妖霊忌憚

白菊

在りし日

男の出生

 陽光を浴びながら、椿が雪の重みに耐えかねて真紅の花をひとつ落とした。

 女は深い疲労に身を沈めながら、神仏を脅迫した。

 もしも息子が死ぬようなことがあれば、私は世を破滅に導く悪霊になろう!

 赤子は冬のやわらかな陽光を求めてついに母體ぼたいからとりあげられたとき、声をあげなかった。ちいさな赤いからだで空気の中から酸素を選びとるのが精一杯であった。

 女は蒲団に横たわったまま、天井を見つめて視界を滲ませる目許の熱に気づかぬふりをした。

 泣いてなるものか。ああ、そうさ、あの子はきっと、じきにかわいい声を聞かせてくれることだろう。そうだとも、そうだとも。

 はじめて産んだ赤子は肺を病んで死んだ夫の欠けらである、決して失うことにはいかなかった。

 「手は尽くしますがね」初老の男のしわがれた声はため息のようだった。

 女は疲労した體を跳ね起こして、濡れた目の玉を落としそうなまでに鋭く男を睨んだ。「手は尽くすが、なんだって、え? あの子の死ぬのを覚悟しておけとでもいうのかえ!」そばにいた産婆が女の肩に手をおいた。女は汗に湿った——青みがかった黒の——髪を振り乱して産婆の手を振り払った。「ふざけたことをかすな! ふざけたことを吐かすな、いいか、私の子に万一のことがあれば、私の怨恨は手前の心身に真黒な根を張り、手前を必ずや奈落の底へ引き摺り込むぞ!」

 産婆は改めて女の肩に手を置いた。「まあ落ち着きなさい。赤子は強いものですよ」

 男に向けられていた視線がそのまま産婆に向いた。「落ち着け? 子どもの声のひとつも聞かぬうちに落ち着けと? 莫迦な! 落ち着けというのなら、早くあの子の声を聞かせておくんな! そうだ、今すぐにだよ!」

 産婆はそっと微笑した。「赤子は強いものです、すぐに元気に泣きだし、その腕にかわいいぬくみと重みを抱かせてくれることでしょう。赤子の力をあまり疑っては身體からだに障ります」

 女は蒲団に倒れて初老の男を睨んだ。「あの子を救え、手前が手前を医者というのなら! もなくば、私はきっと手前を奈落の底へ引き摺り込むぞ!」

 こうも凄まれては男も丁寧に辞儀をするよりほかにない。


 男は一度はあきらめた赤子の恢復かいふくのために尽力した。五十三歳、生まれた頃に関することよりも来世に関することの想像の方がより鮮明であるような歳になったが、女の怨霊に地獄へ堕とされたのではたまらない。これまで生きてきた中で信じたためしのない、まじないとやらにまで手を出した。効果を信じようとうたぐろうと、赤子の命をあきらめることと距離をおいた方法のすべてを試した。赤子が死ねば自分も死ぬのである、それはもう死に物狂いで処置にあたった。

 これには天も苦笑したことであろう。赤子は快方に向かった。女は夫の欠けらの温みと重みとを、腕に胸に抱いた。男は安堵したがあんまりに力が抜けたので、むしろそれまでの緊張の中でこそ生きていたように感ぜられた。


 赤子はおおきな後遺症を持つこともなく、ごく健康に育った。しかし少年期、この赤子は周りの子どもから揶揄いを受けることになった。其奴そやつらを嫌厭きらうちに人間の全体を嫌厭うことになるのであるが、どうかすると、その人間を嫌厭うということ、それこそがこのときの後遺症であるのかもしれない。

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