夜勤明けで寝ていたお母さんの寝室に飛び込み、抱き着いて大泣きしてしまった。
お母さんも寝ぼけ半分ながらも祝福してくれた。仕事や学校から帰宅してきた妹や父も同様だ。その日はクリスマスパーティみたいにお祝いしてもらった。
ちなみに特待生になったから安心というわけではない。大学卒業まで成績を維持しなくては特待生資格を失うことがあるので、これがゴールではないのだ。これからスタートなのだ。
それでも私は夢にまた一歩近づいた。
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