第20話 暗殺者のジレンマ

 煌々と輝く月の下、ニールは白銀の仮面を身に着けて墓碑を見上げた。白く清い光が墓碑を照らし出し、あたかも神聖な空間が創り出されている様で、ほんの僅かに不気味さが伴い、また、無風である事が一層に異界であるかの如く演出されている。


 指先でそっと固い仮面に触れ、溜息を一つ洩らした。

 皮肉なものだと思った。ニールで居る時は仮面をつけない代わりに白銀の甲冑を身に着ける。しかし、シハイルで居る時には、白銀の仮面をつけ、甲冑を外すのだ。どちらも自身を覆い隠し、閉じ込めている様な気分だ。




——ヒュリムトンの王城に戻ったニールの目に飛び込んだのは、塞ぎこんで言葉を発しなくなったミルドレットの姿だった。

 広い部屋の隅で、引き裂かれたドレスを脱ぎ捨てて下着姿で地べたに膝を抱えて座り、侍女達が何を言っても答えずに、ただただすすり泣くだけの壊れた人形の様な彼女を見たとき、ニールは心臓が張り裂けんばかりの痛みを味わった。


 ヴィンセントは「すまない」と、瞳を擦って、ニールにお茶会での出来事を事細かに話して聞かせた。王妃に罪人扱いされ、背中の鞭打ちの痕を皆の前で晒された後から、ミルドレットは小さな子供の様になってしまったのだそうだ。

 偶に発する言葉は「ごめんなさい」というだけで、慰めようと手を伸ばすと悲鳴を発するのだ。カタカタと震え、まるで何かに怯えているようにも見えるその様子に、ヴィンセントは近づくことすらできず、ただ遠くから眺める他無かったのだという。

 ニールはヴィンセントにお礼を言うと、皆に退室してもらい、ゆっくりとミルドレットの側へと赴いた。彼女はニールが近づいて来る様子に気づき、一層身を小さく縮めたので、優しく声を掛けた。


「ミルドレット様。ご安心ください、ニールです。ニール・マクレイです」


 ニールが声を掛けると、ミルドレットはほんの少しだけ顔を上げた。サファイアの様な瞳は怯えきっており、ニールは穏やかな笑みを向け頷いた後、ミルドレットのすぐ隣に自らも地べたに座って寄り添った。


 長い時間そのまま黙ってミルドレットの呼吸音に耳を傾けて、彼女がそこに存在している事にニールは深く感謝した。


 自分のわがままでこうして彼女を連れてきてしまったことを悔いる。


——ミルドレットには、彼女に似合った色のついた世界で生きるべきだというのに。


「明日、紫焔しえんの魔導士グォドレイ氏の住処まで貴方を送り届けます」


 ニールは意を決して言葉を吐いたが、ミルドレットは何も答えなかった。


「そこならば、ミルドレット様を傷つける者は誰もおりません。氏も貴方をお守りくださるでしょう。契約の魔術についても、紫焔の魔導士と謡われる彼ならばどうにか解いてくれるやもしれません」


 ニールは包装された箱をミルドレットの側に置いた。


「こちらは、注文していたシハイル王太子殿下のマントです。お渡しになるか、それともこのまま残していかれるかはご判断ください」


 そう伝えたものの、ミルドレットの耳には恐らく届いていないだろうと思えた。ニールが小さくため息をつき立ち上がろうとすると、ミルドレットがくぐもった声を発した。


「……やだ」


 ニールはミルドレットをのぞき込んでゆっくりと「何がです?」と、聞いたが、彼女はそれ以上言葉を発する事をせず、両膝を抱えて小さく体を縮めてしまった。




——墓碑の前で、ニールは祈りながら、月を見上げた。白銀の仮面の下から覗く月は遠く見えた。


 永遠にミルドレットの隣に座っていたかった。


 例え彼女が何も言わずとも、二人で互いの呼吸を聞き合って、存在を確かめていられるだけで幸せだった。


 ニールは白銀の仮面越しに見上げる月を憎らしく思った。


 ミルドレットの側だけが、『ニール』として居られる唯一の場所だった。これからはもうシハイルとして生きていく道のみなのだから。自分への別れを告げる為、こうして墓碑を訪れて、ただ一人喪に服すべく祈りを捧げたのだ。


 これほどに寂しくひっそりとした葬礼はあるだろうか。


 もう二度と、『ニール・マクレイ』はこの世で名を呼ばれる事は無いだろう。

 墓碑の前で跪き祈りを捧げた後、ニールは王城へと戻ろうと振り向いた。


——そこには、銀髪にサファイアの様な瞳をした少女がぽつりと立っていた。

 ドレスも着ずに下着姿のまま、シハイルのマントが入った箱を両手に抱え、申し訳なさそうに眉を下げ、白銀の仮面を身に着けたニールを見つめていたのだ。


 ニールは絶句し、暫くミルドレットを見つめた後に、慌てて自らのマントを外した。彼女にかけてやろうと側に寄った時、ミルドレットは両手に抱えた箱を差し出した。


「王太子殿下。これ、遅くなっちゃったけど。渡さなきゃって思って」

「ミルドレット姫……」

「前に、雨の日に借りたマント。あたし、ダメにしちゃって。その、新しく仕立てて貰ったんだ。気にいって貰えるかわかんないけどお詫び……」

「それを渡す為にこちらへ?」


ミルドレットは首を左右振った後、曖昧そうに頷いた。


「毎日ここへは来てたよ。王太子殿下には会えなかったけど、約束したから。明日にはあたしは居なくなるから、せめてマントをここに置いておけば、気づいてくれるかなって思ったんだ」


——毎日。『ニール』の為にここを訪れてくれていた。

 彼女だけが、『ニール』の存在を認め、大切にしてくれている。


 ニールは自らのマントをミルドレットの両肩にかけ、そのまま彼女を抱きしめた。


「あ、ちょっと。箱が潰れちゃう……」


 戸惑うミルドレットに構わずにぎゅっと抱きしめると、彼女の温もりが伝わった。白銀の甲冑を身に着けていない今、彼女の存在がより鮮明に感じられる。


 いつから自分の中で彼女の存在が『希望』から『愛しい人』へと変わったのだろうか。


 ミルドレットと居ると、自分は人に戻れる気さえした。闇の世界が光で照らされ、彼女が見る色のついた世界と同じ世界に、自分も生きられるような気がしたのだ。


「ごめん。あたしを応援してくれるって言ってたのに、逃げ出しちゃう形になっちゃって」

「いえ、良いのです。貴方さえ幸せであれば」

「どうかな。あたしには幸せなんか似合わないよ」


——紫焔の魔導士グォドレイの元へ帰ったとしても、彼女は幸せではないと言うのか……?


「……酷く心を傷つけられたのだと聞き心配しました。もう、大丈夫なのですか?」

「うん。なんだかすごく寂しくなって、『嫌だ』って思ったら目が覚めた」


ミルドレットの部屋で彼女と二人並んで座った後、去り際に彼女はニールに『やだ』と言った。あの時は問いかけに答えてくれなかったが、今ならば答えてくれるだろうか。


「……何が『嫌』だったのですか?」


不安げに問いかけたニールの腕の中で、ミルドレットふっと笑った。


「これを殿下に伝えるのはちょっと気が引けるな」

「気にしませんから、教えてください」


 懇願するように、しかし落ち着いた声でニールが問いかけると、くっ……と、ミルドレットが肩を小刻みに揺らした。ポロポロと彼女の頬を涙がこぼれ落ちる。

——これはきっと悲しい涙だろう。明日、『ニール』として彼女と会う時は、飴玉を沢山用意しておかなければ、とニールは考えた。


「……大好きな人とお別れになっちゃうから。それが堪らなく寂しくて嫌だったんだ!」


——『大好きな人』……?

 ミルドレットの言葉を聞いてニールは愕然とした。


 色恋に全く興味が無さそうなミルドレットが、まさか恋に落ちるとはと青ざめた。

 一体誰のことだと考えて、浅黒い肌に艶やかな黒髪をした男の顔が脳裏に浮かんだ。


——ミルドレットは、恋心を抱いているのか……?


 ニールはミルドレットを抱きしめたまま動揺した。


 それならば紫焔の魔導士の住処に帰すより、ユジェイに送って行った方がいいのだろうか。いいや、契約の魔術がある限り、この国を出たところで追手がつくだろう。

 ではヴィンセントに伝えれば、彼ならば二つ返事で喜んでミルドレットを妻と迎えたがるのではないか。ヒュリムトン王もユジェイの第三王子である彼に爵位を与える事をいとわないだろうし、人の良いあの男の元ならば、ミルドレットは大切にされるだろうし、幸せにもなれるだろう。


——いや、でもすごく嫌だ! ものすごく嫌だっ!!


 ヴィンセントはいい奴だが、ミルドレットを渡したくはない。


「……絶対に嫌です」

「へ!? 何が!?」


 しまった。心の声を口に出してしまった……。と、ニールは困惑してだらだらと汗を掻いた。

 こうも動揺するのは、もしかしたら生まれて初めての事かもしれないと思える程にニールは動揺した。


「嫌って、何が?」


 聞き直したミルドレットに、ニールは何と答えたものかと更に慌てふためいた。


「あ、いえ……えーとですね。えーと……なんでしょうね? すみません」


——何を言っているのだろうか。私は馬鹿か!?

 白銀の仮面の下で赤面したニールに、ミルドレットはブハッ!! と、吹き出した。


「あんたって、変わった王子様だよね。お茶会でのこと、聞いたんでしょ? それなのにちっとも嫌がらないし、それどころか『罪人』だなんて言われたあたしにそんな風に謝ってくれるなんて」


 美しいサファイアの様な瞳でニールを見上げて、ミルドレットは微笑んだ。


「あんたの妻になる女性は、きっと幸せだと思うよ」


——そんなはずはない。勿論全力で護ると誓うが、自分のような暗殺者と結婚する者は、恐らく共に色の無い灰色の世界を生きる事になるだろう。

 そして、ヒュリムトンの国の掟に縛られて、苦しむのだ……。


「……幸せでしょうか」


自嘲気味に言ったニールに、ミルドレットはコクリと頷いた。


「うん。あたしだってなりたかったもん」


 ミルドレットの言葉を聞いて、ニールは彼女と共に過ごす色のついた世界を想像した。仮面を外し、心から笑い合い、感情を殺す事無く素直なまま生きる事のできる世界。


「……本当に?」

「勿論! 殿下は、こんなあたしでも受け入れてくれる心の広い方だから。逢えてホントに良かった。あたし、ずっと応援してるね」


 月の光に照らされてミルドレットの銀髪が輝き、まるで月の女神のようにニールの瞳には映った。思わず彼女の頬に触れると、驚く程に柔らかい感触に執拗に心が揺さぶられた。


——この女神を手放したくない。少しでも心を通わせたい。


「王太子殿下?」


 桜色の唇が動く様を、ニールはじっと見つめた。


「どうしたの?」


ゆっくりと唇を近づけてニールは瞳を閉じた。

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