遺書は捨てても蘇る
円藤飛鳥
遺書は捨てても蘇る
黒見雫が死んでいた。ドアノブで首を吊り、顔が青白くなっている。舌が伸びきっていた。
僕ら三人は顔を見合わせた。誰も何も言わない。何か言葉を発したら、すべての責任を負わさかねない。そんな空気を感じていた。
最初に口を開いたのは速水ケンタだった。
「本当に死んでるのか、これ? ドッキリじゃねえか?」
ケンタは、がっつりとした体形のスポーツマンで顔は二枚目だった。いつも表情に余裕を浮かべているが、今は口の端を引きつらせていた。
沢森あかねが眉を吊り上げる。
「どう見ても死んでるでしょ。今、そういうのいいから。マジで笑えないから」
「別に笑わせようと思ってねえよ」
「なら黙ってなよ」
あかねはセミロングの髪を茶色に染めている。顔の造形は整っているが、目尻が吊り上がっていて、気の強そうな印象を受ける。実際、その通りの性格をしているのだが、今はいつも以上に刺々しさを剥き出しにしていた。
僕は二人から視線を逸らした。呼吸に意識を集中すると、やや粗くなっていることに気づいた。落ち着け、と自分に言い聞かせてから口を開く。
「警察と救急車を呼ぼう」
二人がこちらを向く。
あかねは腕を組み、むすっとしていた。
ケンタは口をもごもごとさせている。何か反論があるのかもしれない。しかし、咄嗟には出てこないようだった。
二人の気持ちはわかる。この状況を作り出したのは僕達だ。警察を介入させたら、責任を問われる可能性がある。
しかし、隠蔽は現実的ではなかった。
ケンタが肩を竦める。
「……そうだな、そうするしかない。だが、ちょっと待ってくれ」
「何を待つのよ」
あかねが突っかかる。
「遺書を残しているかもしれないだろ。調べよう」
三人で部屋とスマホの中を調べたが、遺書らしきものはなかった。
自分のスマホを取り出す。そこでふと、視線を感じた。
雫がこちらを見ていた。濁った瞳を向けられ、ぞくりとしたものを感じる。
もとは長い黒髪の芋っぽい女だった。最近はあかねの影響で、垢ぬけてきていた。
まさか、こんなことになるとは……。数ヶ月前は想像もしていなかった。
雫をイジるようになったのは、彼女がオタクだと判明してからだった。高校時代、深夜アニメや女児向けアニメをたくさん見ていたらしい。セーラームーンのフィギュアを集めている、と自分から言い始めた。
最初は、軽いイジリで済ませていた。しかし、ケンタが、執拗にオタクイジリをした際、雫が切れて「やめてよ!」と激しい拒絶を示した。場はしらけた。そのことに気を悪くしたケンタが、事あるごとに、雫とオタクを結び付け、馬鹿にする発言を繰り返した。
僕らのグループは、ケンタを中心に回っていた。ケンタは体育会系のイケメンで、常に皆の中心だった。多少喧嘩っ早いところはあるが、信頼のおける奴だ。僕とケンタの出会いは大学からだが、思想が一致していて、すぐに仲良くなれた。あかねも、ケンタにつんけんしているように見え、実は気があるのだ。だから僕とあかねはケンタ側についた。三人で雫をイジることが増えた。
しかし僕は、二週間前からイジることをやめていた。これ以上は、完全なイジメになると思ったからだ。
雫に声を掛け、「自分は二人のようなことはしないから」と言った。たぶん、心強く感じてもらえていただろう。
昨夜も二人は案の定、雫を笑いものにした。
「家族が可哀想だな。お前なんかを生んじまって」
ケンタの言葉に、あかねがくすくすと笑う。雫は困ったような笑みを浮かべていた。
雑談が終わり、部屋に戻ろうとする雫を捕まえ、「僕だけは味方だから」と伝えておいた。
あれだけでは足らなかったのだ。もっと味方であることを示すべきだった。
しかし、今更後悔しても遅い。生きている僕らの身の振り方を考えるべきだ。
雫から視線を逸らして廊下に出て、ラウンジに足を運ぶ。二人が遅れて着いてきた。
雫の目のないところで通報したかったのだ。
ふと、テーブルの上に白い便箋が置かれていることに気づいた。
昨夜はこんなもの置かれていなかったはずだ。
近づいて中身を取り出す。A4サイズの紙が数枚入っていた。一枚目に書かれた文章を読む。
『私、黒見雫は、これから首を吊って死にます。速水ケンタ、沢森あかね、春木友則の三名から精神的な攻撃(イジメ)を受け、立ち直れなくなったからです。尊厳を踏みにじられ、生きていくことが辛くなりました。二枚目以降、彼らに何をされたか、記していこうと思います』
全員で顔を見合わせた。ケンタは眉を顰め、あかねは無表情だ。
理解不能だった。
遺書が書かれていたことに対して言っているのではない。
なぜ僕の名前まで書かれているのか。
雫をイジメていたのは、ケンタとあかねの二人だ。僕は味方と伝えていたはずだ。
以降の紙には、僕ら三人に対しての恨みつらみが書かれてあった。僕に対して、雫はこう思っていたらしい。味方のふりをして陥れようとする卑劣な奴。
歪んでいる。そう思った。そうなってしまうほど辛く感じていたのかもしれないが、これはあまりに酷い。酷すぎる。
「処分するか?」
ケンタが言った。返事を聞く前にキッチンに足を運んだ。
僕達は遺書を燃やした。燃えカスは回収し、近くの川に流した。
▼
ケンタの別荘で雫が死んだ。当然、その話は大学全体に広まった。様々な憶測を生んだが、ケンタは交友関係が広く信頼されているので、すぐに噂は収まった。官僚の息子であることも有利に働いた理由の一つだろう。
警察に事情聴取を受けた時は不安だったが、全員で切り抜けることができた。僕らが自殺に関与した証拠は何一つ出てこなかったのだ。
胸は痛むが、人生は長い。雫のことは、ちょっとした事故と考えることにした。
四月中旬、雫の葬式が開かれた。僕らは三人で参列した。会場には、雫の笑顔の写真が飾られていた。
つつがなく葬儀は終了した。
三人で帰ろうとしたところで、雫の母親に声を掛けられた。目が虚ろで、がりがりにやせ細っていた。
「ありがとね、最後まで雫の友達でいてくれて」
「いえ、そんなこと……。当然ですよ」
あかねが恐縮しながら言う。
「雫の最後を看取ってくれたんでしょ?」
実際は死体を見ただけだ。しかし、雫の母親の中では、そうなっているらしい。
「雫は友達に見送られて幸せだったはずよ」
いたたまれなさから視線を逸らす。ケンタも同じ気持ちだったらしい。床に目を落していた。あかねだけが真っ直ぐ雫の母親を見つめていた。
「実はね、雫、高校時代イジメられていたのよ」
「え、そうなんですか?」
「ほとんど不登校みたいになってた。趣味に打ち込むことで、精神を安定させてたの。友達なんていらない、アニメだけあればいいって言ってたのよ。だから、あなた達に会えて幸せだったと思うわ。初めて心から信頼できる友達に出会えた、って電話してくれたわ」
僕は手をこすり合わせた。じんわりと背中に汗が滲んでいくのを感じた。
雫の母親は微笑んだ。虚ろな目で続ける。
「でも、どうしても許せないのよね。雫と同じ目に遭うべきだわ」
「え?」
理解できなくて思考が停止する。
雫の母親は微笑んだ。
「イジメてた連中よ。あいつらにされたことの心の傷が完全に癒えてなかったのよ。だから雫は死んだ。そうよ、そうに決まっているわ」
ぶつぶつと恨み言を呟く。完全に僕達を見ていなかった。背中に氷を当てられたような感覚に苛まれる。
「お母さん、ちょっと……」
ハーフツインの女の子が近づいてきた。雫の妹・司だ。
「すみません、いろいろとご迷惑をおかけして」
反応に困り、僕らは顔を見合わせた。
司は僕達を凝視した。
「お姉ちゃんが自殺した理由に何か心当たりはありませんか?」
疑うような目つきだった。
雫の死体を思い出す。
彼女の死体と一緒だった。嫌な目をしている。
「し、知りません、な、何も」
口が回らなかった。動揺は二人にも伝播した。全員でよくわからないことを話してしまう。
「そうですか」
司は感情の読めない顔で頷いた。
三日後、雫の母親が逮捕された。
娘の元同級生二人を刺し殺したのだ。
▼
雫の話題は禁忌と化した。わざわざ最悪の思い出を、語ろうという気にはなれなかったのだ。
半年が過ぎ、ようやく雫のことを忘れかけていた頃。
あかねが青白い顔をして告げた。
「最近、つけられているの」
「誰にだよ」
ケンタが興味なさそうに訊く。
ケンタは雫の事件以降、サボりがちだったサッカー部に顔を出すようになった。今ではレギュラーで副キャプテンをしているという。
一方、僕は新しく後輩の彼女を作っていた。それなりに幸せな日々を送っている。
あかねは溜息交じりに言った。
「雫の妹よ」
沈黙が落ちた。
雫の名前は禁句ワードだ。しかし、事態が事態だった。
「本当なの、それ?」
僕が訊くと、あかねは眉を吊り上げた。
「嘘つくわけないでしょ。つまらない質問しないで」
「なぜそんなことをされてるんだよ?」
「知らないわよ。向こうは、ただ黙ってついてくるだけ」
「聞けばいいじゃねえか。何のご用ですか、って」
ケンタがスナック菓子に手をつけながら言う。
「あんただったら訊けるわけ? じゃあ、私の代わりに訊いきてよ」
「怒るなって……」
二人のやりとりを聞きながら、僕は焦燥感に駆られた。嫌な予感がしたのだ。
数日後、彼女とデートをしていたら視線を感じた。振り返ると、制服姿の女の子が後ろを歩いていた。司だった。葬式で会った時より大人びて見えた。表情を観察して、ぞわっとした。感情の色が何一つ見えなかったからだ。
結局、その日は一日中つけ回された。
それ以降も、つけ回しは継続され、他の二人も同じような被害に遭った。
「司ちゃんのこと、どうしたらいいと思う?」
大学の食堂で僕ら三人は小声で話し合った。
「どうするもこうするも……無視するしかねえんじゃねえか」
ケンタが言う。目が充血していた。ストレスのせいか、単なる寝不足か、判断はつかないが、良好な健康状態とは言えなかった。それは僕ら二人にも同じことが言える。
「もう嫌……」
あかねが言った。憔悴しきった顔をしている。
「雫のことを、イジメなければよかったのよ……」
「おい!」
ケンタが声を荒げる。
「今更、そんなこと言っても遅いだろうが。終わったことをぐちぐち言うな」
「でも、私達のせいで、三人が死んだ。妹もおかしくなってる」
「俺達は悪くねえ。ちょっとしたイジリで死ぬ奴がおかしいんだ。あんなの、社会でやっていけるわけなかった。メンタルがもろ過ぎる。俺達はきっかけに過ぎない。遅かれ早かれ、あいつは自殺してたよ」
ケンタは声を潜めて言った。目がぎらついている。反論は一切許さない。そう告げているようだった。
「そんなの、自分を正当化したいだけでしょ!」
あかねが大声を出す。周囲の視線が集まった。
「わ、私はもう無理よ! 耐えられない! だから、全部ぶちまける。真実を言う。妹さんに本当のことを言うわ」
「落ち着きなって」
僕は慌てて立ち上がった。肩に手を置こうとする。
「触らないで! 一番気に食わないのはあんたよ! あんた、自分は被害者側だと思ってるでしょ! 知ってるのよ!」
「そんなことない」
「もういい! あんたらとは終わりよ! 全部ここでぶちまけてやる!」
ケンタが席を立った。拳を振り上げ、あかねの頬をぶった。あかねは床に倒れ、背中を丸めてむせび泣いてしまう。
人が人を殴るところをリアルに見るのは初めてだった。唖然とする。
悲鳴があがった。
ケンタは落ち着いた動作で、あかねに近寄った。髪を掴み、頭を持ち上げる。耳元で何かを囁いた。あかねは泣き止んだ。唇を震わせ、視線をあちこちに向けている。感情の処理が追い付ていないように見えた。
警備員がやって来る。
僕が事情を説明した。雫の名前を伏せ、単なる喧嘩だと伝えた。
▼
あかねはおかしくなった。常に人目を気にしながら背中を丸めて行動するようになった。ケンタが殴り、何かを囁いたせいだろう。
相変わらず、司は僕らをつけ回した。いい加減、こちらから、何かアクションを起こすべきではないか。ケンタに相談したが「放っておけ」と一蹴された。吹っ切れたのかもしれない。あかねに暴行を働いた後、ケンタはサッカー部は退部した。今は女遊びに明け暮れている。
僕は後輩の彼女に別れを告げた。肉体の相性がよくなかったのだ。
三年の春。大学近くのカフェに入ると、あかねが窓際の席に座っていた。何かを書いているようだった。心配になって近づく。
「なっ……」
怖気が走った。
雫の遺書とまったく同じことをA4の紙に書いていたのだ。
「あかね!」
声を掛ける。しかしあかねは、遺書を書き続けた。
ペンを奪い取る。
あかねは、はっと我に返ったようだった。僕を見てから、慌てて紙を隠す。
「これは違うのよ」
「何が違うんだ?」
「私の意思じゃないの」
彼女の言い分はこうだった。
ここ一週間、ルーズリーフやノートに、雫の書いたものと全く同じ文を書いてしまうというのだ。まったく意識はなく、気づいたら文章ができあがっているという話だった。
「このことはケンタに言わないで……殺されるから……」
懇願するような目で言われた。恐怖に震えていた。囁かれた内容を思い返しているのだろう。
「わかった。約束する」
昔の、つんけんしていた頃のあかねとは別人のようだった。
ふいに視線を感じて振り返る。入口近くの席に、司が座っていた。いつもの制服姿で、僕らを見つめている。その顔には、やはり感情の色がなかった。
あかねの話が本当なら、まずい事態だ。約束を守れそうにない。
僕は紙を奪い取り、くしゃくしゃに丸めると、ポケットの中に押し込んだ。
▼
「あかねを殺そう」
ケンタが言った。
大学近くの公園だった。すでに日は沈みかけ、人気が無くなっている。
僕は苦笑した。冗談だろ、と言い掛け、口を閉ざす。
ケンタは目をぎらつかせていた。激しく貧乏ゆすりをしている。
「あかねはリスクだ。俺達の秘密がばれちまうぞ」
僕は溜息交じりに言った。
「このままにしておくのは確かにリスクだ。でも、逆に言うと、チャンスでもあるんじゃないか」
「どういうことだよ?」
「頭が変になってるんだ。誰もあかねの言うことなんて信じない」
ケンタは天を仰いだ。近くの電灯にたかった虫を眺める。
ケンタは唇を歪めて言った。
「だが、信じる奴はいる、あのイカれた妹だ」
確かに、彼女なら信じるだろう。
「遺書の文面を書いているってことは、暴かれたいってことだ。遅かれ早かれ、あかねは口を割る。このままにはしておけねえだろ」
「そうだけど……」
「お前」
睨まれる。
僕のことかと思った。しかし、違った。
ケンタは立ち上がった。
「お前! 見てるだろ! そこのお前だよ! こっち来いや!」
草むらに叫んだ。どう見ても、人影はない。
僕は唖然とした。
ケンタは腰を落とした。クソが、と呟く。
「最近、司が人を雇ってる。俺がなんでサッカー部を辞めたと思う? スパイがいたからだよ。一人じゃねえぞ。何人も。何人もいやがった。金を渡して懐柔したのか、それとも、元からスパイだったのか……どちらにしろ油断できねえ」
視線が合う。
肌が粟立った。
雫の死体と一緒の目をしていた。濁った目に覗き込まれ、肝が冷える。
「お前、大丈夫だよな?」
「え」
「スパイじゃないよな?」
ポケットから何かを取り出す。街灯に照らされ、鈍く光っていた。サバイバルナイフだと気づき、血の気が引いてくのを感じた。
「そ、そんなわけないって」
「だよな。なら、それを証明しないとな。明日、あかねを始末する。一緒にやるぞ」
「それは……でも……」
ナイフの切っ先を向けてくる。僕は頷いた。わかった、わかったから、と繰り返した。
▼
逃げることを危惧したのだろう。お前の家に泊まる、と言われた。断れなかった。断ったら何をされるか、わからなかったからだ。
眠れないまま一夜を過ごした。何度、逃げようと思ったか。朝になると、ケンタは大きく伸びをした。体調は良好のようだった。
思い直してくれるかもしれない。そんな期待を持っていたが、「やるぞ」と言われた。
二人であかねの家に向かった。郊外の小さな一戸建てだ。表札が出ている。
ケンタがインターホンのチャイムを鳴らした。数分後、七十代ほどの老婆が姿を現した。ケンタが、あかねの部屋に通してくれと話をする。
老婆は警戒心がなく、簡単にあげてくれた。ケンタは老婆も殺すのだろうか。激しい頭痛と吐き気に襲われる。
三人で足を進めた。廊下の突き当りの部屋のふすまを老婆が開ける。
あかねがドアノブで首を吊っていた。白目を向き、犬のように舌を出している。
黒見と同じ自殺方法だ。
老婆が腰を抜かして倒れる。頭を打ったのか、ぴくりとも動かなくなった。
僕らは老婆を無視して、あかねに近寄った。いろいろと試して、死んでいることを確認した。
僕は内心、ほっとしていた。これでさまざまな厄介事から解放される。
まずは遺書を探した。彼女のズボンのポケットから見つかった。便箋を開け、中身を読む。
『もう限界です。私達は許されないことをしました。沢森あかね、速水ケンタ、春木友則の三名で、黒見雫を自殺に追い込んだのです』
だらだらと出来事が書き綴られていた。
僕らは紙をびりびりに破き、トイレに流した。サバイバルナイフは指紋を拭い、戸棚の奥に隠した。警察と救急車を呼ぶ。
老婆は無事だった。救急車が来てすぐ、目を覚ましたのだ。たんこぶ程度で済んだらしい。
僕らは警察の事情聴取を受けた。前回より厳しくされた。二度同じような場面に遭遇しているから、疑いの目を向けられたのだろう。しかし、乗り切れた。
ケンタの父が手を回してくれたのかもしれない。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
すべて終わった。
僕らは生き残れたのだ。
▼
大学四年の春。
僕は月野うさぎという子と付き合った。これまで出会った中で最高の女性だった。美人で優しく頭がいいのだ。僕にはもったいない女性だった。
僕は人をどこか見下し、常に自分が正しいという傲慢な考えを持っていた気がする。しかし、それは昔の話だ。うさぎとの交流を経て、自分の幼稚さに気づくことができた。
うさぎと公園に出かけた。自然の中を歩く。ふいに視線を感じて振り返ると、司がいた。僕らを追いかけてきている。司は、僕らと同じ大学に進学していた。僕らに執着することで、家族を失った苦しみを埋めようとしているのだろう。
二人でベンチに腰掛ける。
「ケンタくんとは最近会ってるの?」
「三日前に会ったよ」
ケンタは出家して寺で生活している。権力者の父と絶縁して丸坊主となった。最初は気が狂ってしまったのかと思ったが、彼は彼なりに、雫の件と向き合い、現実と格闘しているのだ。あの欲まみれだったケンタが、寺の生活に順応できるとは最初、到底思えなかった。しかし、一歩ずつ前に進み、今では住職の信頼を勝ち得ているらしい。
僕らは成長している。過去の自分の過ちと向き合いながら。
「ストーカーさん、まだいるね」
うさぎが言う。
「ま、いずれ飽きるんじゃないかな」
うさぎには、雫の件を話していた。
流石に刺激が強いので、脚色はしている。遺書を二度処分したことも話したが、どちらも、根も葉もないことを書かれていたから仕方なくやった、ということにしてある。
「そういえば、ちょっと気になったことがあるんだ」
うさぎが小首を傾げながら言う。彼女の耳につけられた長いイヤリングが風に揺れる。
「何かな?」
「告発系の遺書って普通、加害者の人に読ませないようにするよね。処分される可能性が高いから。でも、雫さんは、加害者の別荘で自殺して、その別荘の目立つところに遺書を置いた。それって変じゃない? 読まれたら処分されるに決まってるんだから」
細かいことを気にするな、と思う。
「ま、確かに変かもね。ただ、被害妄想で書かれた遺書だし、そんなの書いちゃうくらいおかしくなってたわけだから、整合性を気にする余裕はなかったんじゃないかな」
「なるほど~」
うさぎは満面の笑みを浮かべた。
「でも、遺書を読んでみたら、ちゃんと整合性は取れてるんだよね。事実ばかりが書かれていた。裏どりしたから間違いないよ」
「……え?」
困惑する。
いったい何を言っているのか。
うさぎは笑いながら言った。
「ケンタくん、毎日のように、雫さんの遺書を書いちゃうみたいなんだ。ほら、死んだ沢森あかねさん。彼女と同じ状態に陥ってるみたい。恐怖から逃れようと坊さんになろうとしているのに、ご愁傷様って感じだよね。処分したものを、こっそり読ませてもらったんだ」
理解が追い付かなかった。え、な、と意味不明な言葉を繰り返してしまう。
「なんで?」
ようやくまともな言葉を返せた。
「なんでって……。それは、気になったからだよ。わたし、好奇心が強いからね」
うさぎは頬を染めて言った。楽しくて仕方ない、という顔だった。
怖気が走った。
「わたし、実は探偵をしているんだ。司さんに雇われてるの。月野うさぎ、っていうのは偽名。雫さんの好きな漫画から取った名前なんだ」
「な、なにを言って……」
「あの時はびっくりしたな~。草むらに隠れてたら、ケンタくんに『そこのお前!』みたいに声を掛けられて。君も一緒にいたよね」
そんな前から、僕達のことを調査していたのか……?
「これってどういう……」
うさぎは立ち上がり、僕を見下ろす。
「正直、君らを法的に罰することは難しい。月の代わりにおしおきよ、ってことをしたかったんだけどね。でも、今回は超常的な何かが働いているっぽいから、わたしや司さんが手を下すまでもないかもしれないね」
「何を……」
「さっき、遺書をなぜ目立つところに置いていたのか、謎だって話をしたよね。私が思うに、あれは告発のための遺書じゃなかったんじゃないかな。君らに、遺書を隠蔽させるための罠だった」
「罠?」
「そう、罠。君らに罪悪感を植え付けるための罠であり呪いだった」
呪い? 何を言っているんだ、この馬鹿女は。
うさぎは頭がいいと思っていた。しかし、それは勘違いだったのだ。
腸が煮えくり返る。なぜ自分は、こんな女を信用してしまったのか。
うさぎを名乗る女は得意げに続けた。
「実際、あかねちゃんは罪悪感に押しつぶされて死んだ。今ケンタくんも罪悪感という呪いによって、壊れかけている」
僕は握りこぶしを固めて言った。
「僕はあかねやケンタとは違う。罪悪感なんかに潰されるほど弱くない」
「君は罪悪感が一番薄いよね。他人に責任転嫁する能力が高いからかな。そのおかげか、かなり抗えた」
でも、と続ける。
「そんな君もそろそろ限界みたいだ」
「なんだと?」
「ノート、読んでみないよ」
心臓が早鐘を打った。全身から汗が噴き出る。
鞄からノートを取り出した。適当なページを開く。
絶句した。
遺書が書かれていた。
雫のもの、あかねのもの、交互に書かれている。ノートの半分以上が、遺書の文面で埋め尽くされていた。間違いなく僕の筆跡だった。
ノートを投げ捨てる。あまりのおぞましさに、吐き気を覚えた。
「ぼ、僕はこんなの書いてないぞ……。仕込んだノートだろ……え?」
うさぎの姿がなかった。司の姿も見当たらない。
気づいたら、薄暗くなり、電灯がついていた。午後二時だったはずだ。何が起きているのか。
さきほど投げたはずのノートが手元に戻っていた。さきほどよりノートを消費している。新たに遺書が書き込まれていた。
「うわあああ」
気が狂いそうだった。
雫が体を操っているのか?
そんな馬鹿な……。
でも、そうとしか考えられない。
僕は立ち上がった。腹に力を込めて口を開く。
「雫! 僕は悪くないだろ! やめてくれ! 頼むから!」
周囲の視線がこちらに向く。小学生たちがくすくすと笑った。高校生のカップルが、顔をしかめて僕から遠ざかった。スマホを向け、撮影してくる若者を、視界の端に捉える。
見るな。僕を見るな。
雫の死体を思い出す。
彼女の目は、僕を責めていた。
自分を今、狂おうとしている。しかし、まだ理性は残っていた。
僕は雫から恨まれていた。イジメを止めなかったからだ。本気で味方になるつもりがなかったからだ。
あの時に戻れたら、絶対に助ける。だから許してくれ。
何度も心の中で訴えかける。
同時に、理性は確信していた。
もうすべて手遅れだということを。
遺書は捨てても蘇る 円藤飛鳥 @endou0
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