第26話 ニールの失敗

 灰色の雲に月が覆われているものの、薄っすらと隠し切れない光が弧を描き照らしている。雲の切れ間から見え隠れする星々の光の下、白銀の仮面をつけたニールは墓碑に祈りを捧げていた。


——兄上。すみません、もう暫くの間、に時間をください。


 もしもミルドレットにシハイルの正体が私であると知られたのなら、彼女は逃げ出すだろう。自分のような血に塗れた暗殺者の伴侶になど、誰がなりたいものか。


 決して、知られる訳にはいかない……。


 シハイルの婚姻の暁には仮面を外す必要があるが、私は代わりに別の仮面を被ることになる。暗殺者として随分長く闇に身を投じて来た。声色は元より、変装も得意とすることがこういった形で役立つとは思いもしなかった。

 ……或いは紫焔の魔導士グォドレイに依頼し、兄の顔に変える様な魔術を施して貰うのも良いだろう。


『私』がこの世から完全に姿を消したのならば。ミルドレットは、少しは悲しんでくれるだろうか。寂しく思ってくれるだろうか。


 そんな期待を持ってはいけないと思いながらも、ニールは抗いようのない強い欲念に蝕まれた。




——二年前——

 兄であるヒュリムトン王太子シハイルの訃報を受けた後、ニールは自分がシハイルの身代わりとなる為、ヒュリムトンに戻る旨をミルドレットの父であるルーデンベルン王、アーヴィング・ガブレビノ・ルーデンベルンに伝えた。

 アーヴィングは静かに長いため息を吐き、ミルドレットと同じ銀色の髪の頭を掻きながら、つまらない者を見る様に眉を寄せ、ニールを見つめた。


「ヒュリムトン国王は王太子の死を隠すつもりであるということか。残念だが、暗殺者のお前にアリテミラを嫁がせるつもりはない」

「私にもそのつもりはございません。しかし、ヒュリムトン王は黙ってはいますまい。どうなさるおつもりですか?」

「ふむ……あれが見つかったと聞いたが?」


 ミルドレットの事を言っているのだとすぐに察したニールは、首を左右に振った。


「そもそも修道院へ入れたという時点で、彼女は王族からの捨児となったのでは? いくら元第二王女であるとはいえ、そのような者をヒュリムトン王は認めないと思いますが」


——折角修道院から逃げおおせた彼女を、再び牢獄の様な状況に放り込まれてたまるものか。


「うむ。だからお前が父親を説得するのだろう?」

「何故私が?」


 アーヴィングは肩を揺らして笑った。


「余が知っているからだ。お前の正体をな。お前をのは余だ」


 ニールは笑顔のまま僅かに指先を動かした。


「無駄だぞ、ニール。お前に余を殺せはせぬ。その為のだ」


——契約の魔術。

 どこまでも厄介な代物だ。ニールの母であるユーリ・ザティア・ベルンリッヒ・ヒュリムトンがアーヴィングと結んだ契約には、ニールが『最も大切にしている者』とアーヴィングが共鳴し、ニールがアーヴィングを傷つけようものならば、等しく『最も大切にしている者』にも同等の報復を受けるという契約だった。


 ニールには大切にしている者など存在しない。その場合、ニール本人の命が潰えることとなるだろう。恐らくユーリは自分が身代わりとなる腹積もりであったのだろうが、残念ながらニールにとって母という存在はさほど重要性が無い。

 そういう思いを汲んでも尚、息子を鎖でつなぎ止めたいと考えた結果がそんなくだらない契約というわけなのだ。


 つまり、ヒュリムトンとルーデンベルンは、シハイルの婚姻で人質を取られている状態が入れ替わる契約となるというわけだ。その対象がアリテミラではなく、捨子であるミルドレットとなるならば、ヒュリムトンにとっては対価に見合わない。そこを説得するのがニールの役目であるとアーヴィングは言っているのだ。


「……良いでしょう。お望み通り、ミルドレット様をヒュリムトンに王太子妃候補として連れて行きます」


 ヒュリムトン国王夫妻を説得するのは骨が折れるだろう。特に王妃である母は、アリテミラをいたく気に入っていた。彼女が幼少の頃より、シハイルの婚約者として迎え入れたいと話していた姿を、ニールは赤の他人の話題であるかのように見聞きしていた。

 ミルドレットに少しでもアリテミラに対抗しうる力があれば良いが……。


 ニールは下見の為、変装をして紫焔の魔導士グォドレイの塒に依頼人として赴いた。ミルドレットを最期に見たのは、修道院から逃げ出す手助けをした時の事だ。十代の女性というものはたったの数年程度でも見違える程に印象が変わるものだ。

 恐らく美しい女性へと成長していることだろうと期待し、ニールは洞窟内の古びた小屋へと近づいた。


 しかし、何やら歌声が聞こえてきたので、慌てて小屋の影に身を隠した。そっと室内を窓から覗き込むと、歌の様に言葉を紡ぎ詠唱をする銀髪の女性の姿が目に留まった。


 思わず聞き惚れる程の美しい声色に、輝く銀色の髪。彼女はサファイアの様な深い蒼の瞳をゆっくりと瞬きさせ、細くしなやかな指先をふわりと動かし、うっとりと楽しむ様に詠唱しながら魔法薬を精製していた。


 それはまるで、神の御使いが神聖な儀式を行うかのような様子で、ニールは思わずサッと窓から身を離し、顔を背けた。


——あんな、美しい人間がこの世に存在するのか……?


 ミルドレットは、ニールの想像よりも遥かに美しく成長していたのだ。


——なんということだ。あの美しさならばアリテミラ以上だ。恐らくヒュリムトン国王夫妻もミルドレットを気に入るに違いない。更には紫焔の魔導士グォドレイの弟子なのだから、相当な魔術の使い手であるに違いない……!


 ニールはドキドキと鼓動する心臓が騒がしく、必死になって息を顰めて壁に寄りかかっていた。すると、彼女は満足気に声を発した。


「よーし、出来た! 『おなら出なくなる魔法薬』! あたしってば天才っ!!」


——そうでもないかもしれない……。


「あとは、えーともう一つ作らなきゃ。『鼻毛が伸びる魔法薬』」


——だめかもしれない……。




 ニールは小屋の壁に張り付きながら、頬をヒク付かせた二年前の事を思い出し、くすりと笑った。

 思えばあの時から、ミルドレットには厳しい気品を身に着ける訓練をしなければならないと分かっていたというのに、どうしてヒュリムトンに連れて行く事に決めたのか。


『魔法薬作るのって、楽しいなぁ~!』


——そうか、あの時彼女がそう言って笑ったからだ。心から幸せそうに。

 美しい容姿だというのに酷いボロを纏った姿でだ。


 もしも、ヒュリムトンに彼女を連れていったのなら、煌びやかな装いをさせ、もっと彼女は幸せそうに笑ってくれるのではないかと。私はその笑顔を彼女に与えられるのだという支配欲にも似た欲求に駆られたのだ。


 それなのに、ヒュリムトンに来てからというものの、彼女は少しも幸せそうに笑う事が無かった。豪華な宝石を贈っても、煌びやかなドレスを贈っても、嬉しそうには笑うものの、幸せそうに笑ってはくれない。


 私には、彼女を幸せにすることなど不可能なのだろうか……。


「わ! 王太子殿下! びっくりした。居ると思わなかったから」


 ニールがその声に振り向くと、白銀の仮面ごしに唖然とした様子のミルドレットが見えた。彼女は墓碑に手向ける為の花を手にしていた。


 コホン、と咳払いをし、低いシハイルの声色へと調整する。


「私も驚きました。この様な夜更けに貴方がいらっしゃるとは」


 ミルドレットは申し訳なさそうに僅かに俯いた。


「その……お師匠様から魔法薬の作り方を指導して貰ってて、日中はなかなかここに来れなくてさ。あ、いや……えーと、来れないのです」


 言葉遣いを正そうと言い直すミルドレットを可愛らしく思い、ニールはふっと笑った。


「そうだ! 謝らなきゃって、あ。えーと。謝罪しなければと思っていたのです。お師匠様が城門を破壊してしまったので」

「ええ。復旧作業に皆忙しくしていますね」

「本当にごめんなさい! 謝って済むことではないけれど、師に代わって償いはします!」


——償い……か。

 ニールは、シハイルに対して一生懸命に礼を尽くすミルドレットを見て、不愉快に思った。まるで亡き兄にミルドレットを奪われた様な気になったのだ。

 最初から自分のものではないというのにと考えながらも、沸き起こる不愉快な気分はどんどんと膨れ上がっていった。


「それと、マントもまたお借りしたままだったのに、あの……今日会えるとは思っていなかったので、持って来て無くて」

「……いつでも結構ですよ」

「でも、あたし。王太子殿下に沢山借りばかり作っちゃって申し訳無くて」

「『借り』ですか」

「それに、お師匠様がとんでもない事言い出しちゃって! あたしを妻に迎えるだとか、本当に驚いちゃって」


 ニールの苛立ちが更に増した。

 ミルドレットにも、シハイルが平常を装いながらも怒りを持っている様に感じ、怒らせてしまったと思った。


「あ……ごめんなさい。なんか、あたし……」

「ミルドレット姫。貴方は王太子妃候補。つまりは、私の妃となる候補者である身ですね?」

「……はい」


カツリと靴音を立てて、ニールはミルドレットの側へと赴いた。

 長身の彼が、白銀の仮面を身に着けてミルドレットの前に立つと、威圧感を感じ、ミルドレットは僅かに後ずさろうとした。が、ニールが彼女の肩を掴み、それを赦さなかった。


「貴方を『応援します』と、私は確かにお伝えしたはずですが」


 彼の気迫に、ミルドレットは返事をすることも頷く事もできずに、白銀の仮面を見上げた。雲に覆われた心許ない月明かりに照らされて、鷹を象り顔半分を覆い隠すそれは恐ろしい仮面の様にも見えた。


「貴方は言ったはずです。私の妃となる者はきっと『幸せ』であると。貴方もなりたかったと言ったではありませんか」


サファイアの瞳を向けたまま、ミルドレットは身動きが取れなかった。


——どうしよう。王太子殿下、すっごく怒ってる……。


「それなのに、私の前で師と口づけを赦すなどと」

「あ……あれは、突然だったから!」


 ニールの脳裏にミルドレットに口づけをするグォドレイの姿が浮かんだ。勝ち誇った様に笑い、ペロリと舌なめずりをする様子がだ。

 わかっている。あれは契約の魔術を解く為の行為だ。それでも……。


——ミルドレットは、の物だ!!


 ニールはミルドレットの背に手を回すと、強引に口づけをした。グォドレイが見せつけるようにしたものよりもずっと濃厚に、自分を刻み付けるかのように。


 ミルドレットが怯えているのか、震えている。それでもニールは自分を止める事が出来なかった。


「待っ……」


 逃れようと抵抗する彼女を押さえつけるように抱きしめて、首筋にかぶりつかんばかりにぎゅっと吸った。


「痛っ!! 止め……」


 ミルドレットの首筋に赤い痕がくっきりと残った。それはミルドレット自身にも分かった。


——どうしよう。これを、、見られたくない!!


「待って、止めて!」

「貴方は、私の物です」

違う!! シハイル王太子殿下!!」


——『シハイル』……? そうだ、私は今、兄上だ……。


 ニールは、ミルドレットを抱きしめていた手をパッと離した。


——ニールではなく、今、ミルドレットをわが物にしたということになるのか……?


 必死に冷静になろうとしながら、ニールはミルドレットを見た。


 彼女は、サファイアの様な瞳からボロボロと涙を零していた。


「……すみません、ミルドレット姫。私は」


彼女は首を左右に振った。


「これで、少しは『借り』を返せた?」

「……!!!」

「はは……あたし、なんかちょっと。混乱しちゃって。ごめん」


ミルドレットが顔を擦ると、瞳に溜まっていた涙がポタポタと零れ落ちた。


「なんで泣いてるのかよく分かんないし。兎に角、今日はもう帰るね。今度コート返すから」


そう言い残すと、ミルドレットは踵を返し、パッと駆けて行った。


 彼女の後ろ姿を暫く呆然と見つめた後、ニールは白銀の仮面を外し、叩きつけた。陶器で出来た仮面は音を立てて粉々に割れた。

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