遺書は捨てても蘇る

円藤飛鳥

遺書は捨てても蘇る

 黒見雫が死んでいた。ドアノブで首を吊り、顔が青白くなっている。舌が伸びきっていた。

 僕ら三人は顔を見合わせた。誰も何も言わない。何か言葉を発したら、すべての責任を負わさかねない。そんな空気を感じていた。

 最初に口を開いたのは速水ケンタだった。

「本当に死んでるのか、これ? ドッキリじゃねえか?」

 ケンタは、がっつりとした体形のスポーツマンで顔は二枚目だった。いつも表情に余裕を浮かべているが、今は口の端を引きつらせていた。

 沢森あかねが眉を吊り上げる。

「どう見ても死んでるでしょ。今、そういうのいいから。マジで笑えないから」

「別に笑わせようと思ってねえよ」

「なら黙ってなよ」

 あかねはセミロングの髪を茶色に染めている。顔の造形は整っているが、目尻が吊り上がっていて、気の強そうな印象を受ける。実際、その通りの性格をしているのだが、今はいつも以上に刺々しさを剥き出しにしていた。

 僕は二人から視線を逸らした。呼吸に意識を集中すると、やや粗くなっていることに気づいた。落ち着け、と自分に言い聞かせてから口を開く。

「警察と救急車を呼ぼう」

 二人がこちらを向く。

 あかねは腕を組み、むすっとしていた。

 ケンタは口をもごもごとさせている。何か反論があるのかもしれない。しかし、咄嗟には出てこないようだった。

 二人の気持ちはわかる。この状況を作り出したのは僕達だ。警察を介入させたら、責任を問われる可能性がある。

 しかし、隠蔽は現実的ではなかった。

 ケンタが肩を竦める。

「……そうだな、そうするしかない。だが、ちょっと待ってくれ」

「何を待つのよ」

 あかねが突っかかる。

「遺書を残しているかもしれないだろ。調べよう」

 三人で部屋とスマホの中を調べたが、遺書らしきものはなかった。

 自分のスマホを取り出す。そこでふと、視線を感じた。

 雫がこちらを見ていた。濁った瞳を向けられ、ぞくりとしたものを感じる。

 もとは長い黒髪の芋っぽい女だった。最近はあかねの影響で、垢ぬけてきていた。

 まさか、こんなことになるとは……。数ヶ月前は想像もしていなかった。

 雫をイジるようになったのは、彼女がオタクだと判明してからだった。高校時代、深夜アニメや女児向けアニメをたくさん見ていたらしい。セーラームーンのフィギュアを集めている、と自分から言い始めた。

 最初は、軽いイジリで済ませていた。しかし、ケンタが、執拗にオタクイジリをした際、雫が切れて「やめてよ!」と激しい拒絶を示した。場はしらけた。そのことに気を悪くしたケンタが、事あるごとに、雫とオタクを結び付け、馬鹿にする発言を繰り返した。

 僕らのグループは、ケンタを中心に回っていた。ケンタは体育会系のイケメンで、常に皆の中心だった。多少喧嘩っ早いところはあるが、信頼のおける奴だ。僕とケンタの出会いは大学からだが、思想が一致していて、すぐに仲良くなれた。あかねも、ケンタにつんけんしているように見え、実は気があるのだ。だから僕とあかねはケンタ側についた。三人で雫をイジることが増えた。

 しかし僕は、二週間前からイジることをやめていた。これ以上は、完全なイジメになると思ったからだ。

 雫に声を掛け、「自分は二人のようなことはしないから」と言った。たぶん、心強く感じてもらえていただろう。

 昨夜も二人は案の定、雫を笑いものにした。

「家族が可哀想だな。お前なんかを生んじまって」

 ケンタの言葉に、あかねがくすくすと笑う。雫は困ったような笑みを浮かべていた。

 雑談が終わり、部屋に戻ろうとする雫を捕まえ、「僕だけは味方だから」と伝えておいた。

 あれだけでは足らなかったのだ。もっと味方であることを示すべきだった。

 しかし、今更後悔しても遅い。生きている僕らの身の振り方を考えるべきだ。

 雫から視線を逸らして廊下に出て、ラウンジに足を運ぶ。二人が遅れて着いてきた。

 雫の目のないところで通報したかったのだ。

 ふと、テーブルの上に白い便箋が置かれていることに気づいた。

 昨夜はこんなもの置かれていなかったはずだ。

 近づいて中身を取り出す。A4サイズの紙が数枚入っていた。一枚目に書かれた文章を読む。


『私、黒見雫は、これから首を吊って死にます。速水ケンタ、沢森あかね、春木友則の三名から精神的な攻撃(イジメ)を受け、立ち直れなくなったからです。尊厳を踏みにじられ、生きていくことが辛くなりました。二枚目以降、彼らに何をされたか、記していこうと思います』


 全員で顔を見合わせた。ケンタは眉を顰め、あかねは無表情だ。

 理解不能だった。

 遺書が書かれていたことに対して言っているのではない。

 なぜ僕の名前まで書かれているのか。

 雫をイジメていたのは、ケンタとあかねの二人だ。僕は味方と伝えていたはずだ。

 以降の紙には、僕ら三人に対しての恨みつらみが書かれてあった。僕に対して、雫はこう思っていたらしい。味方のふりをして陥れようとする卑劣な奴。

 歪んでいる。そう思った。そうなってしまうほど辛く感じていたのかもしれないが、これはあまりに酷い。酷すぎる。

「処分するか?」

 ケンタが言った。返事を聞く前にキッチンに足を運んだ。

 僕達は遺書を燃やした。燃えカスは回収し、近くの川に流した。


 ▼


 ケンタの別荘で雫が死んだ。当然、その話は大学全体に広まった。様々な憶測を生んだが、ケンタは交友関係が広く信頼されているので、すぐに噂は収まった。官僚の息子であることも有利に働いた理由の一つだろう。

 警察に事情聴取を受けた時は不安だったが、全員で切り抜けることができた。僕らが自殺に関与した証拠は何一つ出てこなかったのだ。

 胸は痛むが、人生は長い。雫のことは、ちょっとした事故と考えることにした。

 四月中旬、雫の葬式が開かれた。僕らは三人で参列した。会場には、雫の笑顔の写真が飾られていた。

 つつがなく葬儀は終了した。

 三人で帰ろうとしたところで、雫の母親に声を掛けられた。目が虚ろで、がりがりにやせ細っていた。

「ありがとね、最後まで雫の友達でいてくれて」

「いえ、そんなこと……。当然ですよ」

 あかねが恐縮しながら言う。

「雫の最後を看取ってくれたんでしょ?」

 実際は死体を見ただけだ。しかし、雫の母親の中では、そうなっているらしい。

「雫は友達に見送られて幸せだったはずよ」

 いたたまれなさから視線を逸らす。ケンタも同じ気持ちだったらしい。床に目を落していた。あかねだけが真っ直ぐ雫の母親を見つめていた。

「実はね、雫、高校時代イジメられていたのよ」

「え、そうなんですか?」

「ほとんど不登校みたいになってた。趣味に打ち込むことで、精神を安定させてたの。友達なんていらない、アニメだけあればいいって言ってたのよ。だから、あなた達に会えて幸せだったと思うわ。初めて心から信頼できる友達に出会えた、って電話してくれたわ」

 僕は手をこすり合わせた。じんわりと背中に汗が滲んでいくのを感じた。

 雫の母親は微笑んだ。虚ろな目で続ける。

「でも、どうしても許せないのよね。雫と同じ目に遭うべきだわ」

「え?」

 理解できなくて思考が停止する。

 雫の母親は微笑んだ。

「イジメてた連中よ。あいつらにされたことの心の傷が完全に癒えてなかったのよ。だから雫は死んだ。そうよ、そうに決まっているわ」

 ぶつぶつと恨み言を呟く。完全に僕達を見ていなかった。背中に氷を当てられたような感覚に苛まれる。

「お母さん、ちょっと……」

 ハーフツインの女の子が近づいてきた。雫の妹・司だ。

「すみません、いろいろとご迷惑をおかけして」

 反応に困り、僕らは顔を見合わせた。

 司は僕達を凝視した。

「お姉ちゃんが自殺した理由に何か心当たりはありませんか?」

 疑うような目つきだった。

 雫の死体を思い出す。

 彼女の死体と一緒だった。嫌な目をしている。

「し、知りません、な、何も」

 口が回らなかった。動揺は二人にも伝播した。全員でよくわからないことを話してしまう。

「そうですか」

 司は感情の読めない顔で頷いた。


 三日後、雫の母親が逮捕された。

 娘の元同級生二人を刺し殺したのだ。


 ▼

 

 雫の話題は禁忌と化した。わざわざ最悪の思い出を、語ろうという気にはなれなかったのだ。

 半年が過ぎ、ようやく雫のことを忘れかけていた頃。

 あかねが青白い顔をして告げた。

「最近、つけられているの」

「誰にだよ」

 ケンタが興味なさそうに訊く。

 ケンタは雫の事件以降、サボりがちだったサッカー部に顔を出すようになった。今ではレギュラーで副キャプテンをしているという。

 一方、僕は新しく後輩の彼女を作っていた。それなりに幸せな日々を送っている。

 あかねは溜息交じりに言った。

「雫の妹よ」

 沈黙が落ちた。

 雫の名前は禁句ワードだ。しかし、事態が事態だった。

「本当なの、それ?」

 僕が訊くと、あかねは眉を吊り上げた。

「嘘つくわけないでしょ。つまらない質問しないで」

「なぜそんなことをされてるんだよ?」

「知らないわよ。向こうは、ただ黙ってついてくるだけ」

「聞けばいいじゃねえか。何のご用ですか、って」

 ケンタがスナック菓子に手をつけながら言う。

「あんただったら訊けるわけ? じゃあ、私の代わりに訊いきてよ」

「怒るなって……」

 二人のやりとりを聞きながら、僕は焦燥感に駆られた。嫌な予感がしたのだ。

 数日後、彼女とデートをしていたら視線を感じた。振り返ると、制服姿の女の子が後ろを歩いていた。司だった。葬式で会った時より大人びて見えた。表情を観察して、ぞわっとした。感情の色が何一つ見えなかったからだ。

 結局、その日は一日中つけ回された。

 それ以降も、つけ回しは継続され、他の二人も同じような被害に遭った。

「司ちゃんのこと、どうしたらいいと思う?」

 大学の食堂で僕ら三人は小声で話し合った。

「どうするもこうするも……無視するしかねえんじゃねえか」

 ケンタが言う。目が充血していた。ストレスのせいか、単なる寝不足か、判断はつかないが、良好な健康状態とは言えなかった。それは僕ら二人にも同じことが言える。

「もう嫌……」

 あかねが言った。憔悴しきった顔をしている。

「雫のことを、イジメなければよかったのよ……」

「おい!」

 ケンタが声を荒げる。

「今更、そんなこと言っても遅いだろうが。終わったことをぐちぐち言うな」

「でも、私達のせいで、三人が死んだ。妹もおかしくなってる」

「俺達は悪くねえ。ちょっとしたイジリで死ぬ奴がおかしいんだ。あんなの、社会でやっていけるわけなかった。メンタルがもろ過ぎる。俺達はきっかけに過ぎない。遅かれ早かれ、あいつは自殺してたよ」

 ケンタは声を潜めて言った。目がぎらついている。反論は一切許さない。そう告げているようだった。

「そんなの、自分を正当化したいだけでしょ!」

 あかねが大声を出す。周囲の視線が集まった。

「わ、私はもう無理よ! 耐えられない! だから、全部ぶちまける。真実を言う。妹さんに本当のことを言うわ」

「落ち着きなって」

 僕は慌てて立ち上がった。肩に手を置こうとする。

「触らないで! 一番気に食わないのはあんたよ! あんた、自分は被害者側だと思ってるでしょ! 知ってるのよ!」

「そんなことない」

「もういい! あんたらとは終わりよ! 全部ここでぶちまけてやる!」

 ケンタが席を立った。拳を振り上げ、あかねの頬をぶった。あかねは床に倒れ、背中を丸めてむせび泣いてしまう。

 人が人を殴るところをリアルに見るのは初めてだった。唖然とする。

 悲鳴があがった。

 ケンタは落ち着いた動作で、あかねに近寄った。髪を掴み、頭を持ち上げる。耳元で何かを囁いた。あかねは泣き止んだ。唇を震わせ、視線をあちこちに向けている。感情の処理が追い付ていないように見えた。

 警備員がやって来る。

 僕が事情を説明した。雫の名前を伏せ、単なる喧嘩だと伝えた。


 ▼


 あかねはおかしくなった。常に人目を気にしながら背中を丸めて行動するようになった。ケンタが殴り、何かを囁いたせいだろう。

 相変わらず、司は僕らをつけ回した。いい加減、こちらから、何かアクションを起こすべきではないか。ケンタに相談したが「放っておけ」と一蹴された。吹っ切れたのかもしれない。あかねに暴行を働いた後、ケンタはサッカー部は退部した。今は女遊びに明け暮れている。

 僕は後輩の彼女に別れを告げた。肉体の相性がよくなかったのだ。

 三年の春。大学近くのカフェに入ると、あかねが窓際の席に座っていた。何かを書いているようだった。心配になって近づく。

「なっ……」

 怖気が走った。

 雫の遺書とまったく同じことをA4の紙に書いていたのだ。

「あかね!」

 声を掛ける。しかしあかねは、遺書を書き続けた。

 ペンを奪い取る。

 あかねは、はっと我に返ったようだった。僕を見てから、慌てて紙を隠す。

「これは違うのよ」

「何が違うんだ?」

「私の意思じゃないの」

 彼女の言い分はこうだった。

 ここ一週間、ルーズリーフやノートに、雫の書いたものと全く同じ文を書いてしまうというのだ。まったく意識はなく、気づいたら文章ができあがっているという話だった。

「このことはケンタに言わないで……殺されるから……」

 懇願するような目で言われた。恐怖に震えていた。囁かれた内容を思い返しているのだろう。

「わかった。約束する」

 昔の、つんけんしていた頃のあかねとは別人のようだった。

 ふいに視線を感じて振り返る。入口近くの席に、司が座っていた。いつもの制服姿で、僕らを見つめている。その顔には、やはり感情の色がなかった。

 あかねの話が本当なら、まずい事態だ。約束を守れそうにない。

 僕は紙を奪い取り、くしゃくしゃに丸めると、ポケットの中に押し込んだ。



「あかねを殺そう」

 ケンタが言った。

 大学近くの公園だった。すでに日は沈みかけ、人気が無くなっている。

 僕は苦笑した。冗談だろ、と言い掛け、口を閉ざす。

 ケンタは目をぎらつかせていた。激しく貧乏ゆすりをしている。

「あかねはリスクだ。俺達の秘密がばれちまうぞ」

 僕は溜息交じりに言った。

「このままにしておくのは確かにリスクだ。でも、逆に言うと、チャンスでもあるんじゃないか」

「どういうことだよ?」

「頭が変になってるんだ。誰もあかねの言うことなんて信じない」

 ケンタは天を仰いだ。近くの電灯にたかった虫を眺める。

 ケンタは唇を歪めて言った。

「だが、信じる奴はいる、あのイカれた妹だ」

 確かに、彼女なら信じるだろう。

「遺書の文面を書いているってことは、暴かれたいってことだ。遅かれ早かれ、あかねは口を割る。このままにはしておけねえだろ」

「そうだけど……」

「お前」

 睨まれる。

 僕のことかと思った。しかし、違った。

 ケンタは立ち上がった。

「お前! 見てるだろ! そこのお前だよ! こっち来いや!」

 草むらに叫んだ。どう見ても、人影はない。

 僕は唖然とした。

 ケンタは腰を落とした。クソが、と呟く。

「最近、司が人を雇ってる。俺がなんでサッカー部を辞めたと思う? スパイがいたからだよ。一人じゃねえぞ。何人も。何人もいやがった。金を渡して懐柔したのか、それとも、元からスパイだったのか……どちらにしろ油断できねえ」

 視線が合う。

 肌が粟立った。

 雫の死体と一緒の目をしていた。濁った目に覗き込まれ、肝が冷える。

「お前、大丈夫だよな?」

「え」

「スパイじゃないよな?」

 ポケットから何かを取り出す。街灯に照らされ、鈍く光っていた。サバイバルナイフだと気づき、血の気が引いてくのを感じた。

「そ、そんなわけないって」 

「だよな。なら、それを証明しないとな。明日、あかねを始末する。一緒にやるぞ」

「それは……でも……」

 ナイフの切っ先を向けてくる。僕は頷いた。わかった、わかったから、と繰り返した。


 ▼


 逃げることを危惧したのだろう。お前の家に泊まる、と言われた。断れなかった。断ったら何をされるか、わからなかったからだ。

 眠れないまま一夜を過ごした。何度、逃げようと思ったか。朝になると、ケンタは大きく伸びをした。体調は良好のようだった。

 思い直してくれるかもしれない。そんな期待を持っていたが、「やるぞ」と言われた。

 二人であかねの家に向かった。郊外の小さな一戸建てだ。表札が出ている。

 ケンタがインターホンのチャイムを鳴らした。数分後、七十代ほどの老婆が姿を現した。ケンタが、あかねの部屋に通してくれと話をする。

 老婆は警戒心がなく、簡単にあげてくれた。ケンタは老婆も殺すのだろうか。激しい頭痛と吐き気に襲われる。

 三人で足を進めた。廊下の突き当りの部屋のふすまを老婆が開ける。

 あかねがドアノブで首を吊っていた。白目を向き、犬のように舌を出している。

 黒見と同じ自殺方法だ。

 老婆が腰を抜かして倒れる。頭を打ったのか、ぴくりとも動かなくなった。

 僕らは老婆を無視して、あかねに近寄った。いろいろと試して、死んでいることを確認した。

 僕は内心、ほっとしていた。これでさまざまな厄介事から解放される。

 まずは遺書を探した。彼女のズボンのポケットから見つかった。便箋を開け、中身を読む。


『もう限界です。私達は許されないことをしました。沢森あかね、速水ケンタ、春木友則の三名で、黒見雫を自殺に追い込んだのです』


 だらだらと出来事が書き綴られていた。

 僕らは紙をびりびりに破き、トイレに流した。サバイバルナイフは指紋を拭い、戸棚の奥に隠した。警察と救急車を呼ぶ。

 老婆は無事だった。救急車が来てすぐ、目を覚ましたのだ。たんこぶ程度で済んだらしい。

 僕らは警察の事情聴取を受けた。前回より厳しくされた。二度同じような場面に遭遇しているから、疑いの目を向けられたのだろう。しかし、乗り切れた。

 ケンタの父が手を回してくれたのかもしれない。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。

 すべて終わった。

 僕らは生き残れたのだ。


 ▼


 大学四年の春。

 僕は月野うさぎという子と付き合った。これまで出会った中で最高の女性だった。美人で優しく頭がいいのだ。僕にはもったいない女性だった。

 僕は人をどこか見下し、常に自分が正しいという傲慢な考えを持っていた気がする。しかし、それは昔の話だ。うさぎとの交流を経て、自分の幼稚さに気づくことができた。

 うさぎと公園に出かけた。自然の中を歩く。ふいに視線を感じて振り返ると、司がいた。僕らを追いかけてきている。司は、僕らと同じ大学に進学していた。僕らに執着することで、家族を失った苦しみを埋めようとしているのだろう。

 二人でベンチに腰掛ける。

「ケンタくんとは最近会ってるの?」

「三日前に会ったよ」

 ケンタは出家して寺で生活している。権力者の父と絶縁して丸坊主となった。最初は気が狂ってしまったのかと思ったが、彼は彼なりに、雫の件と向き合い、現実と格闘しているのだ。あの欲まみれだったケンタが、寺の生活に順応できるとは最初、到底思えなかった。しかし、一歩ずつ前に進み、今では住職の信頼を勝ち得ているらしい。

 僕らは成長している。過去の自分の過ちと向き合いながら。

「ストーカーさん、まだいるね」

 うさぎが言う。

「ま、いずれ飽きるんじゃないかな」

 うさぎには、雫の件を話していた。

 流石に刺激が強いので、脚色はしている。遺書を二度処分したことも話したが、どちらも、根も葉もないことを書かれていたから仕方なくやった、ということにしてある。

「そういえば、ちょっと気になったことがあるんだ」

 うさぎが小首を傾げながら言う。彼女の耳につけられた長いイヤリングが風に揺れる。

「何かな?」

「告発系の遺書って普通、加害者の人に読ませないようにするよね。処分される可能性が高いから。でも、雫さんは、加害者の別荘で自殺して、その別荘の目立つところに遺書を置いた。それって変じゃない? 読まれたら処分されるに決まってるんだから」

 細かいことを気にするな、と思う。

「ま、確かに変かもね。ただ、被害妄想で書かれた遺書だし、そんなの書いちゃうくらいおかしくなってたわけだから、整合性を気にする余裕はなかったんじゃないかな」

「なるほど~」

 うさぎは満面の笑みを浮かべた。

「でも、遺書を読んでみたら、ちゃんと整合性は取れてるんだよね。事実ばかりが書かれていた。裏どりしたから間違いないよ」

「……え?」

 困惑する。

 いったい何を言っているのか。

 うさぎは笑いながら言った。

「ケンタくん、毎日のように、雫さんの遺書を書いちゃうみたいなんだ。ほら、死んだ沢森あかねさん。彼女と同じ状態に陥ってるみたい。恐怖から逃れようと坊さんになろうとしているのに、ご愁傷様って感じだよね。処分したものを、こっそり読ませてもらったんだ」

 理解が追い付かなかった。え、な、と意味不明な言葉を繰り返してしまう。

「なんで?」

 ようやくまともな言葉を返せた。

「なんでって……。それは、気になったからだよ。わたし、好奇心が強いからね」

 うさぎは頬を染めて言った。楽しくて仕方ない、という顔だった。

 怖気が走った。

「わたし、実は探偵をしているんだ。司さんに雇われてるの。月野うさぎ、っていうのは偽名。雫さんの好きな漫画から取った名前なんだ」

「な、なにを言って……」

「あの時はびっくりしたな~。草むらに隠れてたら、ケンタくんに『そこのお前!』みたいに声を掛けられて。君も一緒にいたよね」

 そんな前から、僕達のことを調査していたのか……?

「これってどういう……」

 うさぎは立ち上がり、僕を見下ろす。

「正直、君らを法的に罰することは難しい。月の代わりにおしおきよ、ってことをしたかったんだけどね。でも、今回は超常的な何かが働いているっぽいから、わたしや司さんが手を下すまでもないかもしれないね」

「何を……」

「さっき、遺書をなぜ目立つところに置いていたのか、謎だって話をしたよね。私が思うに、あれは告発のための遺書じゃなかったんじゃないかな。君らに、遺書を隠蔽させるための罠だった」

「罠?」

「そう、罠。君らに罪悪感を植え付けるための罠であり呪いだった」

 呪い? 何を言っているんだ、この馬鹿女は。

 うさぎは頭がいいと思っていた。しかし、それは勘違いだったのだ。

 腸が煮えくり返る。なぜ自分は、こんな女を信用してしまったのか。

 うさぎを名乗る女は得意げに続けた。

「実際、あかねちゃんは罪悪感に押しつぶされて死んだ。今ケンタくんも罪悪感という呪いによって、壊れかけている」

 僕は握りこぶしを固めて言った。

「僕はあかねやケンタとは違う。罪悪感なんかに潰されるほど弱くない」

「君は罪悪感が一番薄いよね。他人に責任転嫁する能力が高いからかな。そのおかげか、かなり抗えた」

 でも、と続ける。

「そんな君もそろそろ限界みたいだ」

「なんだと?」

「ノート、読んでみないよ」

 心臓が早鐘を打った。全身から汗が噴き出る。

 鞄からノートを取り出した。適当なページを開く。

 絶句した。

 遺書が書かれていた。

 雫のもの、あかねのもの、交互に書かれている。ノートの半分以上が、遺書の文面で埋め尽くされていた。間違いなく僕の筆跡だった。

 ノートを投げ捨てる。あまりのおぞましさに、吐き気を覚えた。

「ぼ、僕はこんなの書いてないぞ……。仕込んだノートだろ……え?」

 うさぎの姿がなかった。司の姿も見当たらない。

 気づいたら、薄暗くなり、電灯がついていた。午後二時だったはずだ。何が起きているのか。

 さきほど投げたはずのノートが手元に戻っていた。さきほどよりノートを消費している。新たに遺書が書き込まれていた。

「うわあああ」

 気が狂いそうだった。

 雫が体を操っているのか?

 そんな馬鹿な……。

 でも、そうとしか考えられない。

 僕は立ち上がった。腹に力を込めて口を開く。

「雫! 僕は悪くないだろ! やめてくれ! 頼むから!」

 周囲の視線がこちらに向く。小学生たちがくすくすと笑った。高校生のカップルが、顔をしかめて僕から遠ざかった。スマホを向け、撮影してくる若者を、視界の端に捉える。

 見るな。僕を見るな。

 雫の死体を思い出す。

 彼女の目は、僕を責めていた。

 自分を今、狂おうとしている。しかし、まだ理性は残っていた。

 僕は雫から恨まれていた。イジメを止めなかったからだ。本気で味方になるつもりがなかったからだ。

 あの時に戻れたら、絶対に助ける。だから許してくれ。

 何度も心の中で訴えかける。

 同時に、理性は確信していた。

 もうすべて手遅れだということを。

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