第15話 ニール・マクレイ
ミルドレットを部屋まで送り届けた後、ニールは王城の離れへと足を向けた。魔術で隠された裏庭の花が咲き乱れる小道を通り抜け、
返り血のついた白銀の甲冑を小脇に抱え、ニールはわが物顔で青銅の扉を押し開き、離れの中へと脚を踏み入れた。
「シハイル!!」
悲鳴の様な声に呼び止められて、ニールは顔を上げた。広間の階段の上で、彼女は青ざめた様子で返り血
ユーリ・ザティア・ベルンリッヒ・ヒュリムトン。ヒュリムトン王国の王妃だ。
「その姿は、一体どうしたというのです!?」
「母上、お気になさらず。ただの返り血です故」
ニールはいつも通りの笑みを浮かべたまま王妃に答えた。
「お見苦しい姿をお見せしてしまい申し訳ございません。直ぐに洗い落とします」
「何を……一体何をしてきたというのです!? 貴方の代わりはもう居ないのですよ!?」
王妃の言葉にニールは僅かに拳を握りしめたが、ニコニコとした笑みは崩さないまま「わかっております」と頷いた。
「少々急いでおりますゆえ、失礼」
「シハイル! 貴方はヒュリムトンの唯一の王子なのですから、身勝手な行動を
「シハイル!!」と、叫び声を上げる王妃をその場に残し、ニールは離れの廊下を突っ切って奥にある浴室へと向かった。手早く入浴を済ませて返り血を綺麗さっぱりと洗い落とすと、ローブを羽織ってテラスに設置してある椅子へと腰かけた。
太陽はすっかりと沈み、空には星々が瞬いている。テーブルに用意されているワインの瓶を取り、グラスに注ぐと、真っ赤な液体がトクトクと音を発してグラスを満たした。口をつけようとして、それが昼間の惨状の血の様に思えて、グラスをテーブルに戻した。
シハイル・ベルンリッヒ・ヒュリムトンは、ニールの二つ上の兄だった。優しく思いやりのある彼は、誰からも好かれ、ニールにとっても自慢の兄で心から敬愛していた。
剣の腕も一流で、その強さは常軌を逸する程の腕前であり、次期国王としての威厳、カリスマ性共に抜きんでていたように思える。恐らく歴代のヒュリムトン王の誰よりも優れた王となったに違いない。
その彼が、二年前に暗殺された。
ニールはルーデンベルンより呼び戻され、白銀の仮面の上にシハイルと同じ髪色のウィッグを被り、王家の伝統を守り兄に成り代わる事を余儀なくされた。
有能な兄の真似事をすることは、ニール自身も優れた才能の持ち主であった為、特段どうということはなかった。
父であるヒュリムトン国王は何も言わず、黙ってニールを受け入れた。シハイルの仮面を外し、ニールとして行動する事にも口を出さず、劇でも見ているかのように傍観していた。
しかし、母である王妃はそうでは無かった。ミルドレットの側で仕える様子を不愉快そうに眉を寄せて見つめ、ことあるごとにこう言った。
『貴方の代わりはもう居ないのですよ!』
——母上は、死んだのが私であれば良かったのにと思っているのだろう。
優秀なシハイルを心の底から可愛がっていたのだから無理も無い。ニールは物心ついた頃にはヒュリムトンに身を置く事を赦されず、ミルドレットの父であるルーデンベルン王の下にその身を寄せていた。マクレイという、母の実家の家紋を名乗り、その身分を隠して。
十代になり発揮しだした彼の才覚は目を見張るもので、すぐさまルーデンベルン王のお気に入りとなり、汚れ仕事まで任される程の信頼を得た。
しかし、常に敵の中に身を置いていた彼の顔は、仮面を被らずとも過ごせる他国へと身を置いているにも関わず、皮肉にも外すことのできない笑顔の仮面を被る羽目になってしまったのだ。
暗殺もお手の物で、変装すら得意とする彼は、声色も自由に変えられた。シハイルに成り代わる時は少々低めに発するだけで、いとも
あまりにも長い間闇の世界に身を置き過ぎて居たようにも思える。両手が血に塗れようと、少し色のついた水が手についただけだと思う程度に感覚が麻痺していた。
光り輝く太陽が照らし出す風景も、闇夜に包まれた風景も、ニールの目には全く同じに映るのだ。
口から出る言葉も嘘なのか真なのか、自分でさえも分からなくなっていたし、どうでも良かった。
ただ淡々と生きているだけ。
幸せという色のついた言葉を理解することもできない彼は、恐怖すら感じない無感情な暗殺者に成り下がっていった。
ただ、ニールには唯一光があった。それは眩く甘い昔の思い出だ。
堅苦しい『品位』という『嘘』で塗り固められた王城の者達と異なり、
笑顔の仮面を被っている自分の代わりに、ミルドレットは泣いてくれている。
ニールは、彼女が修道院から逃げ出した時、わざと捜索隊を煙に巻いた。
王城という牢獄から、ミルドレットだけは開放してやりたかった。
自分はヒュリムトンの王城ではなく、ルーデンベルンの王城に囚われている。しかし心の拠り所であったミルドレットだけは、自由に。幸せという色のある世界に生きて欲しいと願い、それがニールの生きる唯一の希望となっていたのだ。
二度と故郷の地を踏む事は無いと分かっていたし、それでいいとすら思っていた。この生き方が自分に似合いなのだと。
故に、兄の死の知らせを聞いてヒュリムトンに戻った時には、久方ぶりに見る老け込んだ母の姿に驚いたものだった。そんな彼女から縋りつく様に『貴方の代わりはもう居ないのだ』と言われた時、ニールは体中を棘の鎖で縛りつけられた様な感覚を味わった。
ルーデンベルンでは色の無い生活を送りながらも、自分は『ニール』で居られた。
——名前を名乗る事すら、私には赦されないのか……。
ニールは溜息を吐き、視線を上げた。
離れのテラスから木々に阻まれてはいるものの、墓碑の塔頂が僅かに見え隠れしている。
兄であるシハイルはあの下に眠っているが、ニール自身の心もまた共に埋葬されていると思っていた。あの墓の下に眠るのは、兄ではなく自分なのだと思い込もうとした。
ニールは死んだのだ。いや、元々死んでいた。それならば、無感情のままシハイルとして生きようが、なんら変わりはない。
しかし、たった一つだけ、どうしても受け入れがたい事があった。
——アリテミラとの婚姻だ。
『兄上が死んだとき、私が死んだのだと思うようにしました。ですが、母上。私以外の者は違うでしょう!! 自分の妃となる者だけはどうか私に決めさせてください。それ以外は、全て受け入れるとお約束いたしますから!』
紫焔の魔導士グォドレイの師弟、ミルドレット・レイラ・ルーデンベルンの名が王都まで伝わった時、ニールは居てもたっても居られずに母である王妃にひれ伏さんばかりに頭を下げ、懇願した。彼がそうやって感情を露わに自らの願いを申し出たのは、それが最初であり唯一であった。
しかし、母は静かに首を横に振っただけで、それ以上ニールと会話をしようともせずに席を外した。
ニールは、何一つ『シハイルとしての権利』を赦されなかったのだ。
——手っ取り早く、ミルドレット以外の二人の王太子妃候補を殺してしまえばいい。
そう思って何度か隙をついて暗殺を試みたが、その度にニールの脳裏に悲しみに暮れるミルドレットの顔が色鮮やかに、そして鮮明に描き出されるのだ。
ミルドレットを傷つけて手に入れてしまえば、彼女の世界もまた闇に落ち、自分と同じく色の無い世界を彷徨う事になるのではと思えた。
それだけはだめだ。
ミルドレットには納得し、自ら進んで『シハイル』の妻となる道を選んで欲しい。そうでなければ意味がない。
深いため息を吐き、ニールはくっとワインを飲み干した。そして、空になったグラスを手に持ったまま空を見上げた。
夜空に瞬く星々を見つめながら、いつかミルドレットと共に心から幸せを噛みしめて笑える日が訪れる事を願わずにはいられなかった。
色の無い世界を生きている自分に、そんな未来が訪れる事はないと分かっていながらも……。
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